しあわせなせかい (2/3)
※
これはどういう状況だろうか。
ナマエは一人、樽から頭を出すような格好で考えた。
目の前には甲板が広がっていて、そしてちらりと視線を上げた先には青空に似つかわしくないジョリーロジャーがはためいている。
すなわちそこは、先ほどナマエが見上げていた巨大な海賊船の上だった。
ナマエがいる樽には海水が入っていて、ナマエの体を乾かさないよう注意が払われている。
何とも素晴らしいお気遣いであるが、出来ればそろそろ海に逃がしてはもらえないだろうかと、ナマエはちらちらと周囲を見回す。
全体的に遠巻きにナマエを見ている海賊達も、それぞれが強面揃いだ。
コンビニでたむろする不良相手にそうするように、ナマエはそっとそちらから目を逸らした。
ちらりと見下ろした足元は、やはり海水の満たされた樽だ。
そっと下半身を折り曲げて、ナマエはそのまま樽の中に座り込んだ。
頭の先まで水に浸かるが、『人魚』と呼ばれる体となったナマエには何の問題も無い。
この『異世界』に来てから感じたことも無かった閉塞感を感じながら、ナマエの目がじっと目の前の樽壁を見つめる。
一体どういう状況だろうか。
水中で、ナマエはもう一度考えた。
先ほど見上げた海賊旗に、とても見覚えがあるのだ。
もちろんそれは現代日本で実物を見たというわけでは無く、『漫画』の中でのことである。
ただそれだけなら、よく似た別物であると判断することもできるだろう。
しかし、海から声を掛けたナマエの下へと降下してきた青い火の鳥が、男を鉄球ごとナマエから受け取り、そして何故かもう一度降りてきてナマエを甲板へと放り出し、そこでよいよい言う海賊へと姿を変化させたのについてはどう説明をつければいいのだろうか。
「…………ここ、ワンピースか……?」
今の今まで考えても見なかった事態に、ナマエは思わず水の中で口を動かした。
こぽりと零れた泡が、ナマエの口から水面へと昇っていく。
先ほどまで水の中以外で息をしていたからか、吐き出される泡の量はいつもより多く感じた。
もしも本当にこの世界が漫画『ワンピース』の世界であるのなら、すなわちこの船はモビーディック号と呼ばれる、白ひげ海賊団のものだ。
もしそうなら、どちらかと言えば『主人公』の『味方側』である彼らなら、ナマエをどこかへ売り払うような心配は無いだろう。
そうは思うものの、だったらどうして未だ海へ降ろしてもらえないのかが分からない。
うーむ、と水の中で唸るナマエの耳に、どたどたと響く足音が振動で伝わる。
どうやら、誰かが甲板へと走り出てきたようだ。
慌てたようなその足音がだんだんと近くなって、おや、と樽の中でナマエが少しばかり身構えたところで、どん、と大きな衝撃が樽を襲った。
「わっ」
思わず声を上げたナマエの上から、ざぶんと何かが水の中へと入り込んでくる。
泡を纏って水中に現れたそれが、誰かの右腕だと言うことに気付いて、ナマエはぱちりと目を瞬かせた。
水中から上を仰ぎ見れば、樽を誰かがのぞき込むようにしているのが分かる。
その右腕はその誰かのもので、わきわきと軽く動いたその掌はナマエの方を向いていた。
触れ、と誘うようなそれに思わずナマエが手を伸ばせば、がしりとそのまま手を握られる。
「ぶわっ」
そうしてそのまま上へと引っ張り上げられて、ナマエの口からは間抜けな声が漏れた。
傾きそうになった樽を、おっと、と誰かが支える。
その状態で前のめりになった体を軽く押しやられ、樽の縁に腰掛けるような格好にされたナマエは、体中から海水を滴らせたままで目の前の相手を見やった。
ナマエの目の前には、男が一人立っていた。
右腕が濡れているのは、今海水で満たされた樽に突っ込んでいたからだろう。白いコックコートを羽織るようにしていて、慌てて着込んできたかのように前ははだけている。
