海の森の彼2 (2/3)
「…………っ」
ナマエが目を覚ました時、その目に何より最初に入り込んだのは『太陽』と『雲』と『青空』だった。
目に沁みるようなそれが何なのかを把握して、その体がそのまま飛び起きる。
ざり、と手元で音がなって、それが砂によるものだと把握して、ナマエは困惑しながら周囲を見回した。
「……ここは……」
打ち寄せる波の音が聞こえるそこはどう考えても海辺の砂浜で、見回した周囲にはナマエの知る普通の樹木が立ち並んでいる。
意味が分からずもう一度周囲を見回して、やはり自分が先ほどまでとは違う場所にいると確認した後で、ナマエの口からは小さくため息が漏れた。
「……今度はここでってことか……」
全く知らない場所で目を覚ますのは、すでに二度目だ。
最初の時は理由も原因も分からなかったが、今回は恐らくあのおかしな何かが原因だろう。
なんだったんだアレは、と呟いて、ナマエの目がちらりと自分の左腕を見やる。
そこに巻き付けられた皮のベルトは少しばかり砂で汚れていて、動かした腕を自分の上着に擦り付けるようにして汚れを落とした。
あれからそれほど時間が経っているとは思えないが、アーロンはもう海の森へ戻ってきたところだろうか。
そうだったなら、もしかすると今頃はナマエが逃げたと思って怒っているかもしれない。
いつだったか、酷く怒った様子で難破船を破壊していたのを思い出して、怖いなあ、とナマエは少しだけ笑みを浮かべる。
ナマエが自分より『か弱い』生き物だと思っているのか、その拳をナマエへ向けてくることは無かったが、アーロンはどちらかと言えば激しい性格をしている魚人だった。
どこに行ったかも分からないナマエを追いかけてくるとは思えないが、もしもここが『元の世界』ではないのなら、不義理をしないためにも一度魚人島へ戻る手立てを考えてみるべきだろう。
とりあえず民家を捜してみるか、と判断して、そっとナマエの体が砂浜から立ち上がる。
体中についた砂にうんざりとした顔をして、その手で丁寧に砂を払っているところで、ざばりと何かが大きく水音を立てた。
打ち寄せる波の音とは全く違うその音に、おや、とナマエがその顔を向ける。
見やった先にいた相手も、同じように不思議そうな顔でナマエの方へ視線を向けた。
海の中から現れたのか、海水に体の半分ほどを浸しながら現れた彼は、どう見ても『人間』ではなく『魚人』だった。
なるほどここはまだ『漫画』の世界らしい、とその姿に判断をしてから、ナマエは軽く首を傾げる。
額に太陽のマークを入れ、何本もの腕を持つ少し奇抜な髪形の彼を、どこかで見たことがある気がするのだ。
海の森ではアーロン以外の魚人には会ったことも無いと言うのに、何故だろうか。
悩んだナマエの前で、ニュー、と魚人が声を漏らした。
「な、何でこんなとこに人間がいるんだ、さっきまで誰もいなかったってのにィ〜!」
「…………何だか分からないが、悪かったな」
困ったような声を出してじたばたと身じろぐ相手に、ナマエはひとまず謝罪した。
もう行くから気にしないでくれ、と続けようとしたところで、さらにざばりと水音が立つ。
続けざまにざばざばと水音が立ち、それと共に次々と海の中から現れる人影達に、ナマエは目を瞬かせた。
それらは全て、魚人だったからだ。
何故、魚人達がどう考えても魚人島ではないだろうこの砂浜に現れているのだろうか。
意味が分からず立ち尽くすナマエに気付いて、尖った唇が特徴的な魚人が、何やら不穏な眼差しをナマエへ向けてくる。
「チュッ おいハチ、お前さっき誰もいねェって言ってたじゃねェか。偵察くらいちゃんとやれよ」
「ニュ、ニュ〜! さっきは居なかったんだ、本当だって!」
困り顔の魚人が仲間達を振り向いて慌てたような声を零しているその後ろで、殺せばいいじゃねェか、と誰かが口を動かした。
騒ぎは起こすなって言われてるだろ、見たとこ一人だ平気だろう、一応聞いた方がいいんじゃねェのか、などと、何とも簡単にやり取りされる会話に、どうしたものだろうか、とナマエは彼らを眺めて少しだけ考える。
逃げ出すという選択肢は、上陸してきている魚人達がどう見ても全てが成人であるという事実の下に消えてしまった。
ナマエの知る限り、魚人というのは人間より身体能力の高い生き物だ。子供だったアーロンですらそうなのだから、大人の魚人にかかればナマエなど一ひねりだろうし、逃げ切れる筈がない。
それとも、命乞いをすれば見逃がしてもらえるだろうか。
うーんと唸って眉を寄せたナマエの視界で、ざばり、とまた魚人が一人海から顔を出した。
次は何の魚人だろうか、となんとはなしにそちらへ視線を向けて、ナマエの目がぱちりと瞬く。
「アーロンさん!」
何人かの魚人が声をそろえて呼びかけた先にいたのは、確かにナマエの知るノコギリザメの魚人だった。
しかし、その体躯はまるで違う。
ナマエがあの海の森で出会った魚人は、まだ幼い子供であったはずだ。
だというのに、海から現れ、砂浜へと移動してきている見覚えのある彼は、どう見ても成人した魚人だった。
鍛えられた体躯に、太陽の形の刺青がしっかりと刻まれている。他の魚人達が道を開ける様子からして、彼こそがこの一団の首領なのだろう。
海水をしたたらせながら砂浜へ上陸して、その目がぎろりとその場にふさわしくないのだろうナマエを睨み付けた。
「偵察した筈だが……何故、人間がいる?」
「ハチの奴が見過ごしたんだそうだ」
