手ぬるい恋 (2/2)
ゆらゆらと、視界が揺れる。
何だか気分がいいなと思いながらぼんやりしていたら、何か柔らかなものの上へと放り出された。
わずかに身じろいで、すり、と頬を滑った感触に、それがシーツであると認識する。
嗅いだことのない匂いに少しばかり意識が覚醒して、あれ、と声を零しながら身を起こした。
「……ここ、は」
「わしの家じゃァ」
どこだ、と起き上がりながら周囲を見回した俺へ、そんな風に言葉が寄越される。
驚いてそちらを見やると、着替える途中だったらしいサカズキが、その手でコートを壁に掛けたところだった。
わしの家、という言葉を反芻して、もう一度周囲を見回し、ようやくどういう意味かを理解する。
妙に懐かしいような気のする和風の室内は、確かにサカズキの体躯に見合った大きさだ。
俺が転がっていたのは、敷かれた布団の上だった。
ぼんやりとそれを眺めている間に、近寄ってきたらしいサカズキが、すぐそばに座る。
「酒に弱いんは相変わらずじゃのう、ナマエ」
そんな風に言われて視線を向けると、手早く着替えたらしいサカズキは、普段着らしい着流し姿だった。
どうやら俺は、あそこでそのまま酔いつぶれてしまったらしい。
酒を過ごすなんて久しぶりだ、と考えるもののまだ何となくふわふわしているのは、体に酒が残っているからだろうか。
「わざわざ連れて帰ってくれたんですか」
「おどれの家より、わしの家が近かったけェのォ」
「……それは、迷惑を掛けて申し訳ありません」
言葉を零しつつ頭を下げた俺の前で、ふん、とサカズキが鼻で笑う。
それからぐいと体を押しやられて、下げた頭を無理やり上げさせられた。
「まだそがいな口を利くんか」
「え?」
「ここァ、わしの家じゃと言うちょろうが」
低い声で唸るサカズキに、ぱちりと瞬きをした。
それから、もう一度周囲を見回す。
確かに、ここはサカズキの家のようだ。
俺とサカズキ以外には誰もいないのだから、もしサカズキが嘘を吐いていたって気付ける筈もないが、サカズキが俺にそんな嘘を吐く理由なんてない。
「おどれに丁寧な口を利かれると、嫌なことしか思いだしゃあせん」
戸惑う俺を見ながら、サカズキがそんな風に言う。
その顔は本当に不愉快そうに歪んでいて、放たれた言葉に俺の頭が思い出したのは、もう随分と前のことだった。
『……その冗談が面白いと、本気で思うちょるんか』
低い声で言われた言葉が、まるで今この場で言われたかのように鮮明に、頭の中を回る。
怒らせたと気付いて慌てて謝ったし、冗談です申し訳ありません許してくださいと乞うて、苛立った様子のサカズキにどうにか許してもらったのは、サカズキが中将になった頃だったろうか。
むしろこちらの方が泣きたいくらいだって言うのに何で謝ってるんだろう、なんて考えたことも、しっかり覚えている。
サカズキの言う『嫌なこと』というのは、あれだろうか。
そんなに不愉快に思われただなんて、と思うと、胸のどこかに何かが刺さったような気がした。
「……軽い冗談だったのに、まだ怒ってたのか」
ひきつりそうな口をどうにか笑みの形にして言葉を零すと、サカズキの眉間のしわがわずかに和らいだ。
敬語が嫌だなんて、そんな理由で機嫌を悪くなんてしないでほしい、と、本人には言える筈もない不満が胸の内側にたまったのを感じる。
だってまるでそれだと、俺がサカズキの『特別』であるようだ。
「おどれの『冗談』は趣味が悪いと言うちょるんじゃ」
言葉と共に押しやられ、俺はそのまま布団の上へと転がされた。
そのまま横倒しになって、サカズキを下から見上げる。
伸びてきた手がこちらのネクタイを引き抜いて、ぽいと放った。
「サカズキに笑ってほしくて、考えた冗談だったのになァ」
されるがままになりながら言葉を紡ぐ俺の上で、馬鹿なことを、とサカズキが唸る。
「『あれ』を女にも言うとりゃあせんじゃろうな」
「まさか、俺だって言う相手は選ぶよ」
詰るような言葉に答えながら少し寝返りを打って仰向けになると、部屋の天井が視界に入った。
染みの殆ど無い板張りを目で辿って、ゆっくりと顔だけを動かす。
「あんなの、サカズキにしか言わないって」
言葉と共に笑みを浮かべると、なんじゃそれは、とサカズキが弛んだばかりの眉間のしわを深くした。
