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どうしよう。
左手の薬指に巻き付いた六尺褌に、心臓まできつく締めつけられているみたいだ。
胸の奥が痛くて、苦しい。
「課長……」
何か言わなきゃいけない、と口を開いたものの、何も言えずに気まずい沈黙を持て余してしまった俺の耳に、後ろの車が短く鳴らしたクラクションが飛び込んできた。
いつの間にか前に停まっていた車がまた少し前進していたことに気付き、慌てて車を走らせる俺の横で、課長が深く息を吐きながら微かに笑って呟いた。
「まあ、俺は……元々口下手で、他の課長のように面白いことを言ったりして課員とコミュニケーションをとることもできないからな。厳しいだけで、部下に怖がられて嫌われても無理はない」
普段と変わらない淡々とした口調が、どこか寂しげに思えてしまうのは、この六尺褌が痛いほど胸を締め付けるせいだろうか。
俺は、助手席に座る上司を真っすぐ見つめて言い切った。
「違います! 俺、確かに鬼原課長のこと怖いなって、少し思ったりすることもあるけど、全然嫌いではないです!」
本当に、鬼原課長を嫌いになったことは今までに一度もない。
叱られる時は本当に怖いし、苦手だなと思うことはある。
また何か言われるかもしれないと憂鬱になったりすることもあるけれど、それは鬼原課長に叱られることで自分の仕事に対する考えの甘さや要領の悪さを再認識してしまうからだ。
課長が嫌いだとか、そういうことじゃない。
いつも冷静に課の状況を見極めてさりげなく部下へのフォローを入れてくれる課長は格好良いと思うし、本当は俺だって課長に認められるくらいしっかり働けるようになりたいと思っているんだ。
「怖いなとは、思いますけど」
「……二回も言うな」
「ふふ」
ようやく少しずつ流れ始めた車の波に乗って進みながら、拗ねたような課長の呟きに、思わず笑いがこぼれてしまう。
笑い声がこぼれた瞬間、六尺褌がもう一度左手の薬指をキュッと締め付けた。
今度は、胸が痛くなるような締め付けじゃなくて、何だか少し指先がくすぐったい。
「本当は、お前がパソコンに苦戦していることには前から気付いていた」
「えっ! そうなんですか!? な、何で……」
「毎日見ていれば分かる。会議ではしっかり発言できているしアイディアも悪くないのに、提出される企画書や報告書はどれも手抜きとしか言いようのない微妙な出来のものばかりだからな」
「――ごめんなさい」
決して手を抜いているつもりはないけど、パソコンを使うと自分の考えていることを上手くまとめられず、結局いつも時間がなくなって、納得のいく出来とは言い難いモノを提出するしかなかったのだ。
優秀な課員揃いの営業課でただでさえ肩身の狭い下っ端なのに、パソコンすらまともに使えないことを課長に知られていたなんて。
あまりのいたたまれなさに俯く俺の耳に届く鬼原課長の声は、気のせいかいつもよりずっと温かく、優しく響いた。
「謝るようなことじゃない。お前は分からないなりに自分で一生懸命調べて頑張っていただろう。だから、聞かれるまでは自分でやりたいように調べた方が成長できていいかと思っていたんだが」
「それでいつも訂正ばっかりの決裁を上げて課長に迷惑かけちゃって……本当に、申し訳ないです」
「部下を指導するのが俺の仕事だ。迷惑だと思ったことはない」
そこで一瞬間を置いて、鬼原課長はポツリと小さく呟いた。
「ただ、悩んでいる部下を放っておいた挙げ句、最終的に頼ってもらえないようでは俺も上司失格だな」
「……っ」
運命の六尺褌が課長と俺の間を繋いでいるせいなのか、さっきから課長の一言ひと言に、胸がギュッと苦しくなる。
これって、鬼原課長の胸の痛みが伝わってきているんだろうか。
それとも、俺自身の痛みなんだろうか。
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