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心の準備もできずに戸惑う俺を、鬼原課長がカウンター席へと優しく促す。
「あ、あの」
「取って食ったりはしない。そんなに怯えるな」
「あ……」
多分課長は何気なく口にしただけなんだろうけど、“そんなに怯えるな”という言葉は今まで課長を怖がってばかりいた俺に向けられているような気がして、胸の奥がキュッと痛んだ。
「いちろ、かちょーさんはひどいことする人じゃないでしょ。だいじょうぶだよ!」
ぷりんっとしたケツを俺の目の前に突き出すような格好で飛んでいたアニキが小さな手でガッツポーズを作って俺を応援している。
そうだ。課長はただ怖いだけの鬼上司じゃない。
今までだってちゃんと俺のことを見守ってくれていたのに、俺が勝手に壁を作って露骨に怯えて……本当は優しいこの上司を傷つけてしまっていたのかもしれない。
課長のことを怖がっているわけではないということを伝えるために、そろそろと逞しい腕に手を伸ばして掴まると、黒い仮面で目の周りを隠した課長は一瞬驚いたように動きを止めて俺の顔を見下ろし、一瞬何かを言いかけて止めた後で、また何事もなかったかのようにカウンターへと向かって歩き出した。
「ナンパ成功だな、ケンジ」
「馬鹿言うな。こんな坊やをあのまま入り口に立たせておけるか」
カウンター席に戻った課長を“ケンジ”と呼んでからかうように声をかけてきたのは、俺がフロアに入ったときから課長と談笑していた黒褌の兄貴だった。
背の高さは鬼原課長と同じくらい。
見事に鍛え上げられた屈強な身体つきも課長といい勝負で、多分仮面を外しても課長と比べて見劣りしないくらいのいい男なんだろうなと輪郭から予想できたけど、黒褌の兄貴は身に纏っている空気が課長とは全然違っている。
「すごい! この人もかちょーさんと同じくらい褌レベルが高い褌兄貴だよ!」
興奮したアニキが小さな羽根を懸命に羽ばたかせて黒褌の兄貴の周りを飛び回っているのを見て、俺以外の誰にもアニキの姿は見えていないと分かっていても、俺は思わず手を伸ばしてちびっこ妖精を引き戻したくなった。
黒褌の仮面兄貴は、野生を剥き出しにした獣のような強いオスのフェロモンに包まれている。
鋭い牙と爪で獲物を狩る、危険な野獣だ。
鬼原課長の場合は同じように褌を締めていても、どこかに普段の課長のストイックさが残されているように感じるのだ。
だから、成熟した雄の色気を強烈に放ちながらも、隣にいると護られているような安心感がある。
「おい、お前」
「はいっ!」
黒褌兄貴の周りを飛び回るアニキをハラハラしながら見守っていた俺は、鬼原課長に声をかけられてつい、会社にいるときと同じように背筋をピンッと伸ばして直立不動の姿勢になった。
「えっと……俺、ですか?」
「他に誰がいる」
呆れたようにため息をつく課長の声は優しくて、今まで俺には地を這うような恐ろしいハスキーボイスでしか声をかけてくれたことなんてないのに……と思うと何だか少し微妙な心境だった。
もしかしたら鬼原課長は、会社では課の緊張感を保つために敢えて厳しい上司でい続けているのかもしれない。
「酒は飲めるのか。まさか未成年じゃないだろうな」
「未成年じゃありません! お酒は……あまり強くないですけど、飲めます」
「そうか。マスター、何か適当に食い物と……この坊やに飲みやすいカクテルを作ってやってくれ」
課長のオーダーに、悪役プロレスラーのようなゴツ顔のマスターがカウンターテーブルの向こうで頷いて、手際よくカクテルを作り始める。
「やったあ! ちょうどお腹がすいてきたとこなの」
食い意地の張ったちびっこ妖精は、食い物と聞いた瞬間、クリクリの大きな目を光らせてテーブルの上に降り立ち、上機嫌に鼻歌を歌いながら“ご飯待ち”の体勢に入っていた。
……コイツのちびっこい脳みそには何の悩み事もなさそうで、羨ましい限りだ。
「あの、お金……後でいいですか」
恐る恐る尋ねた俺の被っていたハムスターの耳を軽く引っ張って、褌兄貴の鬼原課長は口元に優しい笑みを浮かべた。
「新入りが来たら皆で歓迎するのがこの店の習わしだ。黙って奢られろ」
「!」
何なんですか、課長。この懐の深さと男前加減は。
俺がゲイだったら、多分今ので完全にオチているだろう。
「食い物につられてケンジに惚れるなよ、坊や」
黒褌の兄貴は、そう言って意味ありげに笑い、鬼原課長の肩を抱いた。
もしかして課長、この超逞しい黒褌兄貴とデキてるんじゃ……などと一瞬ものすごいことを考えてしまった俺は、黒褌兄貴が続けた言葉に、またしても咳き込んでしまった。
「コイツはもうずっと、ノンケの部下に報われない片想い中だからな。惚れても時間を無駄にするだけだ」
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