- ナノ -
TOP小説メモレス

君の好み


 見上げた空には澄んだ青が広がり、とぎれとぎれに白い雲が浮かんでいる。
 いい天気だな、とそれを見上げて目を細めてから、ナマエはそのまま傍らを見やった。

「釣れるか? マルコ」

「まァ、ぼちぼちだねい」

 ナマエの言葉へ返事をしながら、伸ばした手に掴んでいた竿をマルコが軽く引いた。
 丈夫な釣り糸によってつり上げられた魚が、そのまま海面からモビーディック号まで跳ねあげられる。
 びちびち暴れる見たことのない形の魚を針から外し、そのまま自分とナマエの間にある大きなつくりの生簀に放って、マルコの手が新たなエサを針へと仕掛けた。

「ナマエの方はどうだよい」

「俺はあんまりだな」

 問われた言葉に答えながら、くい、とナマエも手を引く。
 海面から現れた針先からはいつの間にやら餌が消えていて、また食われた、と呟いてからナマエの手がマルコと同じように餌を付けた。
 今日のナマエの作業は、午前中から昼頃に掛けての釣りだった。
 同じようにその作業に従事しているクルー達が、あちこちから思い思いに釣竿を伸ばして針を垂らしている。
 ナマエがそれを始めた時、隣には誰もいなかったのだが、早めの昼食を終えたらしいマルコが、ナマエに差し入れを持ってやってきた。
 午後からは自由だから付き合うと言って笑ったマルコに、自由なんだから休んでいればいいのにとは言ったものの、ナマエにそれを止める理由も無い。出来ることといえば、持ってきた帽子をその頭に無理やり被せることくらいだろう。
 マストの影がナマエの上へと落ちているが、それから少しだけ外れた場所に座っているマルコは太陽の日差しを一身に浴びているのだ。
 マルコが来るまではあまり中身の無かった生簀は、すっかり魚でいっぱいだった。

「ナマエはあんまり大物を狙わねえからねい」

 マルコが言いながら、新たに餌を付けた針を海へと垂らす。
 今は殆ど停滞しているモビーディック号はその船体に波を受けながら海原に佇んでいて、揺れる水面は静かなものだった。

「大物を狙うと、釣り上げられないからなァ」

 そんなふうに言いながら、ナマエの手が竿を握り直す。
 この船に乗ってから、以前よりは筋力が付いたと自負するものの、ナマエはあきらかに非力に分類される方だった。
 もちろん、一般的に言えば力のある方だ。しかし、この船に乗っているクルー達は揃いも揃って猛者揃いなのだ、仕方ない。
 ナマエの言葉に肩を竦めて、マルコが軽く竿を揺らす。
 魚を誘う動きを見やり、糸が絡まないようにと自分の竿を少しだけマルコの物から離すようにしながら、そういえば、とナマエは呟いた。

「最近、サッチの様子が変なんだが何か聞いてないか?」

「サッチの?」

 ナマエの発言に、マルコが首を傾げた。
 その顔が自分の方を向いたのを確認して、ナマエもそちらへ顔を向ける。
 ナマエが被せた不似合いな帽子を被って、鍔によって顔に影を落としたマルコが、不思議そうな顔をしていた。

「変って、どういうふうに変なんだよい?」

「妙に人のことを誘ってくるんだ」

 マルコは誘われなかったか、と問いかけたナマエに、何にも誘われてねェよい、とマルコが返事をする。
 そうかおかしいな、と呟いて、海原へ視線を戻したナマエはつい一昨日のことを頭の中に思い浮かべた。
 たどり着いた陸の傍で過ごした数日間、夜の街へ繰り出そうとするたび、サッチはナマエに同行しないかと声を掛けてきたのだ。
 あけすけに『溜まってんだろ』とまで言われて、娼館に誘われていると言うことにはすぐに気付いた。
 普段なら聞かれもしないことなのにと戸惑いながら首を横に振ったナマエへ、サッチはそれはそれは不思議そうな顔をしていたのである。
 一人で行くのが寂しいなら店の前までは送ってやろうかと思ったが、そう言ったナマエを笑い飛ばしたサッチは、そのまま夜の島へと降りて行ってしまった。
 それが一度ならまだしも、二度、三度と続いては、ナマエもいい加減首を傾げると言うものである。
 本人は『この間の詫びだ』と言うが、彼の言う『この間』が何のことなのかもナマエには分からない。
 断れば『そうか?』と不思議そうにしながらも引いてくれるのでそれほど負担ではないが、急な変化にナマエが首を傾げるのも仕方の無いことだろう。

