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幸せの過程について (1/3)
※一周年記念企画の『しあわせなせかい』から
※トリップ主が人魚





 強く尾を振って、伸ばした手で軽く水を掻く。
 ただそれだけで見る見るうちに体が前に進んで、泳いでいる魚達の群れを追い越した。
 肌を撫でて滑る水を感じながら、心地よさにわずかに開いた口から小さな泡がこぽりと零れる。
 尾を振って体を前に進めるのはそのままに、くるりと体を裏返したナマエは、自分が零した泡が昇っていく先にある海面を見上げた。
 今が昼間であることを示す明るい海面の向こうはきらきらと太陽を弾いて煌めいていて、差し込んだ光が波につられたようにゆらゆらと揺れている。
 そうしてそれらを阻むように海面から海中へと覗いている大きな船底に、ナマエの口にはわずかな笑みが浮かんだ。
 本来なら警戒して近寄らない筈の『船』達の中で、今錨をおろして休んでいるあの船だけがナマエにとっての例外だ。
 何故なら、あの船の上にはナマエの『家族』達が住んでいる。
 しばらく船底を見上げて泳いでいたナマエの傍に魚が一匹近寄って、ついばむようにその口先をナマエの耳元近くへ寄せる。
 そうして寄越された囁きに、海面を見上げていたナマエの視線が海底へと向けられた。
 ナマエが進む先に『何か』があると告げた魚がふりふりと尾を振って別れを告げて離れていくのを見送って、ナマエの視線がその『何か』へ向けられる。

「……あ、沈没船か」

 そうして、深い海底の端にあった船の残骸に、ナマエは尾を動かす動きを緩めた。
 沈没してどれほどの時が経っているのか、藻や貝が生えて殆ど海底と同化しているそれは、ナマエの真上を横切っていくあの船よりも随分と小さかった。
 そろりと近寄ったナマエの手がその船体に触れると、腐って脆くなっているらしいそれにびしりとひびが入る。
 慌てて手を放したナマエは、それからしばらくその船を見つめた後で、尾を振ってその船の甲板へ当たる場所へと移動した。
 突然現れたナマエに小さな魚達が慌てたように逃げて、それからそれが人魚だと気付いてすぐに戻ってくる。

「あ、ごめん」

 脅かすなと背びれを揺らして抗議する魚達に謝って、ナマエはするりと船の中へと侵入した。
 船内は薄暗く、やはりそこかしこに藻や貝が生えてしまっている。
 時折聞こえる魚達の声を耳で追いつつ、船体に触れないように気を付けながら奥へと進んだナマエは、途中でちかりと光を弾いた何かに気付いて動きを止めた。
 壊れた扉で塞がれた一部屋の傍に、いくつか落ちているそれは金色の硬貨だ。

「……金貨?」

 海の中で呟いて、ナマエの手がそれを拾い上げる。
 きらきらと輝くそれはやはり金貨で、少し汚れたそれを指でこすりながら、綺麗だな、とナマエは言葉を零した。
 差し込む光をちかちかとはじくそれを見つめて、その頭に一番初めに思い浮かんだのは、一人の人間の顔だ。

「あげたら喜ぶかな」

 思わずそんな風に言葉を零して、ナマエの手が他にも落ちていた金貨を拾い上げ、危険な船内からそろりと抜け出す。
 両手でそれを掴んだまま、尾を振ったナマエが目指したのは海面だ。
 そのまま海上へ顔を出して、勢い余ってばしゃりとわずかに水しぶきを立てる。
 途端に増えた空気を吸い込み、ぷは、と口から海水を零したナマエは、それからきょろりと周囲を見回した。
 見渡す限りほとんどが海と空の青で彩られたその場所で、かなり離れた場所にある島と、そのすぐそばに停泊している船を見つける。
 あそこだ、と声を漏らして両手で金貨を抱えたまま、ナマエはすぐにそちらへ向けて泳ぎ出した。
 波を掻き、水を滑って進めば、すぐに島の傍まで近寄ることが出来る。
 普段なら警戒してそれ以上は進まないが、次の島は『無人島』だと聞いていたので、ナマエはそのまま巨大なモビーディック号の傍まで近寄ることが出来た。
 周囲をくるりと回ってみるものの、船からナマエを見下ろして手を振ってくるクルーの中に、ナマエの目的の人物はいない。
 それを確認してからもう一度海の中へ沈んだナマエは、もしかすると陸に上がったのかもしれない、と考えて、モビーディック号の下を潜り抜けてそのまま浅瀬へ向かった。
 柔らかな砂が尾びれにあたり、やがて体にも浅くなった海底が触れて、そこで場所を留めようと泳ぐのをやめたが、大きく寄せた波に押されて砂浜へと乗り上げる。

