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蜉蝣の恋 (2/2)
 どうやら俺は、死んで『異世界』へ紛れ込んだらしい。
 わけがわからず混乱しながらのホームレス期間を経て、ようやくそう納得した俺が身を持ち直したのは、死体のように道端に転がって寝て起きるのを一週間ほど繰り返してからだった。
 どれだけ寝ても目は覚めないし、どうにもこうにも俺の常識では考えられないような体格の人間が街のあちこちにいるのだから、現実にあらがっても仕方のないことだ。
 好きな漫画の一つと似た世界にいられるという事実は少し嬉しいが、どうもまだまだ『原作』は始まっていない段階のようで、そして何よりここは『主人公』のいる場所からは遠く離れた島らしい。
 今の俺はただのしがない雑貨売りで、一度も引き金を引いたことのない護身用の銃を机に隠して、頬杖をついて狭い店の奥に座っている。
 元々この店はとある年配の女性のもので、腰を痛めたと言う彼女の代わりに店番をやるようになったのが一番最初だ。
 それだって、自分で自身を売り込んだわけじゃない。

「…………」

 ちらりと傍らを見やると、俺が座る机のわきに置かれた大きな椅子にどっかりと我が物顔で座った男が、煙草を一本口に咥えていた。
 今は『コラソン』と呼ばれているらしい彼は、ドンキホーテファミリーと呼ばれ怖れられる連中の一人だ。
 そして、道端でどれだけ寝ようとも『夢』から醒めず、ついには現実を受け入れて途方に暮れていた俺を、突然ひっつかんでこの店まで引きずってきた誰かさんでもある。
 物静かな『コラソン』がどこの誰でどういう人間なのかを、恐らく俺は知っている。
 この世界が本当に『あの漫画』の世界なら、という前提ではあるが、多分間違いないだろう。
 何せ、本当に『怖い人』ならば、ホームレスだった俺をゴミ処理場ではなく働き口の方へ引きずってくる筈がない。
 だとすれば彼は『話せる』んだろうが、今のところ俺にその声を聞かせてくれる予定は無いらしい。
 ただこうして時々店を訪れては、様子を窺うように俺を眺めて煙草を買って、二、三本吸って帰っていく。
 文字とボディランゲージ以外で返事をくれない相手にひたすら話しかけるだけの話術は俺になく、彼がこうして訪れるようになって三か月目の今は、俺もその様子を眺めながらじっと静かに過ごすようになった。
 これはこれで、穏やかで悪くない時間だ。
 しかし、俺がこんな時間を過ごせるのは、あとどのくらいなんだろうか。

「……」

 『先』を知っているからこそ、そんなことを考えてしまって目を伏せて、俺は自分の手元を見下ろした。
 三か月と少し前に火傷をしていた両掌は、すぐに治療をしなかったせいで少し跡が残ってしまったが、随分と綺麗になっていた。
 それだけの時間を、俺がここで過ごしたと言うことだ。
 俺が今いるこの『スパイダーマイルズ』があの『漫画』の中の島だとして、これから先も俺の知る『漫画』の通りに進んでいくのなら、数年もしないうちに『コラソン』はいなくなってしまうだろう。
 そんな風に考えると胸のうちのどこかが冷えた気がして、小さく息を吸い込んだ。

「…………わっ」

 眉を寄せたところでひたりと何かが頬に触れて、驚いて声を上げる。
 ついでに身を引いて顔を上げると、いつの間にか椅子に座った『コラソン』がこちらを向いていて、その大きくて長い手がこちらへと向けて伸ばされていた。
 俺の顔に触れたらしいその手にぱちりと目を瞬かせて、とりあえず机の端に並べてある煙草の箱をつまんで乗せる。
 しかし、『買うのか』とその顔を見やると『コラソン』はふるりと首を横に振り、それからぽとりと机の上に煙草を落とした。
 そうして、もう少しこちらへ体を向けて、改めて伸ばされた手が俺の顔に触れる。
 少しばかり煙草の匂いのする指が俺の額に触れて、ぐり、と眉間を押したので、俺はそこに皺が寄っていることに気が付いた。

