- ナノ -
TOP小説メモレス

『俺がいなくなっても』
このネタのあたり



 今でも、ふと思い出すことがある。
 電線や電柱が割り込んでいた狭い空、窮屈な満員電車、手で握った鞄の重み、生まれ育ったあの家と、俺を育ててくれた両親や一緒に育った家族。
 絶対に忘れないと思っていたのにもうその声すら遠く、顔立ちすら今まで出会ってきた他の人達に紛れて混ざり合って、確信が持てなくなってきた。
 それでもやっぱり、時々は思い出すのだ。
 俺はこの世界の人間じゃない。
 それは、まぎれもない事実だ。

「なあナマエ、お前、いつまでマルコのことはぐらかすつもりだよ」

 だからそう声を掛けられた時、俺は曖昧に笑うことしか出来なかった。
 身にしみついたそれを見て眉を寄せたサッチが、カウンターの向こうで頬杖をつく。
 夜半近い時間帯、見張りをようやく交替して船内へ戻った俺の前には、先ほど俺をこの食堂へ誘い込んだサッチお手製の夜食がある。
 これだけの大人数での共同生活でこんな贔屓を受けていいのかと考えて断ろうとしたが、『お前は普段他の奴らより食わねえからいいんだよ』ときっぱりと言われて、気付けばフォークを握らされていた。
 温かな食事はいつもの通り美味しくて、それを伝えながら半分ほど食べすすんだところだ。
 何か話があるんだろうとは思っていたが、どうやらサッチが俺をここへ呼び込んだ目的は、それだったらしい。

「はぐらかしてるつもりはないよ」

「嘘吐け」

 ひとまず放った俺の言葉を、サッチがぴしゃりと切って捨てる。
 言わせねえように話題を逸らしてるくせに、とまで言葉を続けられて、う、と小さく声を漏らしてしまった。
 何となくそうじゃないかと思ってはいたが、やっぱりどうも、マルコの態度は周りにだって分かるほどあからさまだったらしい。
 トリトリの実幻獣種なんていう現実味の無い悪魔の実を食べた『不死鳥』マルコは、俺が生まれて育ったあの世界ですら少しばかり有名な海賊だった。
 漫画しか読んでいなかった俺にはあまりなじみの無かった名前だが、よくコンビニくじの景品や食玩になっていたし、いくつかフィギアが出ていた覚えもある。
 そして、どう見たって『男』であるマルコが、同性の『家族』である俺にそう言った意味合いの感情を向けていると気付いたのが、一年ほど前の事だ。
 多分最初は『家族』に対する情だったんだろうに、いつの間に勘違いをしてしまったのか、マルコは俺を『そういった意味』で好きになってしまったようだった。
 熱っぽい視線を向けられるのが嫌だとは言わないけど、マルコからその言葉を聞いたら今の距離感を変えなくてはならない気がして、卑怯な俺はいつか来るかもしれないその時を、ずっと先延ばしにしている。
 どうしてか最近は『俺が気付いた』ことに気付かれたようで、マルコからそう言う方向にそれとなく話を向けられることが増えてきた気がする。
 だけどそれだって、全部躱してきていたのだ。

「だって、男同士じゃないか」

 この場にいないマルコへは決して言わない言葉を口にした俺の前で、サッチが軽く眉を動かす。

「別に、それほど珍しいことじゃねェだろ」

 そしてそんな寛容なことを言う相手に、たまに聞く噂は本当だったのかと俺は理解した。
 噂によれば、ナース達の中にも『そういう』ものはあるらしい。
 野生動物の集団にですらありえるんだから、海の上の密室であるこの船の中でも、多少はそういうことが起こったって不思議じゃないのかもしれない。
 見やったサッチの顔には不快そうな様子はなく、例えばマルコや俺が『そう』なったとしても気持ち悪いだなんて言いそうにない誰かさんを眺めて、俺はフォークで皿の上の食材をつついた。
 俺の様子を眺めて、サッチが軽くため息を吐く。

「……お前だって、」

 嫌いじゃねェだろ、と続きそうだった言葉の先をサッチが続けなかったのは、手を止めた俺とその目が合ってからだった。
 正面から見つめた顔が戸惑いを浮かべているのを見ながら、駄目だ、とそちらへ向けて言葉を投げる。

