襲来


七松先輩は空いたもう片方の手で私の反対の手首を握った。
そのまま大きく息を吸い込んで、私の目を見据えて口を開く。
「私と、もがががが!」
他の六年生達が慌てた様子で七松先輩を取り押さえたから肝心なところは聞こえなかった。七松先輩、何を言いたかったんだろう?
先輩を取り押さえる六年生達が、お前ここでそれ言っちゃマズいだろ、とか、落ち着け早まるな、とか先輩に必死に語りかけてる。いったいなんなんだろう、余計に気になるなぁ。
「小平太の服は伊作に洗わせるから、戻って自分の制服を洗うといい」
私にそう言って七松先輩の手を解いてくれた六年生は、色白でストレートヘアの美人な先輩だった。
「ありがとうございます…」
私は忍たまの生徒をよく知らない。自分のクラスにあまり馴染めていないから、忍たまの噂を聞く機会がなかった。
「あっ」
そうだ、私、こぼした盆を片付けなきゃ。
思い出して振り返ったら、こぼしたはずの場所は粗方きれいに片付けられていた。どうやら善法寺先輩とおばちゃんが片付けてくれたようだ。
お礼を言わなきゃ。
「ぜっ、善法寺先輩!」
「うん?」
床を拭いていた善法寺先輩が顔を上げる。うわわわわ私から先輩に話しかけるなんて初めてだ。緊張する。
「あのっ、あ、ありが」
言葉がうまく喋れずにどもってしまう。ああ私ってば肝心なときにどうしていつもこうなの。変な子だと思われたらどうしよう。
最後まで言い終えないうちに私の言わんとすることを理解したようで、善法寺先輩はフッと笑った。
「こっちこそごめんね。お詫びに明日の夕飯は僕がおごるよ。今日はとりあえず服を洗っておいで。だいぶ汚れちゃったからシミになったら大変だ」
言われて初めて自分の格好をまじまじと見る。袴の右側全体が豚汁まみれになっていた。善法寺先輩がこぼした豚汁だろうな。本当だ、これはシミになったら大変だ。こぼしてから時間が経っていたのかそんなに熱くなかった。
今まで気付かなかったなんてどれだけ緊張してたんだろう、私。自分がおかしくて少し笑ってしまった。





洗濯をしてから湯浴みを済ませる。
浴場から部屋までの廊下をぺたぺたと歩いていた。ぽかぽかの身体に夜風が気持ちいい。
「・・・」
夕ご飯、食べそびれちゃったなぁ。おなかすいた。
でも善法寺先輩とたくさん話できたし、我ながら今日はついてたと思う。明日は夕ご飯をおごってくれるって言ってた。これって相当凄いことだ、だってあの善法寺先輩と話すきっかけが出来たんだもん。
「へへっ」
嬉しくて顔がにやける。これから私の好きな食べ物は豚汁だ。
自室にたどり着いたので戸を開けた。明日に備えて今日は早く寝よう。
「おかえり!」
えっ
「待ってたぞ!」
部屋の真ん中で、夜着姿で、仁王立ちの
「お前、なぞのななしっていうんだな! 長次から聞」
スパンッ
思わず戸を閉めた。
「・・・」
待て待て待て待て、落ち着け私、頭を整理しろ。
今のはなんだ、今のは。いやいやそんなわけない。そんな馬鹿な。目の錯覚だ。気のせいだ。もしくはくノ一長屋に住む妖精さんだ。ありえない。
「あ、ははは…」
私ってば疲れてるんだ、きっとそうだ。ないよないない絶対無い! だって今日会ったばっかりだもん!!
「どした?」
「!!!」
急に耳元で囁かれて、驚きのあまり声が出なかった。
振り返ったら七松先輩がそこにいた。
「え!? あれっ!?」
だって今部屋の中にいたのに!
慌てて戸を開けて部屋の中を見ると、天井の一ヶ所、板が外れていた。
なんて早さだ。瞬間移動じゃないか。
「あ、あの…」
この状況に頭が回らない。くノ一教室は男子禁制だ。それ以前に私、男の人の夜着姿なんて数えるほどしか見たことが無い。もっというなら自分の夜着姿を男性に見せたことなんて無い。部屋に入れたこともない。
七松先輩はきょろきょろと辺りを見回してから、私の手首を掴んでさっさと部屋に入っていく。
「えっ!? 待っ…!」
突然の出来事に足がもつれてしまう。
「ひゃあっ!」
どかっ、と目の前にある先輩の背中にぶつかった。転ばなかったかわりに思い切り鼻をぶつけた。かなり痛い。
「う〜…」
ぶつかった瞬間、先輩が手を離してくれたので赤くなった鼻先をさする。もう泣きたい。
「へっ!?」
前方からずいぶんと間の抜けた声がしたので顔を上げると、振り向き様の先輩と目があった。顔が真っ赤だけどどうしたんだろう。
「え? あ」
どうやら私は空いてる方の手で先輩の背中にしがみついていたらしい。
よくよく考えればなんて至近距離だ。お互い夜着姿で異性と密着なんて、どんなに記憶を辿っても過去に無い。
「あ、わわわわ! ごめんなさいっ!」
狼狽えながら先輩から離れて後退りする。今日は七松先輩に謝ってばっかりだ。
「あ、いや、私は…」
顔を赤らめたまま急にしおらしくなる先輩。口の中でもにょもにょと何か喋っているがよく聞こえない。さっきの強引さが嘘みたいだ。
「? 何かご用で、」
「私、また来るっ!」
先輩は私の言葉を遮ると、振り返らずに開いたままの天井へ姿を消した。
「・・・」
いったいなんだったんだろう。まるで台風だ。
なんとなく、先輩に掴まれていた手首へ視線を落とす。
さっきも思ったけど、異性に手首を掴まれたことなんて小さい頃のタカ丸くん以来だ。それから、夜に異性と二人になるのも。
「…分かんない」
今日は初めてのことだらけ。頭でうまく整理できない。

部屋に敷いた布団に座りながら、しばらく手首を見つめたまま、ぼうっとするより他なかった。


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