左目の近くには少し血のにじんだガーゼを当てていて、何より特徴的なのがそのリーゼントだった。
どう見ても不良である。
思わず身を引いたナマエを見つめてから、男が後ろを見やる。
「ほらな! 見ろよマルコ!」
「…………だから、さっきも見たっつってんだよい」
先ほどのナマエの思考を肯定するような名前を紡がれて、やはりその名前だったらしいよいよい言っていた海賊が、呆れたような顔でナマエとリーゼント男の方へと近づいてきた。
少し眠たげに見えるその目がリーゼント男の方を見やり、そうしてそのままナマエの方へと向けられる。
「それより、そっちがビビってんだろい。いきなり樽から引っ張り出すなよい、サッチ」
サッチ。
マルコの放った言葉に、ぱちりと瞬きをしたナマエの視線が、だらしないコックコートの着方をした男へと戻される。
『サッチ』と言えば、漫画『ワンピース』の白ひげ海賊団に居た、黒ひげティーチに殺された男だったはずだ。
漫画ではそれほど出番も無くて、あまり顔を覚えていないが、そういえばこんなふうにリーゼントだった気もする。
思わず掴まれていない方の手を伸ばして、ナマエはそっと男のリーゼントに手を触れた。
あまりきちんとは整えられていなかったそれが少しばかり崩れて、うお、と声を漏らした男がナマエへと顔を向け直す。
零れた茶髪がその頬に少し落ちて、少々長いそれを見たナマエは、あ、と思わず声を漏らした。
「さっきの」
「なんだよ、今気付いたのか?」
呟くナマエへ、『サッチ』が肩を竦める。
どうやら彼は、先ほどナマエが救助した、足に鉄球を付けられていた男であったらしい。
気絶までしたのだからきっと今頃はベッドの住人だろうと思ったのに、何ともぴんぴんしている。
丈夫な体を持っているらしい男がナマエの腕を離し、代わりのように肩を叩いた。
「さっきはありがとな! お前が助けてくれなかったら、おれァ今頃海の底だったぜ!」
はきはきと言葉を零す相手に、どういたしまして、ととりあえずナマエが口を動かす。
ちらりと見えた視界の端で、『サッチ』が無事であることを確認したクルー達がざわざわと動き始めたのが分かった。何やら樽や木箱を運んでいるが、何かあるのだろうか。
よく分からずにいるナマエの前でさっさと崩れたリーゼントを直してから、改めて『サッチ』が体を寄せてきた。
にかり、と向けられた全開の笑顔に、どきりと少しばかりナマエの胸が高鳴る。
ただの笑顔だと言うのに、急激に、何だかその前にいるのがとてつもなく恥ずかしくなった。
思わず目の前の顔から逃れるように樽の中へと座り込んだナマエに、それを見下ろした男が軽く首を傾げる。
「ん? どうかしたか?」
「あ、いや、なんでも」
問われて首を横に振りつつ、肩から上を水面に出したまま、ナマエはそっと水の中で胸に手を当てる。
急激な動悸の変化がよく分からないが、とりあえず、それを目の前の男に知られてはならないような気がしたのだ。
そのまま誤魔化すようにへらりとナマエが笑うと、それを見下ろした『サッチ』が何だか変な顔をした。
動きを止めた相手に首を傾げたナマエのまえで、やや置いてから、男は後ろの『マルコ』を振り返る。
「……なあマルコ、あのルールって今回も有効か?」
「助けてくれた恩人を戦利品扱いにするって? オヤジに怒られろい」
「…………だよなー……」
二人の会話の意味は分からないが、がくりと『サッチ』が肩を落としたのは分かる。
何の話だろうと不思議そうな顔をしたナマエがそれらの意味を知ったのは、身寄りもない人魚として白ひげ海賊団に『保護』されてから半年ほど後のこと。
それならその『戦利品』にしてくれとナマエが『サッチ』に願ったのは、それからさらに一か月ほど後のことだった。
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