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 重なり合うことのなかった二人の心の距離が少しだけ近くなったような気がしたあの夜以来、佐竹は再び雪矢の前に姿を現さなくなってしまった。

 前回の“回収日”から数えて、今日が十日目。

 それでも、雪矢は佐竹に会えるかどうかの確信を持てずにいた。

 雪矢の大切な店を奪うようなことはしない、と言っていたことを考えると、もう利子の代わりに身体を抱いたりするつもりはないのかもしれない。
 本来ならば喜ぶべきことなのに、自分の抱えている感情が解放されたことに対する安堵ではなく大きな喪失感だということに、雪矢は戸惑っていた。

 もう二度と会えなくなるという訳ではないだろうが、あの夜のように逞しい腕に抱かれて佐竹の熱を感じることができなくなるのは、寂しい。

 もしかしたらそこには寂しさ以上の何か別の感情が含まれているのかもしれない……と、もう少しで大切な何かに気付きそうなモヤモヤ感を抱えていた雪矢だったのだが。

「そんなに怖い顔をしていいのかぁ? 接客業なのによ」

 バータイムに切り替わる前から長居していたという厄介な客の存在に、新米カフェスタッフは考えごとをする余裕もなく、険しい表情で仁王立ちする香田の後ろに匿われるように立って、カウンターの奥でただひたすらうろたえていたのだった。

「だから、俺は善意で言ってやってんだって、兄ちゃん」
「何度も同じことを言わせないで下さい。結構です」
「いやいや、こんな小さな店が何の後ろ盾も無しにこの界隈でやっていくのは大変だろう? 飲み屋ってのは厄介な客も多いしなあ。月々ちょっとの金で安心して営業できるなら安いってもんよ」

 厄介な客はお前だ、と思わず隅っこから口に出しそうになった言葉を何とか飲み込んだ自分を褒めるべきだろう。

 整った顔立ちに氷の微笑を浮かべる三上の冷ややかな視線の先には、妙な剃り込みにパンチパーマ、成金趣味の金のネックレスという今時ヤクザにしても時代錯誤な風貌のチンピラと、趣味の悪い柄シャツを着たスキンヘッドの舎弟らしき男が、お冷や一杯でカウンター席に居座り、さっきから何度も同じ話を繰り返していた。

 要するに、これ以上長居して営業の邪魔をされたくなければみかじめ料を払えという陳腐な脅しなのだが、普段から佐竹や伍代といった本職以上にコワモテな金貸しに見慣れている三上はこの程度のことでは動じないし、金を払う気になるはずがない。

 毅然とした態度を貫く三上に、先に痺れを切らしたのは人相の悪いスキンヘッドの舎弟だった。

「おい、アニキが下手に出てやってるからって調子に乗るんじゃねえぞ!」
「いいんだ、ゴロウ。気の強え子ネコちゃんってのも悪くねえだろ」
「勘弁して下さいよアニキ〜。コイツは思いっきり野郎じゃねえっすか」

 どうやら世の中には、雪矢が想像している以上に、同性に対して邪な感情を抱く男が多いのかもしれない。

 パンチパーマのチンピラは脂ぎった顔に好色そうな笑みを浮かべて、あろうことか、目の前で腕を組んで立つ三上の腰にそのいやらしい手を伸ばしたのだった。

「汚い手で揉まないで下さい」
「むふふ……金がねえんなら、身体で払えや。男の味ってのは一度覚えちまうとやみつきになるらしいぞ、兄ちゃん」
「ちょっ! アニキがソイツのケツを掘ったからって俺には一文の得にもならねえじゃねえっすか!」
「うるせえな、ゴロウ。てめえは黙ってろ」

 話の流れ的には佐竹が言い出した“身体で払え”という条件とまったく変わらないはずなのに、雪矢の胸に、佐竹の口から同じような言葉を聞いたときにはまったく感じなかった嫌悪感が湧き上がってくる。

 話がややこしくなるといけないから黙って下がっていろと三上に言われていた香田と雪矢だったが、さすがにこれには黙っていられない。
 カウンターテーブルを乗り越えた香田がパンチパーマの男に掴みかかろうとして、その横に座っていたスキンヘッドの男に腕を押さえられ、今にも店内で乱闘が始まってしまいそうな緊張が走ったそのとき。

 絶妙なタイミングでベルを鳴らして扉が開き、店の中に本職のヤクザ顔負けの厳つい男二人組が入ってきたのだった。

「佐竹さん……!」

 以前雪矢がチンピラ集団に絡まれていたときもそうだったが、どうしてこの男は、奇跡的としか言いようのない場面で登場してくれるのだろう。
 振り上げた拳をどうすることも出来ずに固まっている香田の間の悪さが悲しくなってしまう。

「客……という訳ではなさそうだな」

 いつものカウンター席に居座る厄介な先客をひと睨みして、佐竹は凄みの利いた低い声で呟いた。

 まだ残暑が厳しい時期だというのに一分の隙もなく着込んだ黒いスーツと、身にまとったオーラから、明らかに自分達とは別格の危険な匂いを感じとったらしいパンチパーマとスキンヘッドの顔が強張る。

 ――今夜の佐竹は、今までとどこかが違う。
 具体的にどこが、とは言えないが、剥き出しの刃物のような危険な空気をまとった野獣の姿に、雪矢は小さな違和感を覚えて首を傾げた。

「この店に手を出すってことは、この辺のモンじゃねえな。よそ者が俺のシマに何の用だ」
「なっ……で、デタラメを言うんじゃねえ! ここら辺一帯はどこの組の手も入ってねえってことくらい、俺が知らねえとでも思ってんのか!」

 弱い犬ほどよく吠える、とはよく言ったものだ。
 青ざめた顔で声を荒げるパンチパーマの男を鋭い瞳で見下ろし、佐竹は後ろに控えていた伍代に顎で合図を送った。

「伍代、こいつらに夜遊びのマナーを教えてやれ」
「はい」
「おっ、おおっ!? おいこら、ちょっと待て!」
「うあっ!? 何つー馬鹿力だ、こいつ!」

 一体どういった身体の造りになっているのか。
 元ヤクザのゴツ顔秘書は、首根っこを掴んだだけで抵抗する成人男性二人を軽々と引きずり、そのまま店の外に出ようとする。

「伍代さん、店の前で人死にが出ては困ります」

 氷の微笑を浮かべて無様な二人を見下ろし、何とも物騒な言葉を口にした三上に、伍代は厳つい顔を微かに緩めて「少し説教をしてやるだけですよ」と穏やかに返したのだが。

「そのパンチパーマ、副店長のケツを揉んだんですよ」

 まだ怒りが収まらないといった様子の香田がボソッと呟いて告げ口した瞬間、外見に似合わず温厚な性格のはずの巨漢秘書は表情をまったく変えずに二人の首根っこを掴んでいた手に力を込めたらしく、狭い店内に悲鳴とも呻きともつかない奇妙な声が響き渡り……。
 その後、三人が消えた店の外からは状況を想像するのも恐ろしい物騒な声と音がしばらく聞こえていたのだった。




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