手ぬるい恋 (1/2)
※有知識トリップ主人公は海兵さん
俺の同期には、海軍大将『赤犬』と呼ばれる男がいる。
「……何をしちょる」
「何をって」
「遊んどる暇があるんか、おどれ」
低い声で唸られて、申し訳ありません、と俺は軽く頭を下げた。
あえて敬語を使うのは、俺が目の前の同期殿より下の階級だからだ。
正確に言えば、今度の海軍大将達は皆出世の早い連中で、同期の殆どが置いていかれた。俺もその一人である。
同期で友人であるからこそ職場以外では敬語を使わないことが多いが、俺の知る未来では『海軍元帥』となるサカズキにそんな口を利けるのだって今のうちだ。
さすがに海軍のトップにタメ口なんて、そんな恐ろしいことが出来るのはつる中将やガープ中将くらいなものだろう。
俺の同期であり、今は直属の上官である海軍大将は、己にも部下にも同僚にも、とても厳しい男だ。
俺の目の前に積まれた書類が、何よりそれを物語っている。
毎日毎日書類仕事、それが無ければ訓練漬けの毎日だ。
『この世界』へ生まれ直して良かったと思うくらいには日々鍛えられている。もしも俺がただの日本人としての体しかなかったら、今頃血反吐を吐いて退役していたに違いない。
今日もまた、大量の仕事を前にうんざりして頬杖をついていたところを、目ざとく見つけられてしまったのだ。
「……サカズキ大将、もしも俺が少しだけ休憩が欲しいと言ったらどうしますか」
とりあえず視線を向けてそう呟くと、サカズキがわずかに眉を寄せる。
それからややおいて、仕方のない奴じゃァ、と零れた声に、どうやら許可が出たらしいと俺は把握した。
ありがとうございますとそちらへ声を掛けてから、机の下に置いてあった荷物を机の上へと出す。
出てきたそれは、俺が家から持ってきた水筒だった。
書類仕事が始まると執務室に軟禁状態になると言うことはよくよく知っているので、家からきちんと持ってきたのだ。
トイレだけは許可が出るにしても、コーヒーやお茶を淹れる時間すら惜しまねばならないこの事態は異様だと思うのだが、他の海軍大将達についている海兵は一体どうしているんだろう。
そんなことを考えながら、荷物から大きめのカップを取り出し、ふたを外して水筒の中身を注いだ。
そしてそれを手に立ち上がり、すたすたとサカズキへと近付く。
「大将もどうぞ」
そう言って差し出すと、むっとした顔のまま、サカズキは俺からカップを受け取った。
サカズキに合わせた大きさのそれに注がれたお茶を飲んで、ふ、と息を吐いたのが見える。
それを見てから自分の席へと戻って、俺も自分の分の茶を口にした。
お茶は渋くておいしいが、こうなると少し甘いものも欲しい気がする。
「大将、もしも俺が明日おやつを持ちこんだらどうしますか」
「……ナマエ、おどれここに何をしに来ちょるつもりじゃァ」
「仕事です」
呆れたような声にそう答えて、俺はぱたりとそのまま執務机に懐いた。
昨日も一昨日も帰る時間がとても遅かったから、体はすっかり疲れてしまっている。
今日の午後が訓練だと言うのことを理解したくない。
夜からはあちこちの部隊を交えての懇親会があると言う話だが、今日はやっぱり帰らせてはもらえないだろうか。
一度願ったもののあっさり却下されたことを考えて、うー、と小さく唸る。
「何を唸っちょる」
「今日、早く帰れないかなァ、と」
「……ナマエ」
低い声に言葉を返すと、更に低くなった声で名前を呼ばれる。
冗談です、とそれへ言い返して、俺は机に懐いたままで言葉を続けた。
「毎日家へは寝に帰るようなもので、休みの日だって家からは殆ど一歩も出られないんですよ。家事に追われてまして」
一人暮らしだからこそ、自分がやらねばあの恐ろしい部屋をきれいには出来ない。
昔はもう少しましだったのだが、サカズキの直属に移動してから、それすらままならなくなってしまった。
『同期』だろうが『友達』だろうが、サカズキは容赦がない。