首領の問いかけに、肩を竦めて黒髪の魚人が答える。
ハチと呼ばれていた最初の魚人が『その時は居なかったんだ』と抗議しているが、それを気にした様子もなく、歩いた首領がナマエの方へと近寄った。
そのまま見下ろされて、仕方なくナマエが見つめ返せば、首領の目がじろじろとナマエを観察し、ある一点に注目する。
注がれる視線を追いかけて、ナマエもそちらへ視線を向けた。
首領が見つめた先にあったのは、ナマエの腕に巻かれた皮のベルトだった。
ナマエにとっては一か月ほど前、小さな魚人がその手でナマエの腕へ巻き付けた、所有の証だ。
そっと動かし、自分と首領から見えやすい位置に移動させたナマエの腕は、正面から伸びてきた大きな腕にがしりと掴まれた。
「うっ!」
ぐいと引っ張られ、痛みに思わず声が漏れる。
けれども首領は気にした様子もなく、ナマエの踵が砂浜から浮くほどその腕を引き寄せてから、じっとその目でナマエの腕に巻かれたものを確認した。
それから、ようやくナマエの腕を手放して、今度はその手がナマエの顔を下から掬うように捕まえる。
上向かされて仕方なく、ナマエはその顔をもう一度首領へと向けた。
どうかしたんですか、と誰かが不思議そうに声を掛けているが、首領はそちらへは反応しない。
その代わりのように軽く息を漏らしてから、砂の上へとナマエを突き飛ばした。
耐えられるはずもないナマエの足が砂の上を滑って、どすんとその体が後ろへ倒れ込む。
「相変わらず貧弱だな」
そちらへ向けて吐き捨てて、首領の眼差しがまだ海に浸かっている同胞たちへと向けられた。
「ハチ、こいつを船へ連れていけ。他は、最初の予定通りおれと来い」
「殺さねェのか。そいつは人間だろう」
放たれた首領の言葉に、黒髪の魚人がそんな風に問いを投げる。
それに答えず、二度は言わねえ、とだけ唸ってから、首領はそのままナマエに背中を向けた。
暇潰しに後で嬲り殺すんだろ、なんて酷いことを言いながら、黒髪の魚人の肩を叩いた魚人が他の魚人を促して歩き出し、ぞろぞろと魚人達が歩き出す。
砂浜に倒れて少しだけ体を起こしたまま、見送る形になってしまったナマエは、ええと、と声を漏らしてからそこでようやく砂浜の上に座り直した。
「……一体、何がどうなってるんだ」
場所を移動しただけなのだと思っていたのだが、もしかして自分は時間すら超えてしまっているのだろうか。
いくら『漫画の世界』であるとは言っても、こうもなんでもありだと、ナマエ自身も困惑するばかりだ。
よく分からないものの、とりあえず体の砂を払ったナマエの上に、そっと影が掛かった。
それを受けて視線を上げれば、ハチというらしい魚人がナマエの傍らに屈みこんだところだった。
その腕のうちの二本が伸ばされて、そっとナマエの背中の砂を払い落とす。
「悪い、ありがとう」
告げながら立ち上がったナマエの体を支えて、更に砂を払ってから、ハチと呼ばれた彼はわざとらしく厳しい顔でナマエを見下ろした。
「アーロンさんが言うから連れてくぞ。変なことするなよ、人間」
言いながらひょいと体を持ち上げられて、されるがままになりつつ、ナマエはちらりと魚人達が去って行った方を見やる。
砂浜には足跡がついているが、すでに砂浜から先へと進んだ彼らの姿は、もうどこにも見当たらない。
「……そうか、やっぱりアーロンだよな」
「ニュ? お前、アーロンさんを知ってるのか」
呟いたナマエを見下ろして、タコの魚人が軽く首を傾げる。
その後で、まあ賞金首になったしな、とどことなく嬉しそうに言う相手にそうかと頷いて、ナマエは小さくため息を漏らした。
やはり、あの魚人は『アーロン』で間違いないようだ。
ナマエが小さかった頃のアーロンと一緒にいたのは、一年にも満たない短い時間だけだった。
もしもナマエ自身であったならそんな昔のことは覚えていないに決まっているが、はたしてアーロンはあの頃のことを覚えているのだろうか。
少なくともベルトのことは覚えていたのかもしれないが、そんなことを考えたナマエを背負いながら、魚人が口を動かした。
「おれははっちゃんってェんだ、お前はなんてェんだ? 人間」
「俺か? 俺はナマエだ」
「ナマエ!?」
ナマエの言葉に、どうしてかタコの魚人が大きく声を出す。
そうして、空いている一対の腕で慌てたように口を押さえたのが肩越しに見えて、ナマエは軽く首を傾げた。
「どうかしたのか?」
後ろからナマエが尋ねれば、きょろりと周囲を確認して、自分達以外に誰もいないことを確認した魚人が、そろりそろりとその手を離す。
「な、何でもねェ。そうか、ナマエか。ナマエっていうんだな?」
「? ああ」
問われてナマエが頷けば、そうか! と何故か笑顔を浮かべて、魚人は改めて両腕でナマエのことを背負い直し、その足がそのまま海へと向かって歩き出した。
どことなく弾んだ様子で砂を蹴り、すぐに海に入った相手に、ナマエはただ不思議そうな顔をするばかりだ。
何故、名前を聞いたくらいでそんな反応をするのだろうか。
海に入ったタコの魚人が、体を沈めないよう気を付けながら泳ぎ出したので、船に戻ったら教えてくれるだろうか、なんて考えながらぼんやりと海の上を移動する。
島から見えづらい場所に置いたのだと言う船も、ナマエが運ばれた部屋も、ナマエにはまるで見覚えのないものだった。
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