そんな怒ったような顔をされたって、仕方ない。
『俺が、お前を好きだって言ったらどうする?』
何々だったらどうする、と尋ねるのは俺のいつもの口癖で、そのうちの一つとして紛れさせたそれは、俺からサカズキへの告白だった。
他の誰かだったら笑い飛ばしただろう俺の冗談に対して、サカズキが寄越したのは不愉快そうな返答で、つまりそれは、俺の告白をなかったものにしたという事実に他ならない。
卑怯なやり方で告白して、真っ向から打ち返されて傷付いたなんて馬鹿みたいな話だ。
俺とサカズキは同性で、生まれ直したとは言え俺は『この世界』のまっとうな人間とも言えず、そしてサカズキはこの先海軍元帥になる男だった。
最初から、望みの一つも無かったと知っている。
そういえば確か、サカズキに敬語を使いだすようになったのはあの頃からだった。
「わしだけか」
「そう、サカズキだけ」
確かめるような相手の言葉へ頷いて、とりあえず自分の手でシャツのボタンを二つほど外す。
寝やすい格好にはなったが、俺はこのままここで眠ってもいいんだろうか。
しかし、先程着替えていた様子からしてここはサカズキの私室であるはずだ。
いや、サカズキは一人暮らしの筈だからどの部屋も私室だろうが、サカズキの寝床であるはずのこの布団を俺が使ったら、サカズキはどこで眠るんだろう。
そんなことを少しだけ考えて、ごろりと寝返りを打って布団から降りようとすると、添えられた掌に押さえられて止められる。
「何をしちょる」
「いや、畳の上で寝ようかと」
そうしたらお前が布団を使えるだろう、と布団と畳の境目に手を当てながら言葉を放つと、馬鹿か、と唸ったサカズキの手がぐいと俺を押し戻した。
のしかかるように移動してきたサカズキに驚いたものの、サカズキは気にした様子もなく俺の上へ掛布団を引き上げて、俺の体を軽く包んでしまう。
それから体を放して、そこのまま寝ろと命じてきた相手に、俺は大人しく布団に収まったままで視線を向けた。
「……俺がここで寝たら、サカズキはどこで……」
「隣に客室があるけェ、そこじゃ」
「……それなら、俺がそこで……」
「自力で歩くことも出来んおどれを、わしに運べと言うちょるんか?」
わずかに苛立ったような言葉を寄越したサカズキに、これは駄目だ、と判断して体の力を抜いた。
這えば何とか移動できそうな気がしないでもないが、サカズキはそれを見逃してくれそうにない。
スーツがぐしゃぐしゃになるだろうが、まあ朝頑張って走れば家まで着替えに戻れるだろう。
分かった、大人しくここで寝る、と呟くと、最初からそうしろと言うちょるじゃろうが、と唸りながらサカズキが立ち上がった。
「お礼、何がいいか考えておいてくれ」
見上げて布団の中からそう言うと、こちらへ背中を向けかけたサカズキの足がふと止まる。
それからやや置いて、振り向いたサカズキがじろりと俺を見下ろして来た。
サカズキの前に転がる海賊達はこの角度から見ているんだろうか、なんて考えてしまうくらいには威圧的なその眼差しを受け止めて、そのまま見上げていると、やや置いてその目が俺から逸らされる。
「……おどれには何にも期待しとらんけェ、好きにせェ」
そうして落ちてきた辛辣な言葉に、はは、と小さく笑った。
何だか酷く傷つけられたような気がするが、まさか傷付いてますと顔に出すわけにもいかない。
「分かった、それじゃあ、もしも俺が朝飯を作ったら食べてくれるか?」
そんな言葉を紡いだ俺に、好きにしろともう一度言って、サカズキがすたすたと歩いていく。
部屋を出る寸前の背中に『おやすみ』と投げかけたら、灯りを消したサカズキがもう一度だけちらりとこちらを見て、それからそのまま部屋の戸を閉ざした。
去っていくサカズキの気配を感じながら、ゆっくりと目を閉じて、触れている布団に体を預ける。
酔った頭で、サカズキの匂いがするな、なんて考えたのを最後に、俺の意識は闇の中に沈んだ。
翌朝、俺の作った飯を仏頂面で残さず食べてくれたサカズキに嬉しくなった俺は、あまりにもお手軽でちょろい男だった。
end
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