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幸せの過程について (2/3)
 モビーディック号が魚人島へと訪れたのは、船長『白ひげ』の思い付きだった。
 久しぶりに『友人』に会いたくなったのだと言って、何人かの息子達を連れて王へ会いに行ってしまった彼らを見送るのもそこそこに島へと降り立ったナマエは、その目で改めて自分の体に着けられたシャボンを見下ろした。

「すごいな、シャボンって……!」

「だろ? まあ、ここじゃバブリーサンゴってのを使うんだけどな」

 ナマエの体をふわりと浮かせる不思議な物体を吐き出した貝を片手に、サッチが楽しげに笑っている。
 足元は陸に触れてもいないが、久しぶりに自分の好きなように動けると軽く尾を動かしてから、ナマエもサッチへ笑みを返した。

「見たことなかった女性の人魚も見られたし、すごく嬉しい。案内してくれてありがとうな、サッチ」

「おれとしては、何でお前が女の人魚に会ったことねェのかがわかんねェんだけど」

 まあもっと歳行くと尾が分かれたりするって言うしな、などと呟いて肩を竦めたサッチに、すごくきれいだったな、とナマエが囁く。
 先ほど覗いてきた入り江には、美人の人魚たちが何人もいたのだ。
 特に『白ひげ海賊団』には友好的であるらしく、覗いているサッチとナマエを見つけて軽く手まで振ってくれていた。

「あんなに美人だったら、狙われるのも分かる気がする」

 入り江があった方へ視線を向け、ちゃんと誰かが護衛してないと駄目だな、とまで呟き軽く頷いたナマエの横で、ふうん、とサッチが声を漏らす。
 どこか不満そうに聞こえたそれに目を瞬かせ、ナマエが視線を戻すと、リーゼントの海賊が先ほどまでの微笑みを消して、少しばかりつまらなそうな顔をしていた。
 その手がひょいとナマエの方へと伸びて来て、むに、とナマエの薄い頬をつまむ。

「サッチ?」

「お前案外女好きだったんだな」

 その状態のまま真横で言われて、え、とナマエは声を漏らした。
 それから少しだけ考えて、だって、と頬を引っ張られながら言葉を返す。

「美人ばっかりだっただろ?」

 サッチのことをそう言った対象に見ているナマエですら、彼女たちの美しさにあこがれめいたときめきを抱いたのだ。
 一般的な男性と同じ嗜好であるサッチならさらに胸打たれただろうと窺うと、そりゃそうだけどよ、と呟いたサッチの指がナマエから離れる。
 何か言いたげにその目がナマエを見つめて、それから仕方なさそうに零れたため息とともに逸らされた。

「……まー、お前も気を付けろよな、ナマエ。人魚は人魚ってだけで狙われたりするからな」

「他でも何度か言われた気がするけど、男の人魚を狙うって言う奴はそんなにいないんじゃないのか?」

「男とか女とか関係ない奴もいるんだよ、残念なことに」

 首を傾げるナマエの前でどうしてか口元を歪めて、サッチの目がわずかに逸らされる。

「そういう奴らに需要があるから、人攫い屋にとっても人魚ってのは一攫千金の獲物だ」

 だから気を付けるように、と続いた言葉に、やはり想像力が働かず、ナマエは首を傾げる。
 それが視界に入ったのか、逸らした目をすぐに戻したサッチが、首かしげるなよと仕方なさそうに笑った。
 今一つ納得は出来ていないが、その目がふざけているようには見えなかったので、ナマエはこくりと一つ頷く。

