天使の幸せ (2/4)
もうそろそろだろう、という確信がナマエにはあった。
「おめでとう、サンジ!」
けれども、それでも弾む声を抑えられずに、普段より随分と明るい声が出る。
金髪の王子様がモモイロ島へやってきてから、一年と半分以上。
ついに彼は、『99のバイタルレシピ』の全てを手に入れ、そして新人類拳法の師範代達を全て倒したのだ。
その中にはあの『女王』もいたのだから、戦いは想像を絶するものだっただろう。何度も怪我をしているサンジを見かけたし、先日の戦いの後も数日は体を満足に動かせないようだった。
今日だって全身ボロボロで、しかし幾分晴れやかな顔で煙草を噛んでいる。
「今日はお祝いだな! 疲れただろ、今日くらいは俺が作るよ。サンジくらい上手には作れないかもしれないけど……何か食べたいものはあるか?」
ナマエの家までやってきて、椅子に座り込んだままの相手へそう言いながら、ナマエは素早く救急箱を取り出した。
それを見つめてしばらく煙草を噛んでいたサンジが、いや、と言葉を零しながら立ち上がる。
「数日中にはもう一度挑む予定だからな。今日のメシもおれが作る」
試してェレシピもあるんだと続いた言葉に、ナマエは眼を丸くした。
この家へ帰ってきたほんの一時間前、目の前の彼は確かに『勝った』と言ったはずなのだ。
今日挑んでいたのはこの島にいる最後の『敵』、幾度となくナマエも顔を合わせている、ずっと不在だったこの国の『女王』だ。
見た目からしてとてつもなく強いことは間違いない『女王』に、それでも勝ったというのだから、サンジという人間はとんでもなく強い。
それはそれとして、もう勝ったはずなのに、なぜまた『挑む』なんて言うのだろう。
「レシピ、全部集まったんじゃないのか?」
キッチンへ向かった男を追いかけて、ナマエがそう声を掛ける。
せめて手伝おうと手を伸ばし、サンジが触れようとした食材の籠を持ち上げて運ぶと、ちらりとナマエを見やったサンジが『ああ』と頷いた。
「レシピは全部集まった。今度賭けてるもんは、また別だ」
「別……」
きっぱりと寄こされた言葉に、少しばかり考える。
そうしてそれから、もしかして、と思い至ったことを口にした。
「船とか? でもそれは……」
『ンーフフ! やるじゃない、サンジボーイ! この試練を乗り越えた暁には、ヴァターシがヴァナタを『約束の場所』まで送り届けてあげッチャブル!』
レシピの半分がサンジの手に渡った頃、『女王』がそう宣言していたのだ。
レシピに全力を注ぎながらも、『移動手段』を探していたサンジへのエールだということはナマエにも分かった。
食料や『一般的』な衣類、健康志向の島には似つかわしくない嗜好品など、ナマエが頼み取り寄せたそれらを黙認してくれていたのだって、『女王』がサンジという名の海賊を気に入ったからに他ならない。
まさか忘れたのか、と戸惑うナマエの前で、ちげェ、とサンジは短く否定の言葉を寄こした。
船ではない、らしい。
しかしそれでは、サンジが『女王』に再戦を挑んでまで手に入れたいものとは何だろう。
目を瞬かせたナマエへと、煙草を吸い、ゆるく煙を零したサンジが視線を向ける。
「……ちっと聞きてえんだが、イワの野郎はお前の親代わりってことでいいのか?」
「え? イワ様が?」
あまりにも唐突な言葉に、ナマエは驚きをその顔に浮かべた。
そうしてそれから、すぐさま首を横に振る。ついでに片手もぱたぱたと振って、出来る限りの否定をサンジへ示した。
「『女王』は長らく島を離れてたし、顔を合わせてからの時間はサンジとそう変わらないよ」
うっかりと島へ現れたナマエを世話してくれたのは数人の新人類で、『女王』を代行していた一人から現れた『女王』へ繋いでも貰ったが、世話になったことの礼を言った程度だ。
顔を合わせれば挨拶もするし、話しかけられれば答え、誘われれば食事もしたが、親かと聞かれて頷くことは出来ないだろう。
ナマエの返事を受け取って、サンジの眉が少しばかり動いた。
「じゃあなんでだ、あの野郎……」
「サンジ?」
唸るような声音は、どうやら『女王』を非難しているらしい。
一体どうしたんだと見つめたナマエの正面で、サンジはため息を零した。