「わっ」

 押し上げられて波に取り残され、砂に顔を押し付ける格好になってしまったナマエは、慌てて少しだけ顔を起こして目に入りそうだった砂を両手で払った。
 それから、太陽に温められた柔らかな砂の上に這い、小さな頃に見たイルカショーのように尾びれを持ち上げてきょろりと周囲を見回したナマエの目に、砂の上に小舟を乗り上げらせている海賊の姿が映る。
 その中に目的の一人を見つけて、その目がわずかに輝いた。
 少し離れた場所にいたサッチが、向かいにいたジョズに声を掛けられてナマエの方を振り返り、驚いたように目を丸くする。
 それからすぐに船を手放して、ナマエの方へと駆け寄ってきた。

「ナマエ、何してんだ?」

 問いながらナマエの体をひょいと後ろから持ち上げられて、わ、とナマエの口から声が漏れた。

「陸に上がりてェときは呼べって言ってるだろ」

 ナマエへ向けてそう言いながら、サッチの手が軽くナマエの体にこびりついた砂を払う。
 上がるつもりは無かったんだけど、と呟きつつ、ナマエの目が砂浜を見やる。
 砂浜にいる何人かのクルー達は、ナマエとサッチのいる方向を見て何やら楽しそうに笑っていた。

「みんなで降りないのか?」

 人数の少なさに不思議そうな声を出したナマエに、とりあえず探索してからだな、と答えたサッチがナマエの体を改めて砂の上へと座らせる。
 それからその手でさっさとナマエの体についた砂を払い落として、ある程度落としたところでその目がナマエの顔へと戻された。

「いつもは浅瀬にも来ないのに、どうしたんだよ」

「サッチを捜してたんだ」

「おれ? 何か用事だったのか?」

「うん」

 寄越された言葉に頷いて、これ、とナマエの両手が持っていたものをサッチへ向けて差し出す。
 サッチにあげようと思って、と呟きつつ開いた掌の上に乗っていたものに、サッチが不思議そうな視線を向けて、それからそれが何なのかに気付いてぱちぱちと瞬きを下。

「こりゃ金貨じゃねェか。どっからだ?」

「沈没船があったんだ。船はすごく脆くなってて、サルベージは難しそうだけど」

 サッチの言葉にそう答えてナマエは顎で海の方を示した。
 へえ、と声を漏らしてちらりと海を見やったサッチが、それからすぐにナマエの手の上へと視線を戻して、その指で少し汚れた金貨のうちの一枚をつまむ。

「おれが貰っていいのか?」

「うん。全部どうぞ」

 ナマエがそう言葉を口にすると、ははは、とサッチの口が笑い声を零した。
 その顔に笑みを浮かべたまま、少しだけ困ったように眉を下げて、ナマエの目の前の海賊がちゃりんと音を立ててナマエの手の上へ金貨を返す。

「全部おれにやってどうするんだ。こりゃあお前のだろ、ナマエ」

「え? でも、俺は別に」

 「『見つけた宝は見つけた奴のもの』ってな。戦利品は各自自分のもんにしていいって、うちのルールで決まってんだよ」

 そうしてナマエの両手をナマエの方へと押し返しながら寄越された言葉に、ナマエがぱちぱちと瞬きをした。
 それから少しだけ考えて、そういえば、とその口が言葉を零す。
 ナマエの『家族』が住むかの船は、『白ひげ』と呼ばれる海賊が首領を務める海賊船である。
 売られた喧嘩は買い、相手から宝を奪うことだって多い。
 毎回われ先にとクルー達が敵船へ飛び込むのは、そうした方が分け前が多くなるからだろう。
 道理で張り切って飛び込んでいくはずだと一つ納得の頷きを零してから、あれ、とナマエは少しばかり首を傾げた。

