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『悪いけど、ナマエ。もう、アンタとは一緒に住めないから』

 言い放たれた言葉に、俺はぱちりと瞬いた。
 目の前に座った彼女は、いつものように面白くもなさそうな顔をして、俺を見下ろしていた。
 俺の隣に座っている『せんせい』が、淡々とした顔の彼女へ怒った様子で何かを言っている。
 傍らからのそれを聞き流しながら、俺は目の前の彼女を見つめた。
 彼女は俺の母親だ。
 懐かしい顔だった。
 そう感じてから、なるほど、と理解する。
 これはずいぶん昔の記憶だ。
 追い出されたベランダで大人しくしてた俺が『好意』で『保護』されて、施設にきた母親が俺を捨てていった時の記憶だ。
 母親には俺はもう必要なかった。
 いや、多分、最初から要らなかった。

『分かった? ナマエ』

 俺の横で何かに怒っている『せんせい』を気にもせずに、俺へ向かって尋ねた母親の目と、視線が合う。
 俺はこのとき、何と言ったんだったか。

『ん。わかった』

 そんなことを考えた俺の口からはぽろりとそう言葉が落ちて、そう言えばそう言ったんだった、と俺は思い出した。







 ぱちりと目を開いた先にあったのは、見慣れない天井だった。
 目を開けた先に空が無いことに、ものすごい違和感を感じる。

「…………ああ」

 考え込みかけたところで波の音がして、それから少し体が揺れて、小さく声を漏らした。
 そうだ、ここは白ひげの船の上だった。
 マルコを助けに来た船に乗って、マルコが頼んでくれて、俺は白ひげ海賊団の一員になったのだ。

「ナマエ、起きたかい」

 むくり起き上がると、俺の動きに気付いたらしい部屋の主がそう声を掛けてきた。
 こくりと頷いて視線を向ければ、椅子に座ったマルコが、軽く頬杖を付きながら書類を睨んでるところだった。
 海賊が書類仕事をしているっていうのがとても不思議なのだが、白ひげ海賊団は縄張りが広い所為かあちこちから報告書が届いたりするらしい。
 じっと書類を睨むその目はすごく真剣なのに、頬杖の所為でだらけて見える。
 澄ましてれば格好いいだろうに、勿体無い話だ。
 ここはマルコと俺の部屋だった。
 すでに隊長だったらしいマルコはもともと一人部屋で、俺の為にと運んできたベッドが部屋の端に置かれている。
 マルコの部屋はずいぶんと狭くなってしまった気がするけど、マルコ自身はあまり気にしていないらしい。

「マルコ、おはよう」

「おう」

 ベッドの上に座り直して、俺はしげしげとマルコを眺めた。
 あの島では、俺が起きるよりもマルコが起きるほうが遅かった気がする。
 なのに、この船に乗ってから、マルコの寝てるところなんてあまり見たことがない。
 寝る前も起きた時も、俺が見るのは起きてるマルコの顔だった。
 いや、最近は、寝る前にその顔を見ることは少なくなったかもしれない。
 夜、何時に部屋へ戻ってきたのかも分からないような日が大半だ。
 昨日だって、久しぶりに『おやすみ』でも言おうと待っていたのに、マルコは部屋になかなか帰ってこなくて、諦めたころにはいつもより眠る時間がすごく遅くなったのだ。
 まだ少しぼんやりとする頭を軽く傾げて、俺はとりあえずベッドから立ち上がった。

「顔洗って来いよい」

「ん」

 言われた言葉に頷いて、とりあえず洗面所へ移動することにする。
 部屋を出る前にちらりと見やったところには、また視線を書類に戻したマルコがいた。
 こちらを見ないマルコを見ながらぱたんと扉を閉じて、それから足を動かす。
 最近、マルコが変だ。
 最近、と言うと語弊があるかもしれない。
 だって、マルコと一緒にこの船へ乗ってから、まだ二週間も経ってない。
 けれどもとりあえず、マルコが変だ。
 そうは思うが、こんなこと誰にも相談できない。

「お! ナマエ、おはよう!」

 声を掛けられて歩きながら視線を向けると、ひょいと脇の通路から顔を出した男がにやりと笑って軽く手を上げた。
 会釈を返しながら、今日も立派に決まったリーゼントを見上げる。
 サッチは相変わらず、今日もリーゼントだ。