「お前を連れてくんなら、もう一度『勝て』と言われてんだよ」
「え」
寄こされたその言葉をナマエが理解するのに、数秒がかかった。
戸惑うナマエをよそに、座ってていいぞと言葉を零したサンジがナマエの腕からかごを奪う。
そのまま調理台へ向かってしまったその背中を見つめて、さらに十秒ほどを置いてから、サンジの言葉を飲み込んだナマエの口が掠れた声を零した。
「…………俺の、こと。連れていくつもりか?」
「あァ、そのつもりだ」
ナマエの言葉は予想通りだったのか、包丁を使い始めながらサンジが答える。
なんだそれ、とその背中へ向けて呟いて、ナマエの眼がわずかに伏せられた。
「せめてそれ、俺と話し合ってから決めることじゃないのか?」
もともと、サンジがこの島に滞在する期間は期限が切られている。
仲間達と分かれてから、やがて二年だ。サンジはバイタルレシピの全てを集め、自信をもってコックとして仲間達のもとへと帰る。
ナマエはそれを、見送る立場だったはずだ。
サンジが『ナマエを連れていく』と決めたなんてこと、ナマエはいま初めて知った。
「話し合ったところで、お前は頷かねェだろ、ナマエ」
包丁を扱う合間に鍋へ水を入れて火にかけたサンジが、次なる食材を刻みながら言った。
「おれがこの島を出るって話は、それこそ一年以上前から長らくやってた。その間に、一緒に行きたいなんて言われた覚えは一回も無ェぞ」
「それは……そうだけど」
だってそんなこと考えたことも無かった、とナマエはもごりと口の中で言葉を零した。
何故、サンジはそんな思い切りの良いことを考えてしまったのだろう。
ふと思い至ったのは、つい先日、酒の席で零した『女装の原因』についてだった。
しかし、全てを母親のせいにした卑怯なナマエの言葉のどこに、『ここから連れ出してやろう』なんて思う要素があっただろう。
ましてや女性を大事にするサンジなら、ナマエの母親という『レディ』の為に、ナマエへ女装を辞めろとは言わないだろうと踏んでの発言だったのだ。当然、いつか母親のもとへ帰るつもりの彼を、サンジが連れていくと言い出すなんて思ってもない。
ここから出ていくつもりなんて、ナマエにはなかった。
出ていくにしても、もしサンジについて行ってしまったら、ナマエのうちにある可哀想な『病気』はいつまでたっても完治しない。
もしかしたら熱っぽく見てしまうかもしれない相手と、それから自分へのごまかしの為に穿いているワンピースの裾から入り込んだ冷気で、わずかに体が震えた。
「……サンジくんったら、強引」
一度息を吸い込み、それからわざとらしく甘い声を紡ぐ。
時たまサンジへ見せてきた、『女の子』の表情を、ナマエは目の前のコックの背へと向けた。
「もしかして、私のこと、好きになっちゃった?」
そうやって言えば、『女の子』相手にするような顔をしてしまったサンジが、怒ってこちらを向くだろうと、そう考えての言葉だった。
何なら、少し詰ってくれるかもしれない。ナマエがそうやって『女性のふり』をするたび、サンジはしっかり反応して、それからすぐに怒るのだ。
サンジが我に返るたびに自分が『女の子』ではないことをナマエは思い知るが、そうやって念入りに叩かねば恋は死なず、『病気』は治ってくれない。
傷つく準備に拳を握り、じっと伺ったナマエの前で、しかしサンジは振り向かなかった。
「おう、まァな」
ただそんな短い言葉が、油の上に食材を落とした音へと混じる。
「…………え?」
どういう意味だ、と戸惑ったナマエのほうを、ちらりとサンジが肩越しに見やった。
「さっさと飯にするぞ。行儀よく座って待たねえんなら、隣で手伝えよ」
普段のレシピの試作と変わらない顔で、サンジが言う。
まるでさっきの返事が聞き間違いであったかのようだったが、しかし、ナマエの耳はそれほど悪くない。
戸惑いながらもナマエは頷いて、サンジの隣へ並ぶ。
指示されるがままに食材を刻みながら、ちらりと傍らの男を見やったが、咥え煙草のコックはいつもと何も変わらなかった。
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