煮えて焼けて溶けて (2/2)
※
「風邪だな」
「……そうか」
ベポに運ばせ、いっぱいいっぱいだった大部屋に入れることをよしとしなかったローが『特別待遇』で小さな個室へ連れ込んだ先で目を覚ましたナマエは、ローの診断を聞いてこくりと頷いた。
咳はでねェのか、と尋ねたローに、我慢できないほどじゃない、との返答が寄越される。
我慢してる場合か、と唸るローの目の前では、念のために、とマーク入りのマスクを装着したナマエがベッドの上に横たわっていた。
「自己申告くらいできねェのか」
「少し暑いくらいだから、問題は無いかと」
「馬鹿か、嘘を吐け」
わずかにくぐもりながら、しっかりとした調子で寄越される言葉に、思わずローの口から唸り声が漏れる。
それを受けて肩を竦めるナマエの様子は、普段とほどんと何も変わらない。
けれどそれでも、よく見れば、その呼吸が浅く、少しばかり肌が汗ばんでいることは分かるのだ。
朝の段階でどうして気付かなかったのかと、ローは眉間に皺を寄せた。
確かに違和感を抱いたのだから、あの時に声を掛けてしまえばよかった。
その時に病人であると言うことが判明していたら、倒れるほど働かせることも無かったのだ。
奴隷ではあるまいし、病人を無理やり働かせることなどローは望んでいない。
苛立ちが短い舌打ちを生み、腹立たしさを隠そうともしないローの手が、ベッドサイドにあるトレイの上から、先程ようやく処方された解熱剤と、他のクルー達にも飲ませた薬の包まれた薬包紙を掴まえる。
「熱は上がりきってるみてェだからな。とりあえずこれを飲め」
そう言ってやりながら包みを開くと、その中からあえて粉にさせた薬が現れた。
ああ、と声を漏らしたナマエが、のそりとベッドの上に起き上がる。
しかし、その顔をローの方へ向けてはいるが、その手はローへ向けて差し出されたりはしなかった。
「ナマエ?」
片手でグラスへ温い水を入れてやり、それを持ちながら尋ねたローへ、ナマエがちらりと視線を寄越す。
普段からあまり表情の見えない筈のその目から、珍しくためらいを感じ取って、ローはぱちりと瞬きをした。
その目が自分の手にある複数の薬包紙を見やり、それから改めてナマエへと向けられる。
「……なんだ、飲みたくねェってのか?」
この年齢で、粉薬が苦手だなんて言うことは無いだろう。
どちらかと言えば、『薬』自体が苦手だと言うことか。
ひょっとすると、熱に煮えたナマエの頭が、ローの手元のそれを『有害物だったら』と仮定しているのかもしれない。
馬鹿馬鹿しい話だとため息を零して、ローの唇が深く笑みを刻む。
「わがままを言うんなら、おれが飲ませてやろうか」
その場合は唇を使うが、その場合の拒絶は許さない。
ナマエにはさっさとこの薬を飲み、安静にする義務があるのだ。
ローの言葉を聞き、そしてその思惑を感じ取ったらしいナマエが、ゆっくりと瞬きをした。
それから、その手がマスクをそっと外す。
その口元にわずかな笑みが浮かんでいるのが見えて、普段なら見られないような穏やかな笑顔に、ローが目を瞠った。
その隙に普段と変わらぬ動きで伸びてきた両手が、ローの両手から水と薬を奪い取っていく。
「子供じゃないからな、このくらい、自分で出来る」
そしてそんな風に言って、ざらりと口の中へ落とした薬を、ごくりと水で飲み下す。
特別苦くさせた解熱剤を飲んでも眉ひとつ潜めずに、綺麗に中身の無くなった薬包紙を丸め、ついでにグラスの中身を全て飲み干してから、ナマエはグラスと薬包紙をローへと差し出した。
すでに先ほどの笑顔は消えていて、何となくそれをつまらないと思いながら、ローの手がグラスを受け取る。
ナマエは、あまりその顔に表情を浮かべない男だ。
その心の機微がどうであれ、大方に置いて無表情である。
雰囲気こそ変化し、苛立った時の空気を後押しするのもその無表情ではあるが、ローにですら、その笑顔を向けることは酷く珍しい。
いつだったか厄介な男を引っかけて来た時とはまた違う、穏やかで柔らかだった表情を思い返して、グラスを置いた後で伸びたローの手が、マスクをつけ直そうとしているナマエの手を阻んでその顔に触れた。
刺青を刻んだ指がつまんだナマエの頬は、思ったより柔らかい。
ぐい、と引っ張るとナマエの顔がそれについてきて、ロー? と戸惑い交じりの声がローの名前を呼んだ。
そのまま顔を近づけていくと、ローの思惑に気付いたらしいナマエの手が、無理やりローの手を自分の顔から引き剥がして、素早くマスクを装着する。
ローの誇りを乗せた海賊旗と同じ柄の向こうへ隠れてしまった口元に眉を寄せて、何だ、とローの口から言葉が漏れた。
「人にうつすと治る、なんていう民間療法があるだろう」
協力してやる、と全く信じていないそれを口にして笑うローに、間近でナマエが少しばかりの瞬きをする。
お前が倒れたのはおれの所為でもあるからな、とローが言葉を続けると、ああ、とすぐそばで声が漏れた。
「そんなに気にしなくていい」
「何だと?」
「薬も飲んだ。あとは『寝てれば治る』んだろう?」
大部屋でクルーへ向けてローが投げた言葉をなぞって、ナマエが引き寄せられた分の距離を開ける。
更にはそのままベッドの上に寝転んでしまった相手にローが眉を寄せて視線を向けると、それをまっすぐに見つめ返したナマエが、もう一度言葉を繰り返す。
「気にしなくていい」
穏やかにそんなことを言いながら、わずかに瞳が細められる。
マスクが無かったなら、ひょっとしたら先ほどと同じ穏やかな笑みを見ることが出来たのかもしれない。
はぎ取ってやろうか、とローの手がわずかに動いたが、ナマエの手がそれを捉え、動きを制限する。
悪魔の実の能力者であるローにとってはその程度の抵抗など何の意味もなさないが、手近な場所にその口元へと移動させるようなものが無いと把握して、ローの眉間には皺が寄せられた。
ローの手に触れているナマエの掌は、まだ随分と熱い。解熱剤はまだ飲んだばかりなのだから当然だ。
これだけ体が熱くなっていたら、気怠さだって感じるだろう。
そんな状態のナマエを働かせてしまったのは、意味の分からないやせ我慢をしたナマエ自身の問題もあるが、気付かなかったローの責任でもある。
だと言うのに、『気にしなくていい』だなんて。
気遣いしか感じられないその囁きに、ローの口から漏れたのはまたしても舌打ちだった。
「……お人好しも大概にしろ」
そう唸ったローの言葉に、ナマエの指が答えるように軽く力を入れて、ローの手を握りしめた。
それを握り返したローの手に安堵したように、ナマエの瞼がそっと降ろされる。
そのまま、ナマエがまどろみの中に落ちていくまで、ローは傍らで彼を見守っていることにした。
他の誰よりも早く完治したナマエに看病の礼を言われたのは、それから二日程後の話だ。
end
←
戻る | 小説ページTOPへ