いっそ異動願いを出してやろうかとも思うくらいだが、他へ異動してもこうだったら、と考えると中々それも出来なかった。
何せ、もはや階級に恐ろしく開きのある俺とサカズキでは、顔を合わせる場所なんてこの執務室と、あとは部隊演習の時くらいだ。
演習中のサカズキに話しかけに行けるわけもないのだから、そうなると近い場所で会話が出来るのは今このときくらいなものになる。
望みは無いと分かっていてもそれを手放せないくらいには、俺はサカズキを慕っていた。
「友達も、最近は食事にすら誘ってくれなくなりましたし」
はー、とため息を零してそう呟く。
付き合いが悪くなれば疎遠になっていくのが世の常とは言え、メールもなければ遠くの人間とリアルタイムで交流できるSNSの一つもないこの世界では、俺の親しい人間というのもどんどん減っていっている。いっそ文通でもすればいいのかとも思ったが、俺が筆不精ではそれも意味がない。
最近では、上司であるサカズキと限られた数人の同僚にしか会っていない気すらする。とんだ社畜だ。
寂しいです、と続けると、知らんわ、とサカズキが吐き捨てた。
苛立ったようなその声に、寝返りを打つようにしてサカズキの方へ顔を向ける。
いまだ机に懐く俺を睨んで、サカズキは短く舌打ちを零した。
「……おどれが『疲れた』『疲れた』連呼しよるから、遠慮の一つもされちょるんじゃろうが」
「遠慮……遠慮?」
サカズキの口から漏れるには、随分と似合わない台詞だ。
思わず体を起こすと、俺の顔を睨んだまま手に持っていたカップを置いたサカズキが、それからわずかにため息を零した。
「仕事を軽くしたら、おどれはわしより先に帰りよるけェのォ」
「まあ、残業は減らすに越したことは……」
「気に入らん」
俺の言葉を叩き斬るようにそう言って、サカズキの手がペンを握る。
何だそれ、とは思いながらも、俺も水筒を片付けた。
見たところサカズキのカップにはまだ中身が入っているようなので、あれは後で回収することにして、俺もまたペンを握る。
俺が残業を減らすのが気に入らないというのは、どういうことだろう。
社畜仲間が欲しいと言うことだろうか。
それとも、何か別の意味があるのか。
だってあれではまるで、『一緒にいたい』とでも言っているみたいだ。
そう考えると少しにやりと笑いそうになってしまって、慌てて顔を引き締める。
馬鹿みたいな期待をしても裏切られるだけだと言うことくらい、俺はよくよく理解している。
サカズキは俺を部下兼友人としか見ていないのだから、期待するだけ無駄なのだ。
「……大将、今日の店、どんな店なんでしょうね?」
「どこでも変わらん」
そんな会話を交わしながら、せっせと書類を片付けていく。
夜の懇親会まで、あと数時間と言ったところだった。
※
「もしも俺が海賊になったらどうしますか」
口から紡いだそれは、酒の肴にぼんやりと尋ねた、どうでもいいような話題の一つだった。
しかしそれを受け取った側にとってそうでないことはその場の気温がわずかに変わったことでそうそうに理解したし、ああしまった、と酒で滑りやすくなった自分の口に舌打ちを零しかけたのをどうにか堪える。
サカズキの前で紡ぐには、今のはあまりにも無神経な言葉だった。
「……海の屑に成り下がりたいと、思うとるんか」
低い声で囁かれて、例えばの話ですよ、と答えながら周囲を確認する。
いくつかの部隊で合わせての合同宴会で、周りは随分酒に浸って伏している。彼方で元気な我らが英雄殿の相手は大将青雉がやっているが、あれもそろそろ潰されるだろう。大将黄猿の姿が見えないのは、恐らくいつものようにこっそりと帰ってしまったからに違いない。
誰もこちらへ目を向けていないのを確認してから、俺はそろりとサカズキへ近寄った。
「軽口には過ぎた発言でした。申し訳ありませんサカズキ大将、忘れてください」
俺の謝罪に、酒の入ったグラスを持ったままのサカズキ側から漂っていた熱気がゆるりと和らいでいく。
