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月の溶ける夜に (2/3)


 まともに日本で社会人をやっていた筈の俺は、どうやら死んだらしい。
 そう自覚したのは自我を持ってからしばらくのことで、『この世界』での俺の一番古い記憶は、怖い顔をした怖い『人間』に抱き上げられた瞬間だった。
 右も左も分からないまま、けれども頭の中だけは子供じゃなかった俺は、自分が誰かに『奪われて』売られたことを知った。
 ある程度は受け答えが出来た方がいいと言葉を教えるのは『人間』で、けれども俺は水槽の中に閉じ込められた『人魚』だった。
 俺と言う存在が珍しいらしく、あちこちで売られて飼われて売られて飼われて、いろんな持ち主を点々としながら俺が気付いたのは、どうも『この世界』が自分の知る世界と違うらしいということだった。
 ここには日本もアメリカもロシアも中国もオーストラリアも、もっと言えば北極も南極もない。
 混乱しながら『どうやら自分は生まれ変わったらしい』と認識して、前世の記憶なんて言うファンタジーにいよいよ自分の頭がおかしくなったのかと思った。
 色んな所で色んな目に遭って、死にそうなくらいの気持ちでそれでも死にきれないまま、自分の中に空想の『前世』を作り上げたんだろうと、そう考えた方が楽だった。
 しかしどうも違ったらしいと知ったのは、ある日飼われていた巨大水槽をぶち破られたからだ。

『わしと来い』

 有無を言わさずそう言ったその相手は確かに魚人で、初めて見る顔で。
 けれども俺はその人が『ジンベエ』という名前だということを知っていた。
 なぜなら彼は、『前世』で読んでいた漫画の中に出てきたキャラクターとそっくりだったからだ。
 妄想の世界だと思ってたのに、見知らぬはずの相手の名前が分かった。
 その事実にとてつもなく混乱して、気絶して、起きたら海賊船の上。
 腰に入れられた入れ墨は今はもうタイヨウが覆い隠していて、仲間以外の誰にも俺が元奴隷だったことは分からない。

「それでよ、おれァ言ってやったんだアニキ!」

「ほう、なんと?」

 小さな無人島へ逃げ込み、入江で嵐の通過を待った日の夜。
 嵐は去ったものの、まるきり俺達の針路と同じ方向へ流れていった黒雲に、この島で一晩を明かすと決めたのは航海士だった。
 島の入江で錨を下ろしているからか、甲板にはたくさんの魚人達がいて、思い思いに酒を飲んでいる。
 俺も飲んでみたいと言ったけど、前にばったり倒れたからか、船医からのダメ出しを食らった。せっかく生まれ直したのに、どうも俺はアルコールに耐性の無い体だったらしい。
 残念に思いながら、とりあえず料理に手を伸ばして、ちらりと見やった先ではジンベエさんが仲間達に囲まれている。
 この船を率いる船長である彼は、とても仲間に慕われている魚人だった。
 強いし、格好いいし、正直気持ちは分かる。
 『タイの大アニキ』という前の船長もすごい人だったらしいと聞いたことはあるが、俺が知るその人は漫画でちらりと読んだ知識と後は伝聞くらいなもので、今のところ俺の中で一番すごい魚人はジンベエさんだ。
 わはははと機嫌よく笑い声をあげる相手を見やって、それから料理を口に運んでいると、傍らからも皿を差し出される。

「これも食え」

「あ、ありがとう、アラディンさん」

 すぐ隣に座っていた人魚相手に頭を下げつつ、しかしとその皿を押し返した。

「これ、俺がさっき取ってきたアラディンさんの分」

「酒を飲むときはそこまで飯が食えんからな」

 その分お前が食べろと、またもぐいと皿を押される。
 それを受けて仕方なく皿を受け取ると、もっとたくさん食べて育てとアラディンさんから言葉が寄越された。

「せめて自力で船に上がれないようではな」

「……あんなに速く泳ぐの、難しいと思う」

「何を言うんだ、人魚が」

 そうは言うけども、俺はアラディンさんのように甲板まで飛び上がるのはまだ難しい。
 『この世界』では、人魚と言うのはとても泳ぐ速度が速いらしい。
 けれども俺は、そこまで速く泳げない。
 それを知られたときは冷や汗が出たが、ずっと閉じ込められていたから筋力が衰えているのだろう、という判断がなぜかなされたらしく、強く追及はされなかった。
 けれどもその代わり、船が海原を行くとき、危ない生き物が近くにいないのであればと言う条件付きで、よく海へ降ろされている。
 ジンベエさんも他の魚人もぽいと優しく放ってくれるが、アラディンさんは同じ人魚だという意識があるからか、まるで海面に銛を打ち込むかのような速度で投げてくることがあるので、俺は自力で飛び込むようになった。
 良い大きさに削った強度のある板を立てかけ、その端っこを誰かに踏んでもらって、たわむ板の上で飛び跳ねて飛び込むだけだが、やってみるとなかなか楽しい。
 付き合ってくれるのはジンベエさんが一番多いし、たまに一緒に飛び込んでくれる。
 海で泳ぐのは楽しいし、自分が水の中で呼吸できることも知っている。
 いろんなものを見つけて拾ってみたり、大きな生き物に遭遇して逃げたときは大体誰かが助けてくれるので、多分いつも誰かが気を配ってくれているんだと思う。
 あまりにも優しくされるものだから、俺は誰にも自分の秘密を言い出せないでいる。

「……俺、泳いでこようかなァ」

「夜の海をか? やめておけ」

 浜辺の散歩ならともかく、と肩を竦められて、じゃあ散歩してこようかな、と言葉を零して皿を置いた。
 島は無人島だし、今日は薄く雲がかかってはいるものの月も出ている。

「みんな楽しそうだし、ちょっとなら一人でも大丈夫だよね」

 明るさは十分だろうと島の方を見やった俺の横で、ふむ、とアラディンさんが腕を組んだ。

「まァ……無人島だしな。いいだろう。酒の匂いばっかり嗅いでちゃ悪酔いしちまう」

「匂いで酔ったりしない」

「どうだかな」

 からかうようにそう言って笑ったアラディンさんは、あまり離れたところに行くなよ、と注意をしながら許可をくれた。





 


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