「……あ、すみません。ちょっと考え事をしてて」

 押された箇所を弛めながらそう言うと、満足したらしく手を引いた『コラソン』が、軽く首を傾げる。
 その拍子にぽとりとその口から煙草が落ちて、あ、と声を漏らして見やった先で、『コラソン』は慌てず騒がず膝に落ちた煙草を拾い、何の問題も無かったかのようにその口へと咥えなおした。
 ふわふわ漂う紫煙を口から零して、その上でこちらを見てくる『コラソン』に、何かを問われている気がする。
 それはもしかしたら俺の錯覚なのかもしれないが、しかし心配されたと考えてみると、途端に何となくくすぐったくなってしまった。
 まあ、仕方ないだろう。『好きな人』に気にかけられて、嬉しくならない人間なんていないに決まっている。
 けれども、俺の『悩み事』をまさか当人へ口にすることが出来るはずもなく、俺はそっと口を動かした。

「いや、そんなに深刻なことでもないですよ」

 自分の声に嘘の色が混じっているような気がして、誤魔化すように軽く笑う。
 気にしないでください、と言葉を続けると、『コラソン』がもぞもぞと身じろぎをした。
 煙草を咥えたままのそれに、揺れた煙草の灰が落ちる。
 どうしたのかと見つめていると、しばらくしてメモ帳らしきものとペンを取り出した『コラソン』が、さらさらとそこに字を書いてこちらへ向けた。

『恋の悩み?』

 そんなふうに寄越された『言葉』に、ぱちりと瞬きをする。
 あんまりにも唐突で、何と言っていいのか分からない。
 戸惑いながら視線を戻すと、こちらを見つめている『コラソン』の目はどうしてか真剣だった。
 根が海兵の彼にとって、もしかしたら俺は、『顔見知り』から『友人』にくらいは昇格しているのだろうか。
 ドンキホーテファミリーとお近づきになると言うのは何となく怖いが、そう考えると嬉しいのか悲しいのか分からなくなって、笑っているのか何なのか分からないような顔になった自分に気が付いた。
 想い人にいつまで会えるのか考えてしまう、これはまさしく恋の悩みで、だけど、まさか当人にそんな相談ができるはずもない。
 だから無理やり口角を上げて、そのままふるりと首を横に振った。

「違います。ちょっと、今日の夕飯何にしようかなァ、なんて思ってて」

 紡いだ言葉はまるっきり嘘で、恐らく『コラソン』にもそれは伝わっただろう。
 俺の台詞を聞いた『コラソン』が、サングラスの向こうでその目を揺らして、それからふいとこちらからその目を逸らす。
 どことなく寂しげに肩を落として見えたその姿に、自分の目の都合の良さに零れた笑いは先ほどよりも深くなった。
 俺が目の前の彼を好きになったのは、やはり『悪人』には成り切れないらしい『海兵』が、とても優しいと実感した時だった。
 男が男にそういう意味での好意を持つなんて、そんな偶然と偶然が重なったりでもしなければありえない。
 『コラソン』がもしも俺の『秘密』に万が一にもがっかりしてくれているのなら、それはきっと『友人』が自分へ『秘密』を抱えたことに対してで、俺がほんの少しでも考えてしまったようなことでは決してないだろう。
 俺の恋が叶う筈はないし、そんなこと、今さら考える必要すらない。
 誤魔化すように『そっちの夕飯は何ですか』と尋ねると、律儀な『コラソン』は『肉』と文字を書いて見せた。
 どこかの『主人公』みたいなそれにくすくす笑ったところで、『コラソン』の口に咥えていた煙草が最後の灰を落とす。
 置いてあった灰皿の上に吸殻を落として、『コラソン』はそのままひょいと立ち上がった。
 ありがとうございました、といつものようにその背中へ向けて声を掛けると、こちらへ背を向けたままの『コラソン』がひらりとその手を振る。
 そのまま、帰るために歩いていく背中へ向けて、『コラソンさん』と声を掛けた。
 普段ならやらないそれに足を止めた『コラソン』が、少しばかり戸惑った顔をしてこちらを振り向く。
 不思議そうなその顔を見やってから、俺は笑ったままで言葉を放った。

「遠くへ旅に出る時は、良かったら一度、お立ち寄りくださいね」

 役に立ちそうなものを用意しておきますから、なんて続けた俺に、『コラソン』は何かを少しだけ考えたようだった。
 それから、こくりと一つ頷いて、今度こそこちらへ背中を向ける。
 そのまま歩き出して店を出ていく彼を、俺は店の中から見送っていた。



end



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