綴られない物事 (1/2)
※『とある日記帳のこと』の続き
「ん」
目の前に差し出されたそれに、え、と俺は小さく声を漏らした。
それが何なのか認識するのが難しくて、困惑しながら目を動かす。
こちらを見やったマルコはいつもと変わらない顔をしている。
それを見上げて、それから改めてその手をたどって差し出されてるものを見て、ぶわ、と冷や汗がわいた気がした。
思わず両手を伸ばして捕まえると、一冊のノートは簡単に奪い取ることができた。
少し古びたそれは、俺がしばらく前にあの小屋で仲良くしていたものだ。
「な、なな、こ、これっ」
「ああ、おれがあの小屋から持ってきてたんだよい」
大事にしてたろい、とマルコが笑う。
確かに、俺はこのノートを大事にしていた。
いつだったか、『紙に書いたり誰かに話したりすることで頭の整理をする』なんて方法を聞いたことがあったから、混乱の二文字がお似合いの状況だった自分を落ち着かせるために文字を記していたのだ。
つまりそれはほとんど日記で、そして俺があの島へと置いてきたはずのものだった。
書いてある文字は全部日本語で、誰かが読むなんてことも無いだろうと思いながら、それでも持っていけなかった理由は、ただ一つだ。
「な、なか……」
「ん?」
尋ねようとして言葉が紡げず、はくはくと口を動かした俺の目の前で、笑ったままのマルコが聞き返すように首を傾げる。
その目がどことなく意地悪く煌いて、俺はじわりと顔が熱を持ったのを自覚した。
読まれた。
これは、間違いなく読まれたに違いない。
「ば……馬鹿!」
恥ずかしさと恐ろしさで出てきた言葉はそんな小学生みたいな文句で、両手でノートを抱えたまま俺はその場から駆けだした。
あ、おい、と後ろから誰かが声をかけてきたのは分かったけれども、今は振り返っている場合じゃない。
とにかくこれをどこかへ隠さなくてはと、それだけを考えて、俺はそのまま甲板から船内へと逃げ込んだ。
※
おかしいと思ったのである。
マルコが俺へ『日本語』を教えろと言ったのは、あの小屋での生活が終わりになることが決まった後だった。
これは好都合だと俺も『英語』を教えてもらう約束をして、でもどうして日本語なんて習いたいんだろうとか、そんなことはちょっとだけ思ったのだ。
まさかマルコが俺の日記を読むために勉強していたなんて思わなかった。
いや、もしかしたら俺の日記だけが原因ではなかったかもしれないが、俺が自分の秘密をマルコに知られる手助けをしてしまったと言っても過言じゃない。
「穴があったら飛び込みたい……」
もはや半分泣きそうな気持ちで呟くと、ほってあげてもいいけど、と隣から声が掛かる。
「陸につくまでは我慢してくれる? モビーディックに穴開けたらさすがに怒られちまうからさ」
「うん……」
言葉と共に皿の上へ半分にちぎられたエビフライを移動されて、おとなしく頷いた。
食堂の端っこに座り込んだ俺の隣で、ハルタが食事をしながら頬杖をついている。
「それにしても、何、喧嘩してるの?」
いつもならマルコの隣に座ってるのに、と少し物珍しげに言われて、んぐ、と口に含んだエビフライが喉に詰まった。
慌ててグラスを掴み、水で詰まったものを流し落とすと、何やってるの、と隣でハルタが笑う。
「何って、いやあの」
グラスを置き、急になにを言い出すんだと目を向けると、あはは、と声を漏らしたハルタの手が、軽く俺の顔をつついた。
「顔真っ赤じゃん」
「えっ」
「ガキだなーナマエは」
すぐ顔に出るんだから、と楽しそうに紡がれて、ごしごしと顔を擦る。
確かに、俺はまだまだ未成年だ。
この世界にそういう法律はないのか、歓迎の宴で酒をふるまわれたことはあったけど、一口で前後不覚になってからは酒が俺の手元に回されることもなくなった。
周りには年上ばかりがあふれてるし、同じくらいのクルーだって、俺より随分と世間の荒波にもまれて育っていると思う。
だからガキと言われても仕方ないんだけど、やっぱり少し悔しくて眉が寄ってしまった。
俺のそれを眺めて、手を降ろしたハルタが頬杖をついたままで口を動かす。
「それで、マルコとなんかあった?」
「なんか、って……」
「ついに物陰で押し倒されたとか」
「おし!?」
何やら恐ろしいことを言われた気がして、変な声が出た。
大きかったそれは食堂の喧騒に紛れて目立たなかったが、慌てて両手で口をおさえる。
俺の方を見て、その様子じゃあそうじゃないんだ、と呟いたハルタが、うーんと声を漏らした。
「それじゃ、マルコに何されたのさ」
避けてるんだからマルコに原因があるんでしょ、と続いた言葉に、ぱちぱちと瞬きをする。
それから視線をゆるりとずらした俺は、随分と離れた場所に座っているマルコを見やった。
横にいるサッチになにやらあれこれと話しかけられているマルコは、普段と何も変わらない。
俺の日記を読んだなら、俺が書いてあったことだって知っているはずだ。
俺の気持ちも何もかも知って態度が変わらないというのは、どういう意味にとったらいいんだろう。
「な、なにも……」
ひとまずハルタへ向けて言葉を紡ぐと、ふうん? とハルタが声を漏らした。
それからその手がフォークを掴んで、片肘をついた行儀の悪い姿勢のまま、ぱくりと夕食を口に運ぶ。
「なんでもないなら避けないでやってよ、可哀想じゃん」
マルコが落ち込んでたよ、と紡がれた言葉に、俺はもう一度座っているマルコの方を見やった。
やっぱり、そこにいるマルコはいつもと何も変わらない。
だけど、俺より付き合いの長いハルタがそういうんなら、そうなんだろうか。
そうだとしたら、と沸き上がった罪悪感に、そっと先ほど放り出してしまったフォークを捕まえて、俺はマルコの方から視線を外した。
「…………ゼンショします」
「なにそれ」
ぽつりとつぶやいた俺に、また横でハルタが笑った。
※
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