「どこに誘われてたんだよい」

 誘われてついて行かないなんて珍しいねい、と、まるでナマエが主体性の無い人間のように言いだしたマルコに、行きたくないときは断るに決まってるだろう、とナマエが肩を竦める。

「娼館だったよ」

 そしてそのまま答えたところで、は、と離れた場所から声が漏れた。
 何とも低いそれに、ちらりとナマエが見やれば、マルコが何とも微妙な顔をして座っている。
 その手元の竿がぴくぴくと揺れていて、どうやら魚が引いているようなのだが、マルコに竿を引く様子は無い。

「マルコ、引いているんじゃないか?」

「娼館って……何でそんなとこに誘われてんだよい」

「いや、だから、俺にも分からないんだ」

 それで聞いたんだぞ、と続けたナマエのすぐ横で、マルコが何かを吐き出すように息を吐いた。
 その手がぶんと竿を揺らし、勢いよくひかれた釣り糸が海中から魚を一匹釣り上げる。
 先ほどとはまた形の違うそれはそのままべちんと甲板へ叩きつけられ、びちびちと床を叩いた。
 竿を固定する器具へと預けて、ナマエが立ち上がり、哀れな魚へと近づく。
 暴れる魚を掴んで持ち上げ、針を外してから生簀へ放ると、軽く水柱が立った。
 水中へと帰還した魚が慌てた様子で泳ぎだし、海より狭い生簀の中でぐるぐると回っている。

「元気だなァ」

 活きがいいとはこのことか、と澄んだ水の中の魚達を眺めたナマエの方へ、ナマエ、と声が掛けられた。
 それを聞いてナマエが顔を向ければ、マルコがナマエを見下ろしているところだった。
 帽子で顔に影が落ちているせいか、少し険しい顔をしているようにも見える。
 どうかしたのかとその顔を見上げていれば、やや置いて軽く息を吐いてから、マルコがその表情を和らげた。

「……そういや、ナマエからはそういう話を聞かねェっつってたよい」

「ん?」

「女がどうしたとか、こうしたとか。全然聞かねェから今度聞き出してやろうってねい。サッチが」

 そんな話をしていた、と続いた言葉に、なるほど、とナマエは軽く頷いた。
 何がサッチの目的なのかは知らないが、彼はナマエのそう言った方面での情報を収集するために、わざわざナマエを夜の島へと誘い出そうとしていたらしい。いちいち話して聞き出すより、娼館へ連れて行って好みの女を選ばせた方が手っ取り早いとでも思ったのだろう。

「俺の好みなんて、聞いたって意味も無いだろうに」

「まァ、ナマエはあんまり自分の話をしねェから、知りたいんだろい」

 そんな風に言って、マルコの手がゆるりとナマエの傍から糸を手繰り寄せ、指に触れた針に新たな餌を付けた。
 釣りを再開するつもりらしい相手を見やって、そうか? とナマエは首を傾げた。
 別に、ナマエは秘密主義なつもりは無い。
 もちろん、この世界を『漫画』で読んだ、だなんていう事実も、異世界から来たんだなんて言う事実も口にするつもりは無いが、後半はマルコと船長も恐らくは知っているような事柄だ。
 他のクルー達のように酒の肴にできるような波乱万丈の人生であったわけでもないので、問われれば答えはするだろうが、すすんで語ったりはしていないだけのことである。

「ナマエは聞き上手だから、大体聞きっぱなしだろい。もう少し自分のことも話せばいいってのに」

 そんな風にマルコが言って、その手がぽいと針を海へ向かって投げる。
 糸を垂らした状態の彼を見上げて、そう言えば小さくなったマルコにもそんなことをぷりぷりしながら言われたような気がする、ということをナマエは思い出した。
 ちゃんとおしえないからだ、と言いながらナマエの情報を収集したマルコは、大きくなった時にはすっかりその時のことを忘れていた。
 しかし、この間あの時の紙がマルコの机の端に置かれているのを見たので、収集された情報はすっかりマルコの頭の中に入ったことだろう。
 そんなことを考えたナマエの方をちらりと見やって、それで、とマルコが口を動かした。