「絶対に、気の迷いだから」

 口から吐き出した言葉は、マルコが俺へ向ける視線の意味に気付いてから、何度かマルコへ向けかけて飲みこんだのと同じ言葉だった。
 男を好きになるなんて、そんなことあり得るはずがない。
 錯覚しているだけだ。
 きっと後悔する。
 だから、やめておいたほうがいい。
 何度も何度も言いかけて、そのたびに目の前でマルコが傷付く様子を想像して、結局飲みこんできた言葉だった。
 更に問題なのが、どうやら俺も、マルコを好きらしいと言う事実だ。
 お互いに『好き』なら、さっさとそう言って付き合ってしまえばいい。
 きっとサッチが俺の感情を知ったならそう言うかもしれないが、俺にはそうできない事情がある。
 だって、俺はあの日、きわめて唐突にこの世界へ来たのだ。
 右も左も分からないまま訳の分からない世界に放り出されて、気付けば海賊に助けられて海賊になって、今はずっとモビーディック号の上にいる。
 だから、いつか、またあの日のように唐突に、元の世界へ帰ってしまわないとも限らない。
 不確定な『いつか』の為に『手紙』を書いてはいるけど、それだって俺がいなくなった時に俺を捜したりしないようにという配慮をしているだけで、自分にもよく分からない出来事を防止するためのものじゃない。
 今でも時々、元の世界を思い出す。
 そのたび寂しいし、申し訳ないし、切なくなるのだ。
 もしも俺が、マルコに告白されてそれを受け入れてしまったら、いつか俺がこの世界から元の世界へと帰った時、マルコは俺以上につらい思いをするに違いない。
 好きな相手にそんな苦しみを感じさせたくはないし、だからずっと、そのうちマルコが俺以外に好きな相手が出来るのを待っている。

「そのうち気が変わると思うよ」

 希望を口にして、ついでにフォークで食事を口へと運ぶ。
 なァに言ってんだ、と軽く唸って、サッチがことんと俺の皿の横にカップを置いた。
 なみなみと温かなスープが注がれたそれから、ふわりといい匂いが漂ってくる。

「面倒くせェこと言ってねえで、さっさと決着つけてやれって。フるなり、付き合うなり」

 どっちでもいいから、とサッチは言うが、俺にはそのどちらも選べそうにない。
 確かに、俺がふってしまえば早いのかもしれないけど。
 好きな相手へ心にもないことを言えないからずっと黙っているのに、そんなこと出来るはずもない。

「マルコに言われたら、その時考えるよ」

「言わせねェくせによく言うぜ」

 無責任で卑怯なことを言った俺を軽く睨んで、サッチが肩を竦めていた。







 マルコの様子が普段より少しおかしくなったのは、俺がマルコからの視線や行動をのらりくらりと躱しつづけて、しばらくしてからの事だった。

「夏島の雨は何でこう痛いんだろうなァ!」

「知らないよ、雨粒がでかいからじゃないの!」

 ダダダダ、とまるで真上から狙撃されているような音を甲板に転がして、大粒の雨が落ちてくる雨雲の下で目を庇いながら声を張り上げる。
 すぐ横で同じように雨に打たれているハルタと言えばうんざりとした顔をしていて、その手が軽くロープを掴まえた。
 荷崩れした荷物を結び直しているところで降ってきた雨を避けていては、作業は全く進まない。
 それが分かっているから、俺も大人しく雨に打たれながら、荷物を縄でまとめる作業に手を貸す。
 かなり大きいらしい雨粒にうたれた腕に軽い痛みが走って、こんなに大きいんじゃあこれが雹になったら大変だな、と感想を言うと、冗談でもそう言うこと言わないでよ、と雨に濡れているハルタが唸る。

「いくら夏島の近海でも、あり得かねないのがグランドラインなんだから!」

「あはは、そりゃそうだ! ……あ」

 拗ねた仕草をされてけらけら笑ったところで、痛いほどだった雨脚が弱くなってきたのを感じて、目元を庇いながら空を見上げた。
 上空を強い風が吹いているのか、黒かった雨雲がどんどん押し流されていく。
 それと同時に雨がモビーディック号の上を通り過ぎていき、ハルタが濡れた縄から手を離した時には、すっかり雨は止んで、空に太陽が現れていた。

「……通り雨だったってことか?」

「さあね」

 そうなんじゃないの、と適当なことを言ってから、眉を寄せたハルタが濡れそぼった自分の服を軽く絞る。

「さっき着替えたってのに、まーた着替えなきゃなんないよ」

「このまま外にいても乾きそうだけどな」

「おれは寝るんだって」

 今日の夜起きなきゃだから、と言葉を続けてから服を絞るのを辞めたハルタが、ちらりとこちらを見る。
 もの言いたげなそれに俺が首を傾げると、ナマエだって、とハルタが口を動かした。

「はやく着替えないと、また『アレ』が来るよ」

「『アレ』?」

「ナマエ!」

 放たれた言葉に首を傾げた俺の声にかぶさるように、誰かが俺の名前を呼ぶ。
 それと同時に真横から何かに体当たりされ、更には視界をふわふわの何かで覆われて、うわ、と思わず声が出た。
 ぬれねずみ状態の俺の体に押し付けられたそれがごしごしと俺の体を擦って、無理やり雨水を奪い取っていく。

「何してんだよい、こんな格好で! 風邪でもひいたらどうすんだよい!」

「いた、いたた、痛い、マルコ痛い」

 ぐりぐりと頭まで擦られて呻いてみるが、声の主の手は止まらない。
 どうやら俺の視界を覆っているのはタオルらしいと判断して、俺はどうにかもがいて視界を確保した。
 いつの間に離れたのか、目の前にいたはずのハルタの姿が見えず、姿を捜して首を巡らせれば、とても怖い顔をしたマルコがすぐそばにいる。

