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仮面を剥いだ (2/2)


 結局その日は一日、今後の二人の関係をどうするか、ということで話し込むことになってしまった。
 婚約を解消するのはもちろんだが、『彼』は恐らくマリンフォードへは戻らないのだから、『彼女』があの島まで向かった方が早い。
 それなら俺が不貞を働いたことにして怒った君が傷心旅行にでも向かえばいい、と張られた頬を押さえたままで言ったナマエに、そんなことを言って噂になったら貴方がいづらいでしょう、と彼女はまなじりをつり上げた。
 しかし、好きな相手が他にいて、と言う話を流して、上流階級の人間である『彼女』がふしだらだとかそう言ったことを言われるのは、ナマエとしても本位では無いのだ。
 『同族』である彼女を守るためとは言え、安易に婚約などしなければよかった、とナマエは後悔したが、そう言っても仕方がない。
 幾度か話し合い、しかし平行線を辿ったものにため息を零したナマエがひとまずその話を切り上げたのは、公園に差し込む日差しが赤く染まり始めた頃だった。
 今日はひとまず、と告げてのナマエの言葉に、こくりと頷いた彼女を連れて公園を後にする。
 いつものように屋敷まで送り届けて、それじゃあ、と言葉を置いた彼女が、門の内側へと足を踏み入れる。
 それを見送ってからナマエの手が門を閉じると、格子の向こうで小さな体が振り返った。

「ねえ」

 声を掛けられて、ナマエの目が彼女の顔を見やる。
 ようやく涙の乾いた顔をナマエへ向けて、彼女はそうっと囁くような声を零した。

「……ありがとう、あの人を見つけてくれて」

 微笑んだ彼女からの小さな声に、ナマエの顔にも笑みが浮かぶ。
 どういたしまして、とナマエが彼女へ言葉を返すと、柔らかな笑みを浮かべたまま、彼女は屋敷の中へと入っていった。
 その姿が扉の向こうへ消えるのを見送り、そのまま上等な建物を見上げて、ナマエの口からは溜息が漏れる。
 一度、二度相対しただけだが、傷心の娘に見合いをいくつも持ち込んでいたと言う彼女の父親が、娘を大事にし、己の家名を重んじる男性であることは重々承知している。
 そんな彼がナマエなどという身元不明の男をその娘の『婚約者』にしたのは、そうすることで海軍上層部とのつながりを持てると思ったからだろう。
 もしかすると、未だ独身である海軍大将達へその話を持っていき、そうして断られたが故の画策もあったのかもしれない。
 その彼が、退役した海兵と彼女の結婚を認めるとはどうしても思えなかった。
 下手をすれば、『彼女』は今の暮らしの全てを失うことになるかもしれない。
 その上で『不貞』の噂まで背負わせるだなんてこと、出来るはずも無い。

「……さて」

 小さく声を漏らして、ナマエの手が情けなくも腫れてしまっている頬を離れる。
 頬に刻まれた赤いあとは夕焼けのせいで目立たなかったが、彼はそれを晒してそのまま帰路へ着くことにした。







 翌日、少し遅れて職場へと現れたナマエに、同僚が目を丸くした。

「どうしたんだ、それ」

 問いながら頬を指差されて、ちょっと、と笑って頭を掻く。
 朝になっても赤く染まって腫れていた頬にはガーゼを貼ってきたが、やはり目立つようだ。
 ナマエが誤魔化そうとしていることを感じ取ったのか、ふうん、と少し不満そうな顔をしながらも、同僚はナマエと入れ違うようにそのまま執務室を出ていってしまった。手に資料を持っていたので、どこかへ届けに行くのだろう。
 それを見送り、自分も今日の仕事を始めようと机へ向かおうとしたところで、ナマエ、と声が掛けられる。
 それに気付いて顔を上げると、部屋の主である海軍大将が、頬杖をついたままでナマエの方を見やっていた。

「ちょっとこっち来なさいや」

 どうでもよさそうな顔をしてそう言いながら手招いてくる相手に、ナマエはすぐにしたがって足先を自分の使っているものより大きな執務机へと向ける。
 途中で迂回するよう手だけで支持されて、大人しく大きな机を迂回したナマエが足を止めたのは、椅子へ座るクザンの傍だった。
 どうしたのかと自分を見ている相手を見つめ返したナマエの方へと、無遠慮にクザンの手が伸びる。

「あ」

 逃げることも出来なかったナマエの頬から、ぺり、と薄いガーゼが剥がされる。
 クザン大将、と慌ててナマエが呼びかけると、ナマエの患部を見やったクザンが、同でもよさそうに言葉を紡いだ。

「冷やさねえと痛いでしょうや、それ」

 そんな風に言いながら、その指につままれたガーゼがわずかに軋むような音を立てる。

「はい」

 そうしてそれをそのまま押し付けられて、指に触れたガーゼが確かに氷結していることをナマエは把握した。
 何もかもを氷結させる氷結人間にとって、この程度のことくらい簡単に出来ることらしい。