「どんな女が好みなんだよい?」

「え?」

「どうせそのうちサッチに聞きだされるんだろい、その前におれが聞いといてやるよい」

 片方の手で釣竿を握ったまま、もう片手で頬杖をついたポーズになったマルコは、わずかに笑っている。
 今日のマルコは少し薄着で、帽子に隠れていない腕の端や、椅子に片方乗り上げた膝や放り出されたもう片足が、太陽を受けていた。
 青い空を背景にして、ナマエを見やるマルコの姿は眩くも感じて、ナマエの目がすこしばかり細められた。
 その体がそっと生簀を離れて、先ほどまで自分が釣り糸を垂らしていた場所へと戻る。

「どんな女がと聞かれると、困るなァ」

「何だよい、少しくらいはあんだろい。胸がでかい方がいいとか、自分より小さい方がいいとか、顔とか性格とかよい」

 はぐらかすような言葉を紡いだナマエへ、マルコがそんな風に言葉を放った。
 自分の質問が、ナマエの内側にどれだけ漣を広げているかなんて、マルコには分からないのだろう。
 ナマエはそれをマルコへ口にしていないのだから当然だ。
 その手が動いて、先ほど器具へ置いた釣竿を掴まえた。
 引き寄せたそれは相変わらず何の引っ掛かりも感じない。
 また餌をとられたかな、と軽く竿を揺らしてみながら、ナマエは口を動かした。

「……そうだな、足がきれいな方が好きだな」

「足かよい、こだわるねい」

「体は俺より大きくても小さくても構わないな。腕力も、勝てても勝てなくても」

「腕力もって……ナマエ、負けるのは弱すぎるだろい」

「そうか? どっちかっていうと体を鍛えてる方が好きだから」

「柔らかくなくていいのかよい」

 女は柔らかいもんだろうと呟いて、マルコが少しばかり変な顔をする。
 硬くても柔らかくても構わないよとそれへ返事をしてから、ナマエは腕を動かした。
 釣り糸を引き寄せ、やはり餌がとられていた釣り針を確認してから、マルコの方へとその顔を向ける。
 視線を向けられたマルコが怪訝そうにしているのにも構わず、軽く口を動かした。

「まあ、実際、見た目より中身じゃないか?」

「ああ……ジョズとかはよくそんなこと言ってたよい。美人で性格悪いのに引っかかったことがあんだとよい」

 軽く頷いて呟くマルコに、それは災難だったな、とナマエも答える。
 その手がちまちまと餌を釣り針へ仕掛け終え、放ったそれがまた海面へと戻された。

「性格だと、少し子供っぽいところがあってもいいかもしれない」

「かも、かよい」

「大人びた顔をされてもいいし、そうだな……」

 釣竿を掴んでから、ナマエの視線がマルコから外れる。

「俺の好きな相手が俺のことを好きになってくれるなら、それだけでいいさ」

 そんな風に言い放てば、そうかよい、とマルコが小さく呟いた。
 あまり納得していない様子の相手に、ナマエがちらりとマルコを見やる。
 片方の足で椅子を踏みつけたまま、マルコは何かを考えるように水面を睨んでいて、しかしナマエの視線に気付くとすぐに、その目をナマエの方へと向けた。

「どうかしたかい?」

 不思議そうに問われて、いや、と首を横に振ってから、ナマエが口を動かす。

「サッチにはマルコから言っておいてくれ。毎回誘いを断るのも、何だか申し訳ないから」

「分かったよい。二度とそんなとこには誘わせねェ、安心しろい」

 大きく頷き、何故か途中で声を低くしたマルコのことは少しだけ気になったが、それを問う前にナマエの手元の釣竿が大きく動いて、ナマエの注意は釣り糸の方へと向いてしまった。
 何でもかんでもマルコに話すなよ、と何やらげっそりした顔のサッチにナマエが詰られたのは、その日の夜の話である。



END

:
戻る