「おはよう」

「今日も元気そうだなァ! ああ、もう通路は覚えたか? 洗面所はあっちだからな」

「ん、覚えた。大丈夫だから」

 言いつつ通路の奥を指差されて、いちいち言わなくても分かってるぞと頷いた。
 何が楽しいのかそうかそうかと笑って、サッチの手がばしばしと俺の肩を叩く。かなり痛い。
 ひりひりする肩を軽く擦りつつ、足を止めてサッチを見上げる。
 そういえば、サッチはマルコと仲が良いんだろうか。
 もし仲が良いなら、マルコの様子が変なのにも気付いてるんだろうか。

「ん? どうした?」

 俺の視線を受け止めて、サッチが軽く首を傾げる。
 一緒に揺れたリーゼントとその顔を一緒に見上げてから、少しだけ考えて、俺は小さく息を吐いた。
 駄目だ。仲が良いならなおさら、聞ける筈もない。

「…………なんでもない」

「なんだそりゃ!」

 俺の言葉に、サッチが笑う。
 顔を洗ってくるからと言葉を置いて、俺はサッチの傍から再び歩き出した。
 寝ぼけて転ぶなよ、なんて失礼なことを言うサッチの声を背中に聞きながら、てくてくと足を動かす。
 いくらか進んだところで後ろから聞こえてきた声に、俺はちらりと後方を見やった。

「ようティーチ、つらそうだなァ! 二日酔いか?」

「おう……そう思うんなら大きい声だすんじゃねェよ……」

 既に俺へ背中を向けたサッチが明るく声を掛けている男の姿を視界に入れて、すぐに目を逸らす。
 動きの鈍っていた足を動かして、さっさと離れるために移動した。
 ここは白ひげ海賊団だ。
 だからあいつはここにいるし、俺が知っている通りに全てが進むなら、そのうちティーチはサッチを殺してエースを利用して、戦争の最中で白ひげも殺す。
 マルコはきっとすごく悲しむだろうと思ったら自分まで悲しくなる気がして、俺は小さく息を吐いた。
 俺はマルコが好きだから、絶対どうにかしてみせる。
 この船へ乗る前にした決意は揺らぐことはないけど、どうするかなんてまだ考え付きもしない。
 まァ、まだエースがこの船に乗ったわけでもなければ、賞金首になったわけでもない。
 時間はまだまだ十分にあるのだから、きっとどうにかできる。
 頑張ろう、と一人心の中で呟いたところで、また誰かとすれ違った。

「ようナマエ、おはよう」

「ん。おはよう」

 声を掛けられて視線を向けた先にいたのはイゾウだった。
 既にしっかり結い上げられた髪の彼が、俺を見て軽く首を傾げる。

「マルコはどうしたんだ?」

「マルコは、部屋」

 居場所を聞かれてそう答えると、俺をしげしげと眺めたイゾウは、ただ「そうかい」と頷いてそのまま離れていった。
 何かマルコに用事だったんだろうか。マルコの部屋の方向へ歩いていくその背中を少しだけ見送ってから、また足を動かす。
 さらに何人かのクルーとすれ違いながら時々会釈をしつつ、ふと思い立って軽く指を折り曲げた。
 一つ、二つ、指折り数えた日数に、少しばかり眉を寄せる。

「…………三日か」

 三日。
 そう、もう三日目だ。
 これはそろそろ、俺から何かしたほうがいいんだろうか。
 少し考えてみたが、そういう経験の無い俺にはどうすればいいのか全く分からない。
 マルコを迎えに来たこの船に乗り込んで、ものすごく大きかった船長に『息子』にしてもらってから、もう二週間近く経つ。
 最初は、どこにいてもべたべたしていた。
 大概マルコは俺と一緒にいてくれたし、初めて見るような大きさの人間やら怖い顔の相手やらとの自己紹介のときだって仲立ちになってくれて、モビーディック号の案内だってマルコが手を引いてくれていた。
 それが、どうしてかあまり人前では俺に触らなくなった。
 それ自体は別に構わなかったのだ。いくら触られるのがいやじゃなくても俺にだって羞恥心はある。
 からかったりされたら恥じらいもするし、マルコだってそれに気付いてくれたんだろうと、そう思っていた。
 けれども今度は、二人きりだろうとあまり近寄ってこなくなった。
 小さな子供にするみたいに頭に触れてくることはあるけど、それだってほんの少しだけだ。
 手を繋いだのすら三日前の話だった。
 二人きりの島でべたべたちゅうちゅうしていた頃が懐かしいとは、なんと恐ろしい話だろうか。

「んー……」

 マルコが変だ。とても変だ。
 そうは思うものの、結局誰かに相談も出来ないまま、今日も俺の一日は幕を開けた。




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