ナハトムジーク (1/2)
※主人公はトリップ系一般人
生まれ育ったのとはまるで違う世界へ来てしまったと気付いたのは、訳の分からない場所へ放り出されて数日が経ってからのことだった。
町中にぽつんと佇んでいたら、どう考えても様子のおかしい俺は正義の執行者へと通報されて引き渡された。
背中に『正義』なんて書いてあるコートを着込んだおかしな人達に尋問されながら、自分が行くあても無ければ帰る方法も無いことを話しつつ、どうしてコスプレなんてしてるんだろう、と考えたのが一番最初。
移民として受け入れてもらえることが決まり、町中を見回して、ああここはどうやらあの『漫画』によく似た世界らしい、と把握したとしても、俺にはもはや出来ることなど何一つもなかった。
「あ」
月も登り切った時刻、仕事を終えて家へ帰り着いた俺は、ベランダ側のカーテンに映り込んでいる黒い影に気付いてため息を零して、狭い部屋を横断した先の窓を開けた。
「クザンさん、またそこで寝てるんですか」
掃き出し窓の向こう側を見やって声を掛けると、いくらここが一階とはいえ恐ろしい大きさの背中が目に入った。
人の家のベランダに半ば寄り掛かるようにして佇んでいた相手が、小さく声を漏らしてから姿勢を崩す。
その手がアイマスクを押し上げて、眠たげな目が現れた。
いつもながら、どうして立ちながら寝られるのだか分からない。
「んあ……おはよう」
「おはようございます。もう夜ですけどね」
ベランダへと裸足で出てそう声を掛けると、俺の言葉にちらりと真上を見あげた相手が、ああ本当だ、と空に昇る月を見て呟いた。
「今日はいつからいたんですか」
「さあ、どうだろね。日は暮れてなかった気がするけど」
「それじゃあ随分とお休みだったんですね」
いくら人通りの無い裏通りだからって、とため息を零してしまうのは、この人がここで寝ているのが初めてではないからだ。
どうやら俺の借りているこの部屋はそこそこ日当たりが良好なようで、ベランダで猫が寝ていたりするのはいつものことだった。
だがしかし、俺の常識的に考えておかしいくらいの体格の人がベランダの向こうに佇んでいるのを初めて見た時は、とてつもなく驚いたものだ。
しかもその相手がアイマスクを降ろしてすうすう寝こけているのだから当然だった。
立ちながら眠れる人間なんて都市伝説だと思っていたが、どうやら本当にいたらしい。
思わずつんつんとつついてしまって、それに気付いて起きた相手はああごめんねと言葉を置いてさっさといなくなってしまったが、それからも時々日当たりのいいここで眠っているのを見かけるようになった。
そのうちに何度か話をして、俺は随分『クザンさん』と仲良くなったと思う。
会える日を心待ちにしてしまうようになったのは誤算だったが、まあきっと、相手は気付きもしないだろう。
「やっぱり椅子でも用意しますか?」
ベランダに置いておきますからそこに座って寝たらどうですか、と言葉をかけると、いんやァ、と相手が首を横に振る。
「家主のいねェ時に家へ入り込むのはちょっとね」
「人の家の傍に立って寝ておいて、今さらそれを言うんですか」
常識的なのか何なのか、いつもの断り文句を寄越されて、俺の口からは呆れた声が漏れた。
「野良猫みたいなものでしょう、気にしませんから」
何だったら大きい段ボールを置きましょうか、と時々猫が伸びているベランダ端の段ボールを指差すと、こちらへ体を向けた相手が軽く頭を掻く。
「あららら……猫と一緒にされちまうのは心外だ」
「日あたりを求めてここで寝てる人にはそれで充分です」
きっぱりとそう言い放った俺を前にして、ひでェなァ、と彼が笑った。
けれども、年下の俺にそんなことを言われても気分を害した様子もなく、相変わらず何を考えているかもよく分からない顔をしている。
その顔に何となく見覚えがあると思ったのは、この人と初めて出会った時だった。
それがずっと前に観た映画だったことだとか、そして『漫画』の紙面でだったと気付いたのは、何度か会った後で名前を聞いてからだ。
道端で眠る時に晒して歩くわけにはいかないとでも思っているのか、その背中に背負う正義を脱いできている目の前の彼は、しかし海兵だった。
けれども、職業を聞いた俺へ対して誤魔化してきたので、俺も彼へ『知っている』ことは言えないでいる。
「それより、今日は随分疲れた顔してるね、ナマエ」
どうかしたの、と尋ねながらベランダのへりに肘を置いて頬杖をつかれて、そうですか? と首を傾げつつ顔に手を当てる。
「いつもと変わらない顔ですよ」
「本人はそのつもりかもしれねェけど、全然隠しきれてねェって」
言葉を放った俺へ対し、彼がそんな風に言葉を紡ぐ。
「今日の大通りでの騒ぎと、何か関係があったりする?」
それから続いた言葉に、知ってるんじゃないですか、と少しばかり口を尖らせてしまった。
海軍本部の近い小さな島だというのに、海賊がやってきて騒ぎを起こしたのだ。
拳銃を振り回して鉛玉を飛ばす相手に、悲鳴を上げたのは誰だったか。
買い出しの途中、驚いて転んだ俺を庇ってくれたのは、駆けつけた海兵のうちの一人だった。
どうしてだかこの島にいた『海軍大将』によって海賊は簡単に捕えられてしまったという話だったけど、その場からすぐに逃がされた俺はそれすら確認していない。
ただ、誰かにその身をていして庇われたという事実が、酷く恐ろしかった。
「痛い思いでもした?」
首を傾げた目の前の相手へそう問われて、怪我なんてしてませんよ、と言葉を放つ。
「海兵さんに庇って貰ったので。そういえば、お礼もちゃんと言えなかったかもしれません」
「そう? まあ、その海兵サンにはちゃんと伝わってるでしょうや」
上司から褒められてるかもね、なんて言って笑う相手に、そうだと良いですね、と俺も相槌を打つ。
それきり口を閉じた俺を前にして、目の前の彼は何も言わない。
ただその目が、じっと何かを待ってくれているように思えて、数分の沈黙の後で、俺はそろりと口を動かした。
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