▼ 真っ赤な手の平
ふいに目が覚めた。
なまえはゆっくり体を起こす。無造作に大理石の床の上に放られていたようだ。手のひらに触れる床は冷たい。
周囲に視線を走らせる。天井が高く、随分と広い。光源は壁際にいくつか灯された炎くらいで、薄暗い。部屋のようだが家具などといったものはなく、随分と寂しいところだった。ただ、扉がひとつだけある。
自分以外の人間の気配はしない。当然カルデアのマスターも盾の少女の姿も見えない。
「ここは……まさか」
底冷えのするような寒さに肩を抱く。肌が粟立つ。息が震える。ここは危険だと、頭の中で警鐘が鳴り響いている。
その警鐘に従って、なまえは扉へと駆け寄った。身の丈の倍以上の高さがあるそれは扉というより城門と呼んだ方がいいかもしれない。過度な装飾がなされたドアハンドルを握り、押そうとした瞬間、
「どこへ行く」
低い声が、耳元で囁いた。
「──ッ!あっ、うッ!」
咄嗟に逃げようとした体を鷲掴まれ、扉に押し付けられる。背中を襲った鋭い痛みになまえは一瞬息を詰め唸った。「はっ、ぁ゛……っ」涙で歪む視界に映るのは禍々しい黒の装束と無数の棘、そして何の感情も浮かんでいない赤い瞳。
クー・フーリン・オルタは朱槍を顕現させ、その穂先でなまえの右手を扉に縫い付けた。
「あぁああッ!!」
肉と骨を裂かれる激痛に悲鳴を上げる。槍で手を貫かれるのは二度目であったが、今はそれを笑い話にしている場合ではなかった。崩れ落ち、座り込む。右手だけを上げている様は、手錠で拘束された罪人のよう。
傷口から滴る血がなまえの細腕と衣服を汚す。その光景をただただ見下ろしていたオルタは、静かに口を開いた。「これからする質問に答えろ。余計なことは口にするな」
「名は」
「はっ、はぁ……なま、え?なまえ、よ…っ」
「お前は何者だ」
「カル、デアの……人間。貴方に、対抗するレジスタンスの……」
「お前は俺を知っているのか」
抑揚のない声に、なまえは脂汗を滲ませたまま微笑んだ。
「貴方は知らないの?私のこと」
ねえ、クー。
名前を呼ぶと赤い瞳の奥が僅かに揺れた。けれどそれも一瞬に過ぎない。「知らねえな」オルタがなまえの手から槍を引き抜く。噴き出した鮮血が大理石の床を汚した。
「俺はテメェのことなんざ、知らねえ」
「ッ、は……ぁ……そ、う」
「……ここにいろ。次逃げようとしたら殺す」
クー・フーリン・オルタの体が空気に溶ける。
名前1人だけになった室内には、荒い息だけが響いていた。
「まったく、特異点も聖杯も……ろくなものじゃない」
右手を額に押し当てる。
穴が開いたはずのそこは、『殺す』と言った男が残していった治癒のルーンで綺麗に元通りになっていた。
女王は降り立つ。王が捕まえてきた女のいる小屋へ。
“それ”は顔を僅かに青くさせて、床に身を横たえていた。カツカツとヒールを鳴らしながらメイヴは女に歩み寄る。もちろん飛び散った汚い血は避けて。
「……貴方がクー・フーリンを変転させたの、女王メイヴ?」
女が顔を上げて問うてくる。薄く笑みを湛えた彼女を、メイヴは冷たい目で見下ろした。
口角を吊り上げる。「ええ、そうよ。クー・フーリンを私と並び立つような邪悪な王にしろと願ったの!」両手を広げ、高らかに歌い上げる。アレは私のクーちゃん!私だけのために生まれたアルスターのクー・フーリン!
「そんなことをしても……クー・フーリンは貴方のものにはならない」
高揚していた気持ちが一気に冷める。殺意を込めて睨みつけても女は言葉を続ける。
「分かっているでしょう?貴方は光の御子を死に追いやった女王でしかない。聖杯に願ったとしても、あの人の高潔な心を手に入れることはできない」
「──黙りなさい」
女の頭を蹴り飛ばす。聞くに堪えない声は止まった。本当は潰してやりたかったけれど王様が手を出すなというから我慢した。偉いでしょう?私。たくさん褒めてくれていいのよ、クーちゃん。
「ふふ……あははっ、あはははッ!」
ホワイトハウスの一室に、狂った女王の笑い声が響く。
夜の帳はもうすっかり落ちていた。
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