「……分かった。心配してくれてありがとう、サッチ」

「おう。まァ、おれが一緒の時はそんな目には遭わさねえけどな!」

 そんな風に言って、サッチの手が軽くナマエの肩を叩く。
 飯食いに行こうぜと誘う彼につれられて、ナマエはサッチの傍らを泳いだ。

「何食いたい?」

「店が分からないから、サッチが食べたい物で」

「ん? そうか? それじゃあ」

 会話を交わしつつ町を行くナマエとサッチに、物陰から視線を向ける何人かがいることには、気付かないまま。







 こういうのを、何と言うんだったろうか。
 尾びれにおもり付の鉄輪を括り付けられてガラスの入れ物へ入れられてしまったナマエは、水に満たされたそこから室内を窺いつつそんなことを考えていた。
 海水に満ちたそこに入っているナマエを見やって、室内にいる何人かの男がニヤニヤと笑っている。
 わずかに水とガラスを伝わって聞こえる音が、彼らが『人魚』の売値がいくらになるか話しているのだとナマエへ伝えた。
 つまり、どうやら『彼ら』は『人攫い屋』であるらしい。
 つい先ほどまでサッチと一緒にいたはずのナマエは一人きりだ。
 小物を扱う店に入っていくサッチを見送って、表側の商品を眺めていたら、すぐそばの路地の手前で小さな子供が泣いていた。
 一番近くにいるのがナマエだったので、サッチの目の届く範囲から離れたナマエは、子供に『どうしたんだ』と尋ねたのだ。
 転んだらしい魚人の子供が膝に擦り傷を作っていたから、持ち運んでいた鞄の中から取り出した水で軽く流してやって、上着の裾とタオルのどちらにするか迷って、タオルの方で傷口を覆った。
 家に帰って消毒してもらえと促して、どうにか泣き止んだ子供が離れていくのを見送ったところで、すぐ傍から予想外の攻撃を受けたことまでは覚えている。
 細い路地の暗がりに、何か潜んでいる可能性を全く考えていなかった結果だ。

「はあ……」

 ナマエがいるのはどうやら船の中のようで、伝わる振動や外側にいる『彼ら』の発言から、すでに魚人島を出航しているらしいと言うことは分かった。
 助けを呼ぼうにも、声が届く範囲に助けてくれる人間がいない。
 逃げる機会をうかがわなくては、このままだと人攫い屋の手によってどこかの物好きに売られてしまうだろう。

「……刺青、痛そうだったけど入れとけばよかったかな」

 抱くようにした自分の両腕を両手で擦ってから、水の中でナマエが呟く。
 白ひげ海賊団であることの証は、まだナマエの体には刻まれていない。
 同じように証を刻んでいなかったクルーの一人からマーク入りのバンダナは貰ったが、普段使わないそれはサッチに預けたっきりだ。
 さすがにいかに人攫い屋であろうとも、『白ひげ海賊団』の一員には手を出さなかったに違いない。
 そう思うと、きちんと身に着けていなかった自分の愚かさ加減に眉が寄せられて、もう一度ナマエの口からは溜息が漏れ、零れたそれが気泡となって真上へと昇って行った。
 見下ろした尾びれには鉄輪が巻かれていて、その先には重石がある。
 丸い鉄球は、いつだったかサッチが拘束されていたものよりは随分と小さい。
 少し邪魔だが泳ぐのに支障はないものの、それは泳げる広さがあればこその話だろう。

「……どうしよう」

 声を零したナマエは、それが随分と震えていると言うことに気が付いた。
 同じように震えた体が、拘束具から伸びている鎖を揺らしてわずかに耳障りな音を立てさせる。
 脳裏に思い浮かんだのはコックコートの彼で、その場にはいないのに口を動かさずにはいられなかった。

「サッチ……」

 名前を呼んで、助けてと叫んだって駆けつけてくれる筈がない。
 もしもそんなことがあればそれこそヒーローだろうと、ナマエが女々しく弱い自分に苦く笑ったところで、強烈な衝撃が船ごとナマエの入ったガラスの入れ物を揺らす。
 驚いて目を見開いたナマエの向かいで、同じように驚いた顔をした人攫い屋たちの何人かが転び、それから慌てて起き上がった。
 『何があった』『シャボンは割れてねェだろうな』『獲物ごと沈没なんて冗談じゃねェぞ』と言葉を交わしながら、駆け足で部屋を出ていく。
 他の部屋にいたのだろう何人かの乗組員も同じ方向へ駆けていき、それを見送ったナマエは、ぱちりと瞬きをした。
 それから、もう一度周囲を見回して、部屋の中には誰もいないと言うことを確認する。
 乗組員達も全員が一カ所へ集まってしまったようで、ガラスに押し当てた耳へ伝わる足音はどんどん遠くなって聞こえなくなっていった。
 音が全く伝わってこないほど全員が遠くへ行ったのを確認してから、ナマエの尾びれが水を掻く。
 鎖がじゃらじゃらと激しく音を零すものの、気にせずガラスの縁まで手を伸ばして、ナマエはそのまま水から顔を出した。

