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他愛もない奇跡の話 (1/3)



「……で、やっぱり心当たりはないのかよい」

「うん、ない」

 正面から問われて、ナマエはこくりと一つ頷いた。
 当然それが目の前の相手には見えないと分かっているから、伸びたその手が机の端に置かれていた本を持ち上げ、目の前の机を軽く三回叩く。
 そうかよい、とその返事を受け止めて、マルコがナマエの向かいで頬杖をついた。
 もはや幽霊と呼ぶしかないナマエが一度『目に見える』存在となったのは、つい先日のことだ。
 本当に少しの間だったが、確かにあの時のナマエはそこに存在していた。
 それはすなわち、どうにかすればまた、ナマエの体がマルコの前に現れることが出来ると言う可能性を秘めている。
 しっかりと焦点の合った目で見下ろされたことを思い出して、うーん、とナマエは小さく唸った。
 今だって、マルコは目の前にほんのかけらも見えず手で触れることも出来ない『ナマエ』がその場にいる者として扱ってくれている。
 マルコがナマエに気付いてくれなかったら、ナマエは今だってモビーディック号の甲板や船内をうろうろと歩くことしか出来ない、本当の『幽霊』に似た何かになっていたに違いない。
 だから目の前の彼がナマエの名前を呼んで、話しかけてくれて、ナマエからの返事を気味悪がりもせずに受け入れてくれることは本当に嬉しいことだ。
 だと言うのにそれにほんの少しの物足りなさを感じるのは、やはり、自分が他のクルー達と『同じ』になれるかもしれないという可能性を感じてしまっているからだろう。
 人間と言うのは欲深いものなんだなと、今さらそんなことを考えたナマエの前で、腕を組んだマルコがその背中を椅子に押し付けた。

「あー……他に誰か、ナマエを見た奴がいりゃあ、何か分かるかもしれねェけどねい」

 皆戦闘に夢中だったからねい、なんて言い放つマルコの言葉に、あ、とナマエの口から声が漏れる。
 それはもちろんマルコには聞こえないので、慌てて動いたナマエの手が、机の端を掴んだ本で三回叩いた。

「ん?」

 それに反応してナマエの手元を見やったマルコに、一拍置いてからナマエはもう一度机を叩いて音を立てる。

「ハルタが、見てたと思う」

『ちょっと、どこの隊?! そんなところで座ってないで、こいつは任せて甲板になり奥になり行きな!』

 そんな風に怒鳴り、ナマエを助けてあの場から追い立てたのは確か、マルコの『きょうだい』の一人だった筈だ。
 もう少し詳しく言えばあの時の『敵』もナマエのことを視認していただろうが、今このモビーディック号の上にはいない。
 だからハルタだと主張したナマエの前で、マルコが軽く首を傾げる。

「……誰かが見てたってのかよい?」

 そうして寄越された問いかけに、うん、と頷いたナマエの手にある本が、机を二回軽く叩いた。







 え、と声を漏らしたハルタが目の前に座った相手を見つめるのを、ナマエは傍らから眺めていた。
 何度かのマルコからの問いかけに『はい』と『いいえ』で返事をして、根気よく聞き出したマルコによって特定された『誰かさん』が、ぱちぱちとその目を瞬かせる。

「あれ、ナマエだったの?」

 そうして紡いだ言葉に、そうらしいよい、とマルコが向かいで頷いた。

「あん時、ナマエは船内から外に出て来てたからねい。あの出入り口から通路の中に入ってたのはお前だったろい、ハルタ」

「いや、うん、そうだけど」

 へえ、あれがナマエだったのか、と何日も前の様子を脳裏に描いたらしいハルタが、あれ、とそれから首を傾げた。

「…………ナマエって、『幽霊』じゃなかったの?」

 とても不思議そうに首を傾げて、それからハルタの視線がきょろりと周囲を見回す。
 自分の上を滑って行くその視線を追いかけながら、違うと思うんだけど、とナマエはハルタのすぐ横で呟いた。
 『幽霊』と言うのは、基本的には死人を表す言葉だ。
 確かにナマエはこの非現実的な世界で非現実的な目に遭ってはいるが、死んだ覚えはかけらほども無い。
 喉も乾かず空腹にもならないままではあるが、夢だと断定するには長すぎる時間を過ごしていた。
 何と答えていいのか分からないまま、とりあえず手を伸ばしたナマエが、マルコとハルタの間に置かれていたカップを掴まえる。
 それをひょいと持ち上げると、うわ、とハルタが驚いた顔をして先程までカップがあった場所へ視線を注いだので、そこに晒すように三回テーブルを叩いた。
 とんとんとん、とテーブルを叩く音を聞いて、マルコがハルタの向かいで頬杖をつく。

