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17



 いつものように仕事をして午前の分を片付け、俺はとりあえず昼休憩のために保育ルームへと向かった。
 片手には、マルコくんと食べなさい、と渡された惣菜パンと飲み物がある。
 飲み物はお茶で、他はタマゴサンドとウィンナードックだ。
 ここの近くのパン屋が売っているものであることは、パンが入っていた袋で確認済みである。
 あそこのパンらしく少し大きいが、マルコならしっかり食べるだろう。
 いつもは大体の場合事務室で食べているが、まさかマルコを連れて事務室に戻るわけにもいかない。
 かといって、保育ルームでパンをかじるのもいただけない。
 どこで食べようかなんて考えていたら保育ルームに辿り着いたので、とりあえずマルコを回収してから考える事にして、俺はそこの扉を開いた。

「マルコお願いします」

「あ、ナマエおにいちゃんだ」

 保育ルームとなっている部屋を覗き込みながら声を掛けると、専属のシッターが振り返るより早く、高い声が俺のことを呼んだ。
 どたばた駆け回る子供達の足音やシッターがマルコを呼ぶ声を聞きつつ視線を落とせば、よくここにいる小さな子供が、ふりふりの服を着たまま扉のそばに立っていた。
 両手で抱きしめているのは、ポケモンだか何だかのぬいぐるみだ。赤いかわいらしい靴を履いている。
 彼女は確か、俺が使っている机の斜め向かいに座っている女性の子供だ。
 名前はりさだったか、りかだったか。

「りさねぇ、ママまってるの!」

 りさで合っていたらしい。
 そうか、と頷いて、俺は少しかがみこんだ。
 俺は上背のあるほうだから、ほとんど真上を向いていた子供も俺の動きに合わせてその目線を下げる。

「そっちのママは、さっき片づけをしてたから、もう来ると思うけど」

「うん、きょうねぇ、おべんといっしょにたべるの」

 頬を子供らしく赤らめて、にこにこと嬉しそうに笑っている彼女を見て、そうかと頷いた俺は、いつもに増してふりふりの服に少し首を傾げた。

「りさちゃん、今日はすごくおしゃれだな」

「でしょ! かわいい? かわいい?」

「ああ、可愛い」

 リボンやレースたっぷりな服を見て頷けば、小さくても女の子であるらしい彼女が嬉しそうに笑顔を広げた。

「こんどね、おねえちゃんのばれーのはっぴょうかいがあるから、これきてくの! きょうねぇ、いっかいきてみたいっておねがいしたの!」

「へェ」

 そんな一張羅をこんなところに着てきていいのだろうか。
 女の子らしい彼女は大人しいが、同じ保育ルームにいる子供はそうでもない子だっているだろうに。
 案外、斜め向かいの女性は子供に甘いらしい。
 そんなことまで考えたところで、ごすん、と頬骨辺りに衝撃を受けた俺は体を少し傾けさせた。

「うわっ」

 痛みと衝撃と共に与えられた勢いのまま部屋の外へ倒れそうになって、片手で壁のふちを掴んでそれを堪える。
 ごすんと痛みを与えてきたそれは硬く、そして丸く小さかった。
 それに付属する短い手が俺の頭をがっしりとホールドしている。
 簡単に言えば、マルコが俺に突撃してきたのだ。

「マルコ、痛い……」

「ナマエ、マルちゃんとまってたよい! えらい? えらい?」

 俺の抗議をものともせず、マルコが人の耳元でそんなことを言う。
 まるで他の音を遮ろうとしているようなそれは、とてもうるさい。何だ一体。
 よく分からないが、さっさとマルコを連れて移動しようと決めて、俺は片手でマルコの腕を掴んだ。
 ぐい、と引き剥がすと、どうしてかマルコの手が俺の手を逃れ、今度は首に回る。
 ぎゅうぎゅう抱きつかれては、少し苦しい。
 二回同じ行動を繰り返して、諦めた俺は片手でマルコの体を抱き上げた。
 何故こんなことをするのか分からないが、顔を見ようにもマルコは人の首に抱きついたまま顔を伏せているので、それすら叶わない。
 そして先ほど頭突きされた頬がまだ痛い。

