ヒーローのたまご (2/3)
ちゃぷりちゃぷりと、小舟を波の叩く音がする。
もはや日も沈んだ暗い海の上で、ナマエはもぞりと身じろいだ。
両手も両足も縛られて、更には何やら大きな袋に首から下を入れられてしまっては、文字通り手も足も出ない。
「おじさん、なあってば」
「うるせェな!」
唯一自由になる口で言葉を吐き出したナマエへ対し、男は癇癪を起したように声を荒げた。
その両手でせっせとオールを漕ぎながら、海の上を進んでいる。
男の言葉の通りなら、すぐ近くの奥まった岩場に、彼の乗ってきた船が隠されているという話だった。
ぎろりとナマエをひと睨みし、そして必死の形相で両手を動かす相手を見やりながら、ふけたなあ、とナマエは他人事のように考えた。
ナマエの向かいに座り船を漕ぐ男は、この世界へとやってきたばかりのナマエを拾った『悪い海賊』だった。
一週間から十日も共に過ごした覚えが無いが、十年以上前の顔を覚えていたという事実に、ナマエは自分と相手の記憶力にとても驚いた。
『黙っておれに合わせろ、さもなけりゃコレに火をつける』
むせび泣き掻き抱くようにしてナマエを抱きしめながら、ぐり、と押し付けられたものは、相手の体に巻かれていた爆発物だった。
ナマエの体では対処しきれないであろう規模になるだろう被害を把握して、ナマエが相手に合わせた時、お前は相変わらず賢いなァ、と男は笑っていた。
『悪い人間』特有の厭らしい笑みと言うよりは、何処か歪んで自暴自棄に近いそれに困惑してしまったナマエが男にかどわかされる状況になったのは、彼と二人きりになったその後のことだ。
「テメェがあいつのところから逃げ出して、おれがどんな目に遭ったと思っていやがる……!」
吐き捨てるように寄越された言葉に、だって、とナマエは言葉を紡いだ。
「逃げなけりゃ、俺が可哀想な目に遭ってたよ」
「知るかテメェなんざ! おれはなァ……おれはなァ……!」
涙の混じる声音で紡がれたのは、先程店から連れ出されながら聞かされたのと同じ話だった。
どうやらナマエを買い付けた奴隷商人は、ナマエが逃げたというすべての責任を、それを売りつけた人間へと求めたらしい。
結果として海賊団だった男は追い詰められ、仲間はみんな彼を捨てて逃げた。
十年以上かけて甚振られ、こっぴどく扱われ、その心を粉々に折られ、ついには『人間爆弾』扱いされるところだったらしい男に、同情の念を抱かないのかと問われれば嘘になるだろう。
確かによその人間に売りつけられたが、ナマエを拾い自分の『所有物』扱いした目の前の男は、けれども間違いなくあの日ナマエを助けてくれた人間だった。
彼に出会わなかったなら、もしかしたらナマエはマルコにすら会えず、この恐ろしい世界のどこかであっさりとのたれ死んでいたのかもしれない。
「テメェ、あの野郎のところから『何』を盗みやがったんだ」
オールを動かしながら、男がそんな風に言ってナマエを見やる。
睨み付けてくるその眼差しを受け止めて、少し考えるそぶりをしてから、ナマエは口を動かした。
「何も」
心当たりがないよと紡ぎながらも、その脳裏に浮かんだのは吊るされていた小さな子供だ。
『……マル、ミセモノよい』
今はもはや使わなくなった一人称でそんな言葉を涙交じりに寄越した子供は、きっと随分な価値のある『商品』だったのだろう。
しかし、そんなことはナマエには関係の無いことだった。
視線を外したナマエの向かいで、男が短い舌打ちを零す。
それとともに動いた足がナマエの体を蹴飛ばして、腹を蹴りつけたそれにナマエは思わず身を丸めた。
歯を食いしばるナマエをよそに、はっ、と男が鼻を鳴らす。
「まァいい、テメェはおれの自由と引き換えだ。あいつの拷問はそりゃあきついからな、そのお堅い口も割れるだろうよ」
今のうちに何を言うか整理しとくんだな、と嘲笑を零した男に、痛みに小さく声を漏らしながら、ナマエが小舟の上でわずかに身じろぐ。
そしてそれと同時に、ふと視界に入り込んだ真っ暗な海と彼方で揺れたわずかな光に、どうしてだかナマエの口元には笑みが浮かんだ。
「……あのさ、おじさん」
「ああ?」
「俺、さっき言えなかったことがあるんだ」
ひとまずは近況報告でもしようかと思ったのに、テーブルを叩いてナマエの声を遮り、頼んだ料理も待たずにナマエを掴んで裏口から出て行った男を見やってナマエが言う。
それを聞き、わずかに怪訝そうな顔をした男が、何だよ、と必死に手を動かしながら先を促した。
それを聞いて、どうにか小舟の上で起き上がったナマエが言葉を続ける。
「俺さ、今、海賊なんだ」
「……急に何言って、」
「白ひげ海賊団って知ってる?」
紡いだナマエの言葉に、ゆるりとオールを動かしていた男の手が止まる。
怪訝そうだったその顔が、じわりと戸惑いと驚きを浮かべたのを見やり、やっぱり『白ひげ』は有名なのだなとナマエは把握した。
特にその船長がこの海に求めるものは、恐らく誰が求める『財宝』よりも価値の測り方の難しいものだ。
まさか、とその口が動いたところで、ばさりと大きな羽音と共に、真上から青い光が落ちる。
「ナマエ!」
真上から呼びかけてきた光の主にナマエが顔を上向かせると、両腕を青い炎の翼にした海賊が、船上のナマエと男を睨み付けていた。
間違いなく『誘拐』されている格好のナマエに、その顔つきが更に鋭くなる。
何だてめェ、と声を上げた男が慌てたように小舟の上に立ち上がったが、相手の振り回したオールをやすやすとマルコが蹴飛ばして、勢い余って男の体が小舟の上に倒れ込んだ。
そのままごろりと船の上から落ちて行った相手に、海面が波打ち小舟が揺さぶられる。
「あ、おじさん、うわっ」
驚いて手を伸ばそうとしたものの、身動きのほぼ取れない体ではそれも叶わず、今度はナマエの体が海の方へと傾く。
けれどもナマエが海へ落ちることを、後ろからその体を掴まえた相手が遮った。
その事実にナマエが後ろを見やれば、片腕の炎をゆるゆると収めていくところだったマルコがそこに立っている。
ぐらぐらと揺れる船の上で、何ともいかめしい顔をしているマルコに、ナマエが笑顔を向けた。
「さすがマルコ」
あの状況で、大っぴらに助けは呼べなかった。
それでもナマエの必死の訴えを、どうやらマルコはきちんと受け止めてくれていたらしい。
助けに来てくれたんだな、ありがとうと言葉を放ったナマエを見下ろし、舌打ちをしたマルコがナマエを小舟の上へと引き戻した。
「馬鹿ナマエ、何考えてんだよい」
唸りながら軽く頭を小突かれて、痛いな、とナマエは声を漏らす。
それから少しばかり身をよじり、ちらちらと暗い海面を気にしたナマエに、マルコが少しばかり怪訝そうな顔をした。
それを見上げてから、ナマエが口を動かす。
「さっきのおじさんのことも、できたら助けてくれないか?」
俺の拘束を解くだけでもいいんだけど、と言葉を続けたナマエに対して、マルコは何とも微妙な顔をした。
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