「違うってよい」

「当人に自覚が無いだけなんじゃないの?」

 呟くマルコの前でそんな風に言いながら、ハルタが恐る恐ると言った様子でナマエの置き直したカップに触れた。
 ひょいとそれを持ち上げて、どう見ても普段使いのそれであることを確認してから、もう一度その視線をナマエがいる辺りへと向ける。

「何となく、この辺にいる?」

「そうだと思うよい」

 ナマエの腹のあたりを指差したハルタに頷いてから、それで、とマルコが言葉を続けた。

「多分、おれより先にお前がナマエを見てんだよい。何か原因知らねえかい」

「えー……? 原因って言っても、おれが見た時はただ襲われてただけだったし……」

 カップを掴み直し、そんな風に呟いたハルタに、そういえば、とナマエも頷いた。
 最初は見えていなかったはずなのに、どうしてか途中で姿が現れてしまったナマエは、恐らくハルタがやってこなければあの侵入者に手酷くやられていたに違いない。

「あの時はありがとう、ハルタ」

 聞こえない相手に礼を言って見つめた先で、ん? とマルコが声を漏らした。

「……襲われてたって、何だよい」

 眉を寄せて怪訝そうな顔をした向かいの相手に、何だよ説明してねえの? とハルタがナマエのいる辺りをもう一度見やった。

「ダメじゃんナマエ、大事なことはちゃんと話しておかないと」

「え? えっと……」

 理不尽なハルタの言葉に、ナマエが戸惑った声を零す。
 説明しろと言われても、言葉すら届かないナマエには無理な話だ。
 ハルタ自身もそれが分かっているのか、まあいいけど、と一つ言葉を置いて、その視線がマルコの方へと戻される。

「ほら、あんとき船内に侵入した奴がいたじゃん。そいつに襲われててさ」

「……へえ」

 ハルタの言葉に相槌を打って、マルコがあからさまに不機嫌そうな顔をする。
 あんときの肩の怪我はそれかよい、と小さく呟いた声に、そうだった、とナマエは自分の肩口に触れた。
 けれどもそこには、あの時負った傷はもう影も形も存在しない。
 ナマエの姿が『見えなく』なった時に痛みが消えていて、その時に『怪我』も『無かったこと』になったらしいからだ。

「あの、マルコ。今は平気だから」

 とりあえず聞こえぬ声で訴えたナマエの傍で、そういや、とハルタが言葉を紡いだ。

「あいつ、変なもん持ってたよ」

「変なもん?」

「そうそう、これ」

 そんな風に言いながら、ハルタがごそりと取り出したのは、小さく薄汚れた布袋だった。
 どことなく見覚えのあるそれに首を傾げたナマエの前で、ぽいと放られたそれがマルコの手に受け止められる。
 マルコの片手が袋を開き、中を覗き込んでぱちりとその目が瞬きを落とした。

「……砂?」

「匂いもしねェし、薬の類じゃあないと思うけど」

 マルコのつぶやきを肯定して、ハルタが軽く肩を竦める。

「床にもちょっと撒かれてたし、もしもあいつがナマエに何かしたんなら、それを使ったって思った方が……マルコ?」

 そうして自分の考えを述べていたその顔に少しばかりの驚きがにじんだのは、袋の中に手を入れたマルコが、ぐらりと少しだけ体を傾がせたからだった。

「マルコ? 大丈夫か?」

 驚いたナマエもそう声を掛けながら、マルコがもたれかかった椅子の背もたれに手を添える。
 袋の中に手を入れたまま、眉を寄せたマルコの口から、やや置いてため息が漏れた。




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