「すみません、昼飯終わったらまた連れてきます。じゃあな、りさちゃん」

 シッターに声を掛けて、頷いたシッターやじゃあねと手を振ってきた少女、それから他の子供達に見送られながら、俺は保育ルームを後にした。

「マルコ、今日の昼飯はパンを貰ったからパンにするつもりなんだが、どこで食べたい?」

「どこでもいいよい」

 言葉を落としつつ、マルコはまだ顔を上げない。
 とりあえずマルコを抱えたまま、俺はそのまま移動した。
 建物裏手の職員駐車場まで出て、そこの端にある木陰でようやく足を止める。
 詰まれたブロックに腰を下ろして、他に座れるようなブロックは無かったので、マルコの体を自分の足の上に乗せた。

「じゃあここで食べるか」

「よい」

 そう声を掛けてやると、ようやくマルコが俺から離れる。
 そしてくるりと後ろを向いて、今度はその背中をこちらに預けてきた。
 どうやら、俺が椅子であることに不満は無いらしい。
 その小さい膝の上に貰ってきたパン達の入った袋を置いて、どちらが食べたいか聞いた結果、俺の手元にはタマゴサンドがやってきた。
 いつもの少し間違ったいただきますを言ったマルコは、早速あけた袋からウィンナーとパン生地を齧っている。
 同じようにいただきますを言って、タマゴサンドを取り出しながら口を動かす。

「保育ルームはどうだった?」

「ふつーよい。こどもいっぱいで、ちょっとうるさいよい」

 あっさりと言い放つマルコのつむじからは、先ほどの奇行の理由は見えてこない。
 やれやれと息を吐きつつ、俺は真上から呟いた。

「お前も子供だろうが」

「マルこどもじゃないよい」

 もくもく口を動かしながら言って、マルコがちらりと俺を見上げる。
 どうしたのかと思ってそれを見下ろすと、ごくんと口の中身を飲み込んだマルコが言い放った。

「ナマエ、りさみたいなおんながすきよい?」

「…………は?」

 唐突過ぎるそれに、俺の口からはなんとも間抜けな声が出た。
 思わずタマゴサンドを落としてしまいそうになって、貴重な食料を無駄にするわけにはいかずにどうにか耐える。

「一体何の話だ?」

 わけがわからなすぎてそう問うと、りさがいってたよい、とマルコは言った。

「ナマエとけっこんするってやくそくしたっていってたよい。ナマエ、りさとふーふするよい?」

 一体何の話だ。
 先ほど口から零したのと同じ言葉を頭の中でもう一度回して、それからふと思い出した事柄を脳裏に浮かべる。
 そういえば先月、帰り際に遭遇した母子にちょうど持っていた飴を贈ったような気がする。
 いたく感動した面持ちの少女にプロポーズされて、飴玉一つでプロポーズするなんてと驚いて、『結婚しましょう』が今のマイブームなのよと彼女の母親に苦笑いされたような覚えも、ある。
 先月終わってしまったドラマにはまっていたらしい。
 小さな子供のそういう言葉なんてすぐに忘れられてしまうものだと思っていたし、俺自身もすっかり忘れていた。
 ついでに言うと、うんと言った覚えもない。
 言うはずもない。
 俺の表情の変化に、一方的ではあるがその約束が存在しているということを読み取ったらしいマルコが、むっと眉間にしわを寄せる。

「ナマエ、はんざいよい」

「……マルコ、その言葉はどこで覚えた」

「ちいさいこがすきなのははんざいだって、まえにサッチがいってたよい」

 どうやら、今は異世界にいるマルコの友人は少々ませているらしい。
 犯罪というのは悪い事だとも分かっているらしいマルコが、じとりと俺を見上げてくる。
 小さく息を吐いて、俺は首を横に振った。

「向こうにプロポーズされたけど、俺は了解していない。だから、俺はりさちゃんとは結婚しない」

「じゃあ、だれとけっこんするよい?」

 俺の言葉に、いぶかしげにマルコが尋ねる。
 それを見下ろしながら、どうしても俺を結婚させたいらしいマルコに、俺は首を傾げた。
 ぱくりとタマゴサンドを一口食べてから、結婚する予定は無いということを彼へ告げる。