「……直接貼れっていうんですか」

 凍傷になりそうだ、と少し困った顔をしながらも、ナマエは大人しくそれをそのまま自分の頬へと押し当てた。
 ひんやりとした感触が患部を冷やしていくのは、素直に気持ちがいい。
 しかしそのままくっつけていてはやはり凍傷になるだろうと、ある程度冷やしたら一度離さねばと考えたナマエの前で、それで、とクザンが言葉を零した。

「それ、どうしたの」

 問いかけのような言葉なのに、あまり問いの響きを持っていない、何処となく白々しい声だ。
 それを耳にして、すぐさま思い至った事態に、ナマエは小さく息を吸い込んだ。
 それから、その目がちらりとクザンを見やる。
 じっと自分を観察してくる眼差しに、ああこれは、と把握して、その眉が寄せられた。

「…………もしかして、ご覧になっていたんですか、クザン大将」

「そりゃ、あれだけ豪快にやってたら目撃もするでしょうよ」

 『何を』とは言わずに問いかけたナマエへ、クザンがそう言って肩を竦める。
 確かに、往来と面していたカフェテラスであんなことをしでかせば、ある程度の注目を集めるだろう。
 そう思ったからこそ、ナマエは彼女の掌を避けなかったのだ。

「すぐ追いかけてったから仲直りしただろうと思ってたってのに」

 何、まだ喧嘩継続してんの? と少し眉を寄せて言葉を放ったクザンに、喧嘩と言いますか、とナマエは少し言葉を濁した。
 そうして脳裏に浮かぶのは、自分の『仲間』だった彼女の顔だ。
 自分には到底望めないものを彼女には掴んでほしい、と思うこれは、ひょっとしたらただの代償行為なのかもしれない。
 目の前の彼へ向けて言えば呆れられるかもしれないが、どうせ、思いを返してもらえないことは分かっているのだ。
 昨日決めただろう、とわずかに怖気づいた己を胸の内だけで叱責して、ナマエの顔にへらりと笑みが浮かぶ。

「その、フラれてしまいました。……せっかくご紹介いただいたのに、申し訳ありません」

 笑んだままのナマエの言葉に、目の前の海軍大将がわずかな戸惑いをその顔へ浮かべる。

「フラれたって、ナマエが? 誰に」

 思わずと言った風に呟くクザンへ、誰にって決まっているじゃないですか、とナマエは答え、随分と冷やされた頬から一度ガーゼを離した。
 薄かった分、ゆっくりと柔らかくなりつつあるそれを両手で包むナマエの前で、クザンがじわりと怪訝そうな眼差しをナマエへ向ける。

「…………何で? それ、何か誤解されてるんじゃねェの?」

 そうっと囁いた言葉は、まるきりナマエを信頼しているからこそ漏れるものだった。
 ただの副官として彼の傍にいて、何年になるだろう。
 ナマエは彼と共にいることを望み、選んで、ずっと努力していた。
 好きな相手に認められたい、なんていう海兵らしからぬ不純な動機の行動は、しかしちゃんと実を結びつつあったようだ。
 しかし、女性を泣かせたと知られたらどうなるのだろう、などと考えつつ、ナマエは首を横に振る。

「誤解ではありません。俺、浮気してしまったので」

 告げた言葉は、今朝、職場へと向かう前に面談した『彼女』の父親へ向けたのと、殆ど同じ言葉だった。
 婚約を白紙に戻したい、と告げた時に、彼女に非が無いことを示す理由を、やはりナマエはそれ以外に思いつかなかったのだ。
 『彼女』の父親から寄越された『どこの誰だ』と言う問いには、他の島に住む一般女性であることを口にした。
 ナマエが作り上げた架空の名も無き彼女は、ナマエがまた島を訪れることを待っていてくれていることになっている。
 ナマエの『婚約者』である彼女はまだ父親へ話していなかったようで、にわかに信じがたい、といった顔をした男は、それからほんの少しだけナマエを詰った。見合いでの出会いとは言え大事な娘を『弄んだ』のだから、通常の反応だろう。

「黙っているのは誠実な対応では無いと思って、きちんと話をしに行きました。……その結果です」

 そう言って笑い、ナマエの手が柔らかくなったガーゼを己の頬へと貼りつける。
 その上で、空いた両手を体の横へとしっかりと着け、目の前の相手へ向けて頭を下げた。

「せっかくご紹介いただいたのに、申し訳ありませんでした」

 改めて深く謝罪を述べて、自分の足元をじっと見る。
 それから数秒を置いて顔を上げ、仕事を始めますね、と言葉を置いて、ナマエは上官の傍を離れた。
 椅子に腰を降ろし、本日の業務を確認する。書類仕事だけでも随分と溜まっているのは、遠征の間際にそれなりの量を残していくことになっていたからだ。体を休める為の休日を取った分も累積している。
 会話の無くなった重たい空間で仕事を始めたナマエを、じっとクザンが見つめている気がしたが、ナマエはそちらへ視線を向けなかった。



end



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