「……『戦利品』?」

 あまり耳にしない単語の筈だが、どうしてかその言葉が引っかかって、思わずその口が言葉を紡ぐ。
 それを耳で拾ったらしいサッチが、不思議そうに首をかしげた。

「ナマエ? どうかしたか?」

「…………うーん?」

 問われても返事を渡せず、曖昧に唸って逆方向へもう一度首を傾げたナマエは、まあいいかと自分の中の疑問を放りだした。
 どうしても大事なことなら、そのうち思い出せる筈だ。
 その時でいいだろうと判断して、手の上の金貨をもう一度サッチの方へと差し出す。

「綺麗だから拾ってはみたけど、俺、あんまり金貨とか興味無いんだ」

 何処かにはあるのかもしれないが、ナマエが今まで泳いだ限り、海の中には金を換金してくれる店すらないのだ。
 持っていたって使わないしと言葉を紡いで、ナマエがサッチへ微笑みを向ける。

「だから、サッチが使ってくれた方が嬉しいな」

 何の欲も見えないナマエの言葉に、サッチは少しばかり戸惑ったような顔をした。
 それから、あー、とその口が声を漏らして、仕方なさそうにその掌がナマエの方へと向けられる。

「……それじゃ、預かって換金しとくから、ベリーが必要になったらちゃんと言えよ」

 妥協案のように寄越された言葉に、別に使っていいのに、と呟きながらナマエの手がサッチへ金貨を手渡した。
 受け取ったそれを無造作に自分のポケットへ押し込むサッチは、『海賊』であるわりに律儀な男だ。
 いや、『白ひげ海賊団』のクルー達の殆どが似たようなものだろう。それでも、やっぱりサッチはナマエにとって特別で、優しくされるとそれだけで嬉しい。
 けれどもそれが『家族だから』だということを知っているが為に、少しの切なさも感じたナマエの手を、改めてサッチの手が軽く握る。

「おれはこのまま島の探索にいくけど、海に戻っとくか、ナマエ?」

「えっと……」

 問われて、ナマエは曖昧に首を傾げる。
 戻りたくないとは言わないが、もう少し話がしたいと考えたナマエのそれを見透かしたように、よし分かった、と頷いたサッチの手がナマエの体を改めて抱え上げた。
 肩口に腹を押し当てるような格好にされて、うわ、とナマエの口から声が漏れる。

「サ、サッチ?」

「適当な樽貰ってきてやるから、それに入っておれに背負われてろよ」

 そんな風に言葉を続けたサッチが歩き出し、体をぐらぐらと揺らされたナマエの手がサッチの服へしがみ付いた。
 自分より温かな体に触れて、どくどくと心臓が強く跳ねるのを、どうにか深呼吸をして押さえ込む。
 顔がわずかに赤らんだナマエに気付くことなく、ナマエから見て後ろ向きに足を動かすサッチは、どうやらモビーディック号から降りたクルー達の小舟がある方へ向かっているらしい。
 白くて柔らかかった砂の上に刻まれていく足跡を見下ろして、別に樽なんていいのに、とナマエが呟く。

「そう言うなよ、陸の上じゃ泳げねえだろ」

 這ってちゃ怪我しちまうしな、と呟いたサッチは、ナマエを抱えたままで笑っているようだ。
 その腕は強く、ナマエを降ろすつもりはないらしいと把握して、ナマエは軽くため息を零した。

「……俺が入ってる樽なんか背負ったら、重たくないか?」

 モビーディック号のクルー達は酒飲みが多く、乗せられている空樽も種類が多い。
 ナマエの身がすっぽりと入るものもたくさんあるが、そのどれもが持ち運びすら容易ではなさそうな大きさだ。
 わざわざそんな荷物を運んで島を探索するなんて、と眉を寄せたナマエに気付かず、まあなあ、とサッチは呟いた。