「なんでよい? おおきくなったらけっこんするものって、りさがいってたよい」

 彼女もずいぶんとませた子供だ。
 母親と月9ドラマを観ているとそうなるんだろうか。

「相手がいないからな」

 なんとも悲しいが事実を伝えると、りさがいるだろうとマルコが言う。
 犯罪だと言ったその口でそれを言うのかと、俺は小さく息を吐きつつやわらかい頬をつまんだ。

「りさちゃん相手だと犯罪になるんじゃなかったのか?」

「りさがおおきくなるまでまったら、はんざいじゃなくなるよい」

「りさちゃんが大きくなったら俺はおっさんだ。年の差は変わらないからな。大体、俺に結婚は無理なんだ」

 時々ものすごい年の差で結婚するカップルも居るし、それを否定するつもりもないが、俺には無理だ。
 俺の言葉に、マルコが不思議そうにする。
 ぐいんと後ろへのけぞるようにしながらこちらを見上げる顔に、早くパンを食べろ、と頭を掴んで向きを直させた。

「なんでけっこんむりよい? ナマエ、いいやつよい。いいだんなさまになるよい」

「それもりさちゃんがいったのか?」

「りさのマリルがいってたよい」

 マリルとは誰だろうか。
 よくわからないが、小さい子供特有の空想遊びの相手かと判断して追求はせず、俺はもぐりとタマゴサンドを口に入れる。

「日本じゃ男女しか結婚できないからな。海外に行く気力もないし」

 もぐもぐ口の中身を噛んで飲み込んでから言うと、同じようにパンをほおばったマルコはまた首を傾げた。
 頭を俺が掴んでいるからこちらは向かないまま、もぐもぐと口を動かしている。
 正面から見たらいつもみたいに頬を膨らませてもごもごしているんだろうと思うと、何となく口元に笑みを浮かべながら、そのまま手を離した。
 俺が同性愛者だなんてことを知っているのは、俺を残して死んでしまった両親くらいだ。
 日本ではまだまだマイノリティだし、差別だってされるかも知れないからと、俺は両親以外にはずっと隠して生きてきた。
 初恋は幼稚園の先生だったし、小学校のときの同級生にも、中学のときの体育教師にも、高校のときの後輩にも先輩にも、倒産したあの会社で一緒に働いていた上司にも告白したことさえない。
 女性相手にはそういう感情を抱いたことすらなかったから、日本が同性婚を認めない限り、俺に結婚は生涯無理だろう。

「……じゃあ、ナマエはりさのだんなさまにならないよい?」

 俺がぼんやりしているうちにパンを食べ終えたらしいマルコが、口の周りにパンくずをつけながらそう聞いてきた。
 片手に残ったタマゴサンドを口へ押し込み、マルコの口元の汚れを軽く払ってやりながら、こくりと頷く。
 袋から出した飲み物を開けて差し出すと、お茶の小さいペットボトルを掴んだマルコが、こちらを仰いだままでなぜかにんまりと笑った。

「だったら、しかたないからナマエはマルのおよめさんにしてやるよい」

 にこにこ笑ってそう言われて、俺はとりあえず口の中身を飲み込んだ。
 これはもしや、マルコからのプロポーズか。
 よくわからないが、先月といい今月といい、俺にモテ期が到来しているらしい。
 ただし幼児限定だ。

「……」

 せめてマルコが俺と同い年くらいだったなら素直に嬉しかったかもしれないが、出会って三日の幼児を相手ではどうしようもない。
 大体、何がどう『しかたない』んだろうか。
 追求しようかとも思ったが、延々この話が続くのも面倒だと判断して、俺は自分の分の飲み物を開けた。
 面倒ごとは流してしまうに限る。
 どうせ、保育ルームの彼女だってマルコだって、半年後には違う相手にプロポーズしているに決まっているのだ。

「マルコ相手でも犯罪だな」

「マルはすぐおおきくなるからいいのよい!」

 俺がそんなことを考えているなんて露知らず、マルコはそう声を上げて憤慨していた。





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