許してくれるらしい相手にほっと息を吐いたが、サカズキがこちらへ向けている視線の鋭さは全く和らぐ気配が無かった。
どうしたのかとそれを見つめていると、一口自分のグラスの中身を飲んだサカズキが、低い声で言葉を零す。
「……『職場』と『仕事』以外で、それは使わんと言うたじゃろうが」
苛立ったような言葉に、軽く首を傾げた。
「……敬語で話すのなんて、今さらじゃないですか」
軍属で、上官に敬語を使わない奴なんてそうそういないだろう。
ただの日常で、この場に俺とサカズキ以外の海兵がいなければ普通の口をきいても問題なかったかもしれないが、ここは職場の人間と共にいる酒場なのだから、そんなわけにもいかない。
サカズキが俺より上になるのなんて、本当にすぐだった。
この世界に生まれ直して、『前の世界』よりも強くなったと自負はしているが、それでもやっぱり恐ろしく強いサカズキたちには敵わないし追いつかない。
そんなことは分かりきったことだったし、この世界が『あの漫画』の世界だと気付いてしまった俺にとって、サカズキは次期海軍大将であり時期海軍元帥だったから、違和感の一つも抱くわけがない。
嫉妬するだけ馬鹿な話だし、むしろそれを応援する立場でいたかった。
最初の頃はそれでも普通に話しかけていたが、一度サカズキの同僚に妙な顔で見られてから、それが不自然だと気付いて、職場では敬語を使うようになったのだ。
サカズキは最初怪訝そうな顔をしていたが、あの時だってちゃんと説明したら受け入れていたし、とまで考えて、恐らく戸惑った顔をしただろう俺を見据え、サカズキがわずかに酒の匂いのするため息を零した。
その手がグラスを置いて、ゆっくりとこちらへと移動してくる。
俺より少し大きいその手を何となく見つめていると、サカズキの手がテーブルの下へと入り、がし、と下におろしていた俺の腕を掴まえた。
人に見えないところで手を握ってくる、とかそういうサカズキに似合わない可愛らしいものでは無くて、どちらかと言えば拘束とでも言うようなその力に、わずかに痛みも感じる。
「いっ……」
まさか骨を折られるとは言わないが、明らかに強く握られて小さく声を漏らした俺の横で、サカズキがゆるりと言葉を零した。
「まず腕をもいで、足を潰しちゃる」
「……な……」
「傷口も焦しておきゃァ、失血で死ぬようなこともありゃァせん」
低く唸る誰かさんの声は、妙に真剣そのものだ。
何を急に恐ろしいことを、と身を引きかけたが、俺の腕を掴んでいるサカズキの手がそれをさせない。
それどころか、安心せェ、と言葉を放ち、サカズキの目がこちらをまっすぐに見つめる。
「おどれが海の屑に成り下がったなら、わしが直々に殺しちゃるわ」
他の誰にも渡しゃあせん、と言葉を響かせてすぐに、サカズキの手が俺の腕を手放した。
グラスを持ち直し、またその中身を呷るサカズキの横で、ぐるぐるとサカズキの言葉が頭の中に回る。
どうやら今のサカズキの言葉は、さっきの俺のおふざけに対する回答だったらしい。
あり得るはずもない『もしも』だったのに、それに真面目に答えを寄越すなんて、さすがサカズキだ。俺の冗談に、こいつはいつだって真っ向から真面目な返事をくれる。
身内から出た錆は自分が片付ける、とただそう宣言されただけのような気もしたが、『誰にも渡さない』なんて、何だか熱烈な言葉のように思えた。
嬉しいような恐ろしいような、微妙な気持ちでそっとサカズキから目を逸らして、自分のグラスも掴まえた。
そっと中身を一口飲んで、喉の奥を流れた後で口に残ったわずかな甘みを感じながら、ゆっくりと口を動かす。
「……さすがに『友達』に殺されるのは勘弁してほしいので、海賊になるのはやめておきます」
そんな風に呟いた俺は間違ってはいなかった筈だが、サカズキの方からは一瞬、熱気が漂った。
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