「……は、」

 水まみれの顔を拭いもせずに、軽く息を吸い込んでから、鉄球まで引っ張り上げて入れ物の縁にしがみ付く。
 その状態で尾びれを振ると、ナマエの体が揺れ、水が波打ち、底から浮いていた重石が水の中で揺さぶられて、ごち、ごちとガラスの入れ物へぶつかった。
 何度も尾びれを振って、厚みのあるガラスへ鉄球を打ち付けながら揺れていたナマエの体が、やがてガラスの入れ物ごとぐらぐらと揺れ始める。
 両手で体を支えたまま、息を詰めて体を揺さぶったナマエは、そのままぐらりと自分の体と入れ物が前へ傾いだのを感じて、強く目を閉じた。
 内側からの攻撃でも割れないほどに厚いガラスが、床にぶつかってごとりと大きな音を立てる。
 それと共に中から零れた水に押し出されて、ナマエの体も床の上へと転がった。

「う……っ」

 あまり手入れの行き届いていない床にざらりと頬を擦られて、ナマエの眉が寄せられる。
 ひりつくそこを片手で抑えながら、それでもどうにか起き上がったナマエは、真後ろに転がる入れ物を見やり、水びたしになった床の上へ視線を向けてから、そのまま通路側へと顔を向けた。
 シャボンも無い状態では宙を泳ぐこともできず、全身を使って床を這う。
 擦り付けた体のあちこちが痛み、尾びれに取り付けられたままの鉄球が邪魔をしているが、今のうちに逃げ出さなくてはどうにもならない。
 何度も鉄球に尾びれを引っ張られ、痛みに顔をしかめながらもどうにか通路まで這い出たナマエは、見やった通路のどちら側にも人影が無いことを確認してから、乗組員たちが何人も駆けていったのとは逆の方向へ手を伸ばした。

「普通、甲板までの通路って二つあるよな……」

 船内はどこかから外へとつながっている筈だと、床で擦れて血がにじんだ自分の尾びれを見やってから、とりあえずそのまま奥へと進む。
 初めて乗り込んだこの船がどういう作りなのかは分からないが、人攫い屋と同じ方向へ行っては発見されるだけだろう。
 ずりずりと床の上を這い、いくつめか分からないドアの前を通り過ぎてさらに先へと進んだところで、がん、と大きな音が通路に響く。
 あまりにも唐突なそれにびくりと体を震わせたナマエは、その物音がすぐ傍らの壁から放たれていると気付いて、ころりと転がって通路の端に寄った。

「な、何だ?」

 がん、がんと断続的に聞こえるそれは、どうも壁の向こうから壁を攻撃しているような物音だ。
 困惑しながら様子をうかがうナマエの前で、やがて盛大に打たれた壁が、ついに悲鳴を上げてひびを入れる。
 更に何度かの攻撃で板がばきりと折れ、ちかりと何か輝くものが見えた。
 差し込んだ光は明るく、どうやらそこは外側につながっていたらしいと把握したナマエの目の前で、ばきばきと壁の穴が広げられていく。ちらりと覗いたのは、宝石で出来た大きな掌のようなものだ。
 そうしてその手がばきんと大きな壁板の塊を取り除き、開けた場所へいち早く入り込んで来た相手に、ナマエは目を見開いた。
 相手も同じように目を丸くして、それから慌ててナマエへ近寄り両手を伸ばす。
 触れてくるその掌を拒まないのは、ナマエがその相手をよく知っていて、何より先ほど助けを求めた相手だったからだ。

「大丈夫か、ナマエ!」

 声を上げたコックコートの海賊に、頷くことしかナマエには出来なかった。





 


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