ナハトムジーク (2/2)
「……俺はよそ者なのに、あんな風に庇ってもらうことがあるなんて、思いもしなかったんです」
俺の記憶がただの妄想でなかったなら、俺は別の世界からやってきた人間だ。
勝手に紛れ込んだだけの、本当ならここにいるべきじゃない存在だった。
だというのにそんな俺を誰かが庇うなんて想像もしなかったし、あの海兵は無事だったけれども、いつかまた同じように庇われて、そしてその人が自分の代わりに死んでしまったら。
ただの空想でしかない仮定の話に、背中が冷えるような気持ちになった。
世界の片隅でひっそりと生きて、いつか帰る日を夢見ているだけで過ごせると思ったのに。
「助けられたのが怖かったって?」
俺の頭の中の想いを的確に言葉で表して、向かいの相手が不思議そうな顔をする。
俺より倍は大きい相手を見やり、はいと俺は返事をした。
俺の返事に目の前の人はよく分からないというような顔をしているが、伝わるとは思えないので気にしない。
何せ、この人も恐らくは、『庇ってくれる』側の人間だ。
俺の前でふうんと声を漏らして、頬杖をつくのを止めた目の前の相手が、両腕をベランダのヘリへと乗せた。
身をかがめ、今度はそこへ懐くようにされると、少しだけ俺が相手を見下ろす格好になる。
下から俺を見あげながら、よくわかんねェけど、と誰かさんが言葉を紡いだ。
「ナマエだって、誰かを助けたことくらいあるでしょうや」
迷子を母親のところへ届けてあげたりだとか。大荷物を抱えた知らない人間へ手を貸したりだとか。
いくつかをまるで見たことのように数え上げた相手に、そんなので死なないじゃないですか、と俺は答えた。
「それに、情けは人の為ならずって言うんですよ」
「ん? 助けるのは人の為にならねェって?」
「違います。誰かに優しくするのは、結局は自分の為だってことです」
俺の紡いだ言葉に、へえ、とベランダの向こう側で声が漏れる。
打算的に聞こえただろうに、わずかに微笑んだままの相手の表情はまるで変わらない。
部屋の明かりもつけていないのに、その顔がしっかりと見えるのは、空に昇った月が明るいからだろう。
「それじゃ、おれに椅子を用意しようかってのも、ナマエの為?」
こちらの言葉を繰り返すようにして、目の前の相手がそんなことを言う。
え、と声を漏らして思わず目を瞬かせた俺は、それから少しだけ考えて、ちらりとベランダの空いたスペースを見やった。
そこへ椅子を置いて、帰って来た時に誰かさんが眠り込んでいるのを想像してみて、それから視線を目の前の相手へと戻す。
「……そうですね、そうかもしれません」
そうやって『居場所』を作ったら、この人は今よりもっと俺のところへやってきてくれるかもしれない。
思わず湧いた期待を隠すでもなく、俺は答えて肩をすくめた。
お忙しい海兵さんであるということを俺は『知らない』から、俺の方から相手の方へ訪ねていくことは出来ない。
仕事を訊ねた俺へはぐらかした『クザンさん』の意図は読めないままだけど、今のままでも別に構わなかった。
俺だって、俺がどこの生まれなのかなんてことをこの人に言うつもりはない。
俺が胸に抱えているものも秘密も、普通の人にはただの冗談にしか聞こえないことくらい分かっている。
けれども気がかりは、この人がいつかはいなくなるということだ。
俺の知っている通りに『未来』へ進むのだったら、この人は海軍大将で、元帥の座を同僚と争い、負けて海軍からいなくなる。
どこを旅しているのかも分からないが、島を出たところで追いかけられるとも思えなかったし、何より俺だっていつ『いなくなる』のかも分からない。
だから、いつかずっと会えなくなることは間違いなかった。
いっそ知らないでいられれば良かったと思ってみたって、過去には戻れない。
だったら、それまでの間はもう少しくらい一緒にいたいと思っても仕方ないんじゃないだろうか。
「なるほどね」
俺の顔を見つめて、相槌を零した目の前の相手が、それからひょいと曲げていた背中を伸ばす。
俺より高い位置になったその顔を見あげると、青いシャツに白いベストを着込んだ彼が、ぽん、と自分が先ほどまで懐いていたベランダの縁を叩いた。
「でも、段ボールは勘弁してほしいんだけど。捨て猫みたいでしょうや」
「拾ってくださいって書いておきましょうか」
「あららら、誰かよその人に拾われちゃったらどうすんの」
落し物は海軍に届けられちまうんだよと言って笑った彼を見やり、それは困りますね、と俺も頷いた。
「だけど、人の家のベランダから勝手に持ちだすような親切な人は、そうはいないと思いますよ」
「ん? ん〜……ああ、そうか?」
俺の言葉に軽く首をかしげて、少し考え込んだように声を漏らした彼は、けれどもそれから数秒を置いて、ふるりと首を横に振った。
「例えば海兵サンでも、手段を問わない奴はいるわけよ」
誰のことを思い浮かべたのか、軽く笑いながら寄越された言葉に、そうなんですかと相槌を打つ。
手段を問わずに『捨て猫』を保護するというのは、優しいのか厳しいのか、一体どちらだろう。
どちらかも分からないが、とりあえずは『それじゃあ仕方ないですね』と言葉を零して、空いたスペースを掌で示す。
「それじゃあ、椅子だけにしておきます」
「そうして」
大きい奴にしますねと告げた俺に対して、柔らかく目の前の相手が笑った。
月明かりの下だというのに少しまばゆくすら見えるそれを見つめてから、俺も相手へ向けて笑みを深くする。
『クザンさん』はその日もそのまま帰って知ってしまって、けれどもそれから数日後、俺が用意した椅子に座り込んでぐっすりと眠っていた。
ちゃんと使ってくれたことが嬉しくて、中々起こすことが出来なかった。
end
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