「さっさと着替えろい!」

「大丈夫だってこれくらい、俺だってお姫様じゃないんだから」

 確かに、どちらかと言えば他の『家族』達よりか弱いが、夏島季候の海の上でちょっと雨に濡れたくらいで風邪を引くほど軟なつくりはしていない。
 そう述べた俺を『うるせェ!』と怒鳴りつけて、俺の首へタオルを巻き付けたマルコの手ががしりと俺の腕を掴んだ。

「いいからとっととしろい!」

 言葉と共にぐいぐいと引っ張られて、驚いて足を踏ん張る。
 しかし甲板は濡れていて、マルコに無理やり引っ張られるとずりずりと足が滑った。

「待ってくれって、マルコ!」

「黙ってついてこい!」

「サ、サッチ!!」

 ずかずかと船内へ向けて歩き出すマルコに腕を掴まれたまま、強制的に着替えさせられそうだと気付いた俺が焦りながら見つけたのは、別の出入り口から甲板へと出てくるところだったコックコートの『家族』だった。
 またやってんなあ、とこちらを見て笑うサッチに、助けを求めて空いている手を伸ばす。

「助けてくれ! マルコが横暴だ!」

「いいじゃねェか、そのまま着替えさせてもらえよ」

「見捨てるのか俺を!」

 ひらひらと手を振られて抗議してみるものの、サッチはこっちへ寄っても来ない。
 そして俺とサッチのやり取りなど気にもしていないらしいマルコが更に強く俺の腕を引き、ついに歩き出す羽目になった俺を引き連れて船内へと入ってしまった。
 浴場の方へと足が向かっている。
 かの白ひげ海賊団一番隊隊長の力に敵うわけもないので、俺は腕を引かれるがままだ。
 最近、マルコはいつもこうだった。
 妙に俺に対して過保護だ。
 薄着をすれば『風邪を引く』、指を切れば包帯を持って飛んでくる、頻繁に熱を測りたがる、くしゃみでもしようものなら大騒ぎ。
 まるで俺が病弱になってしまったかのような扱いだった。
 健康的な男である身としては、首を傾げる他ない。
 船医にきちんと健康診断をしてもらって、その結果だってマルコに話してもらったのに全く納得せず、おかげで収まるまで放置する、というのが『家族』達からの対処法になってしまった。
 構われるのは嬉しいけど、こうやって心配されると何だか申し訳なくなるし、原因が分からないのがとても困る。

「なァ、マルコ、本当にどうしたんだ?」

 ようやく辿り着いた浴場で、ぐい、と脱衣所へ押し込まれて振り向いた俺が問うと、マルコがじとりとこちらを睨み付けた。
 その口が何か言いたげにわずかに開いて、けれども言葉を飲みこむようにそっと閉じる。
 その間もこちらを睨み付けたままのマルコが、ぎゅっと眉間のしわを深めた。

「……ナマエ、おれは、」

「風呂に入って体を温めたら許してくれるか?」

 何かの決意を秘めたように言葉を零すマルコの声を、あえて遮る。
 それでいいなら脱ぐけど、と服の裾を掴んで首を傾げると、何かを言いかけていたマルコはすぐにそれをやめ、小さくため息を零してから、そうしろよい、と呟いた。

「きちんとあったまらねえと、風邪引くよい」

「夏島でそれはなかなか無いと思うんだけどなァ」

 でもマルコが言うならそうするよ、と言葉を向けると、頷いたマルコが一歩足を後ろに引いた。

「……それじゃ、おれが直々に着替えを取ってきてやるよい」

「タオルも追加してくれ」

「分かったよい」

 俺の頼みにマルコが頷いて、脱衣所からそのまま出て行った。
 通路の向こうへ離れていくその背中を軽く見送ってから、改めて脱衣所へと戻って、軽くため息を零す。

「……本当に、何なんだ」

 変化の原因が分からないのが、とても気になる。
 ひょっとしたら『オヤジ』なら知っているのかもしれないが、俺の秘密を誰にも言わないでいてくれるあの船長は、マルコの抱えている何かを教えてはくれないような気がした。
 先ほどまで強く掴まれていた腕を見やって、掌の触れていたあたりを軽く撫でる。

「…………末期だな」

 気になるし、戸惑うし、困るけど。
 ああも心配してもらえるのは、それはそれで嬉しいなんて、本当に俺の病は末期だ。
 ひょっとしたら、いつか『元の世界』へ戻っても俺はマルコを好きなままで、毎日毎日焦がれては溜息を零す日々を送ることになるのかもしれない。
 それは怖いな、とは思っても、結局のところ俺にはどうにも出来ないから、仕方ない。
 この間の大掃除の時に捨ててしまったみたいだし、ちょうど新しく『手紙』を書くところだ。
 マルコ宛には『心配性を治すように』と書き足しておこうと決めて、俺はひとまず首のタオルを解き、それからゆっくりと服を脱ぎ始めた。

 しばらく前に失くした『手紙』がマルコの手に渡っていたと知ったのは、それから少し後のことだ。



end


戻る | 小説ページTOPへ