「それなりだが、別に気にするほどでもねェだろ。半分は水の重みだしな」
 
「水も入れるのか?」

「そりゃなあ、この島、夏みてェだし」

 日差しが強いぞと続いた言葉に空を仰いで、そうみたいだなとナマエも頷く。
 晴れ渡った青空に上る太陽は、海の中から見上げる何倍も強烈な光を放っている。
 ナマエと同じく空を見上げたらしいサッチは、ナマエと反対側に顔を向けたまま、帽子もいるかなどと呟きつつナマエを抱え直した。
 更にそのまま歩き進められて、ナマエの尾びれがそれに合わせたようにゆらゆらと揺れる。
 海の中で水を掻くようなその動きに、はは、とサッチが笑い声を零した。

「ここがシャボンディ諸島か魚人島だったら、こんなに日差しも強くねェし、シャボンつけりゃいいんだろうけどな」

「シャボン……浮くんだっけ」

 寄越された言葉に、頭の中の『漫画』の知識を辿ったナマエが呟けば、そうそう、とサッチが頷く。
 そのまま傍らから『やったことあるだろ』と何の疑いも持たない言葉を寄越されて、ナマエは首を横に振った。

「やったことない」

「ん?」

 放たれた否定に声を漏らして、サッチが歩みを止める。
 それに首を傾げたナマエの体が少しばかりサッチ自身の体から離されて、いつものコックコートに少しばかり砂を付けたサッチが、不思議そうな目でナマエを見やった。

「お前、魚人島の出身じゃねェの?」

「え? あ……」

 問いかけに、ナマエはわずかに目を見開く。
 しまった、と口を押さえようとももう遅く、怪訝そうに注がれるその視線に嘘を吐くこともできずに、こくりと一つ頷いた。
 ナマエが『この世界』の生き物ではないと、知っている人間は誰一人いない。
 何故なら、ナマエがそれを口にしてはいないからだ。
 言えばおかしな人間を見る目で見られることは分かりきっていたし、『家族』になった彼らや目の前の海賊に、そんな憐みに満ちた目を向けられると言うのは想像の上でだって耐えられない。
 嘘はつきたくないが否定も出来ないナマエが放った言葉の数々から、モビーディック号の『家族』達は殆ど全員がナマエを『身寄りのない人魚』だと思っているし、人魚と言う種族の狙われやすさから、その背景の信憑性を高めているということはナマエも気付いていたが、どうしようもなかったのだ。
 今もまた、ナマエの返答にサッチは少しばかり優しげな顔をして、そうか、と短く言葉を紡ぐ。
 それから、すぐにその顔ににかりと笑みを浮かべて、ナマエの体を抱え直した。

「まーアレだな! 出身がどこであれ、おれらの『家族』にゃ違いねえ」

 そんな顔すんなよと抱き上げたまま後ろから頭まで撫でられて、ナマエの手がぎゅっとサッチの服を掴まえる。
 とてつもなくとがったものが胸を刺したような気がしたが、もちろんナマエの胸から凶器は生えていなかった。
 『家族』だと言われて大事にされて、最初は嬉しかったのだ。今だってそれを喜ぶべきだと分かっているのに傷付く自分がおかしくて、ナマエはサッチの目に触れないように少しだけ顔を逸らす。
 視線を向けた先の大海原は、いつもと同じく真っ青で、遠くに飛んでいるカモメが見えた。
 ナマエが『白ひげ海賊団』の一員になって、あと二週間ほどで半年が経つ。
 それだけの時間の中で、いつ頃それが芽生えたのかなんてこと、ナマエだって覚えていなかった。
 まず男同士で、人間と人魚で、何よりナマエは別の世界の人間だった男だ。
 けれどそれでも、いつの間にか、口には出せないものをナマエは抱え込んでいる。

「どうしたナマエ? やっぱり海に入るか?」

「……いい、平気」

 気遣わしげなサッチの言葉を聞いて、言えない言葉の代わりに返事をしながら、ナマエはもう一度深呼吸を零す。
 ゆらゆらと揺れる尾びれがもう一度空気を掻いて、砂の上に落ちた影がサッチの影を撫でていった。





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