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○●○


 夢の中で、雪矢は小さな子供の頃の自分に戻っていた。


 古い木の風合いが生きた、こじんまりとした店は『KARES』ではない。
 雪矢の父が経営する、田舎町の小さな喫茶店『この葉』だ。

 子供に戻った雪矢は、小さな身体で少し重い木の扉を開いてこっそり店の中に入った。

「おや、ユキ坊。遊びに来たのかい」

 カウンター席で振り向いて笑うのは自転車屋のおじいさん。
 小さな町では誰もが顔見知りで、店の常連客は皆、雪矢を可愛がってくれている。

「雪矢、お父さんのお仕事の邪魔をしちゃ駄目よ」

 困ったように笑って常連のおじいさんに「すみませんねえ」と頭を下げる母の姿は今よりずっと若く、雪矢が小学生になる前くらいの年齢に見える。
 その隣で穏やかに微笑む父のもとに駆け寄り、幼い雪矢は頬を膨らませた。

「ちがうよ。ゆき、おとうさんのおてつだいするもん」
「そうか、雪矢が手伝ってくれるのか」

 一人息子に甘い父は、嬉しそうに笑って小さな雪矢の身体を抱え、コーヒー豆の入った缶を開けた。

「おまめさんがいっぱい!」
「そうだよ、これが美味しいコーヒーを作る素なんだ」

 缶に入ったツヤツヤと光る黒い豆は、雪矢には宝石のような宝物に見えた。

「じゃあ雪矢、このスプーンで豆をすくって、こっちに移してくれるかな」
「うん、いいよ!」

 父親に“お手伝い”を頼まれた雪矢は、大切な豆をこぼさないよう、真剣な表情で豆をすくって電動ミルの口に移していく。

 ミルのスイッチが入るのと同時に、粉状になった豆がフィルターの上に積もっていき、香ばしい豆の香りが鼻先をくすぐった。

 深くて、優しくて、少しだけ心がワクワクする香り。
 雪矢はこの香りが大好きだった。

「お湯は危ないから、そっちの席でいい子にしているんだよ」
「はーい」

 カウンターから出るように言われ、今度は母親の足元に駆け寄って抱き着くと「甘えん坊なんだから」と呆れたように笑いながらも雪矢を抱え上げた母が、小さな“お客さん”をカウンターの椅子に座らせてくれる。

 自転車屋のおじいさんの隣に座った雪矢は、大きな瞳をキラキラと輝かせながら、じっと父の手元に魅入った。

「いきなりたくさんお湯を入れると気持ちよく眠っていた豆がびっくりしちゃうからね。最初は静かに、少しずつ入れるんだよ」
「ふーん」
「もう二代目の教育かい、マスター」
「いやあ、いずれはこの子に店を手伝ってもらえたら……と思っているんですけど。ちょっと気が早いですかね、はは」

 幼い雪矢には自転車屋のおじいさんと父親の話の内容はよく分からない。ただ、父が傾けたコーヒーケトルから糸のような細い湯が落ちて、粉状に挽かれた豆に注がれる様子が、楽しくて仕方なかった。

「見てごらん、雪矢。豆が喜んでいるよ」

 蒸らされた豆が膨らんで、こんもりと盛り上がった山にぷつぷつと気泡が現れては消える。

 お父さんの手は、魔法の手だ。

 ひとすくいの豆とお湯から香り高い液体を作り出す父親は魔法使いのようで、雪矢にとって大好きな、憧れの存在だった。

「はい、美味しいコーヒーの出来上がり」

 落とし終えたコーヒーをサーバーから三人分のカップに移した父が、そのうちの一つを自転車屋のおじいさんの前に置く。

「お代わりのサービスです」
「おや、いいのかい?」
「うちの二代目の初仕事ですからね。ぜひ味見してやって下さい」
「あなたってば、本当にどうしようもない親バカね」

 そう言って笑う母も、父から手渡されたカップに口をつけて「うん、美味しい」と雪矢の頭を優しく撫でてくれた。

 計った豆をミルに移すという作業を手伝っただけなのに、自分が“お手伝い”したコーヒーを褒められるのが堪らなく嬉しい。

「雪矢も飲んでみるか?」

 目の前にカップを差し出されて、雪矢は興味津々で深い色合いの液体を覗き込んだ。

 大人達が美味しそうに飲んでいる、いい香りの飲み物。
 好奇心のかたまりのような子供が、興味を惹かれないはずがない。

「飲む!」
「熱いから気をつけるんだぞ」

 ふんわりと鼻腔をくすぐる香りに誘われ、恐る恐るカップに口をつけて……。

「にがいっ」

 啜った液体の予想外の味に、雪矢は顔をしかめて舌を出した。

「はは、やっぱり雪矢にはまだ早かったか」
「もう少し大人にならないと、コーヒーの美味しさは分からないわね」

 小さな店の中に、笑い声が響いた。


 幼い雪矢には、父の淹れるコーヒーの美味しさは分からなかった。
 コーヒーの味が分かる年齢になって色々な店を巡り、そこで初めて、父のコーヒーが美味しいものだったと気付いたのだ。

 遠い記憶の中に残る優しい味と、小さくて温かい店の思い出。
 今が不幸という訳ではないが、あの頃の思い出が雪矢にとって一番幸せな記憶と言えるだろう。


「――雪矢」

 名前を呼ばれて顔を上げると、カウンター席に座っていたはずの雪矢はいつの間にか成長してカウンターの中のキッチンに立ち、コーヒーを淹れていた。

 父も母も、自転車屋のおじいさんもいなくなってしまっている。

 こじんまりとした店の温かい雰囲気は『この葉』によく似ているが、より洗練されたイメージのカウンターテーブルや調度品は『KARES』のものだ。

「雪矢」

 もう一度、耳元で名前を囁く甘いバリトン。
 覚えのあるこの声は、誰のものだっただろう。

 淹れ終えたコーヒーをサーバーからカップに移した雪矢は、カウンター席に座る男の前にカップとソーサーを置いて、そこでようやく自分の名前を呼んでいた男を思い出した。

「――佐竹さん」

 名前を呼び返した瞬間、引き締まった唇に微かな笑みが浮かんだような気がする。
 ただ、雪矢の淹れたコーヒーを口にした佐竹が、いつものように「美味いな」と言ってくれたかどうかは分からなかった。

 きちんと繋がっているようで何の脈絡もない夢は、そこで途切れて、目覚めが訪れたのだった。




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