◎ 26
時間が止まったかと思った。
腕の中にいる彼女がとても小さくて脆いように思えて、でも力を弛めることはできなかった。ずっと触れたいと思い続けてきた彼女に今、全身で触れている。そんな感覚すらどうでもいいと思えるほど俺の心臓はせわしなく動いていて、彼女がどんな顔をしているかとか、そういうことに気を使う余裕もない。泣いてしまいそうだった。あるいは既に泣いてたかもしれない。
「涼太さん、…何かあったんですか?」
そろそろと俺の背中に腕が回って、優しく撫でられるのを感じた。
―――ん?
「麻衣子っち…、」
「はい」
抱き締めていた腕の力を抜いて、彼女の顔を正面から見ると、その顔は泣いているでも驚いているでもなく、いつも通り微笑んでいた。
…あれ?おかしいな。だって俺のファンの女の子達に連れてかれて、いざこざがあったはずじゃ…。女の子達が麻衣子っちを優しくもてなすなんて思えないし…。
「…何もされなかった?」
「? 何、と言いますと…?」
「だから、…女の子達にここまで連れて来られて、それから…」
漫画とかドラマとかでよくある、苛め的なことされたんじゃなくて?
「ああ、それでしたら…」
「とりあえず黄瀬、麻衣子ちゃんの肩から手を離せ」
「森山先輩!?」
麻衣子っちの隣に、他でもない森山先輩が立っていた。言われた通り手を離して、いつからいたんスか!?と問えば、ずっと、とのこと。うわ…、マジで麻衣子っちしか見えてなかった…。
「実は俺と麻衣子ちゃんは親戚でな、今日も俺が部活してるところを見にきてくれただけなんだ。というわけで、黄瀬なんかを見にきたわけじゃない」
「は!?」
「…ということになりました」
"なんか"って酷くね?
…じゃなくて、つまり…どういうこと?
状況を飲み込みきれない俺に補足するように、先輩は続ける。俺の頭をつかんで麻衣子っちに背を向けて小さな声で。
――彼女に聞かれないように…?
「ロードワークの途中、偶然麻衣子ちゃんを見掛けたんだが、何人もの女子に囲まれていて、どう考えても険悪な雰囲気だった。話を聞いていると、よく分からないが麻衣子ちゃんが黄瀬のファンじゃないのか、抜け駆けは許さない、と責められている」
「………っ、」
「そこで俺の出番だと思ってな。さっきの話を作ったんだ。多勢に無勢じゃどっちを助けるか迷う余地もない。ま、結果なんとか丸く収まったさ」
女の子達が大人しくなったのって単に森山先輩がイケメンだからじゃ…。イケメンの前で悪いことできる女の子はそういないと思う。
「…ありがとうございました、麻衣子っちを助けてくれて…」
「お前に感謝される筋合いはない。ネットで見たんだよ、困ってる時に助けられると女の子はキュンとくるらしい」
「はぁ…」
今の話を麻衣子っちに聞かれないようにしてるのは、その下心がバレないように、ってことだろうか。
「部活はあと少しで終わるはずだ。もう暗くなってきたし、俺は今から麻衣子ちゃんを家まで送ろうと思う」
「俺が送ります!」
思わず大きな声が出た。
送るって言っても、たぶん途中までだけど。
「……わかったよ、笠松には俺から言っといてやる」
「ありがとうございます!」
深い溜め息を吐いたあと、森山先輩は麻衣子に軽く挨拶して体育館の方へ戻って行った。
「暗くなったし、一緒に帰りましょう。途中まで送るっス。…着替えてくるからちょっと待って」
「はい、待ってます」
麻衣子っちの笑顔に見送られて、着替えるのと荷物取るために部室へ向かう。たぶん俺は笑えてない。
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