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仮面を剥いだ (1/2)



 見つけた彼が未だ癒えぬ傷を負っていたこと、もしかすると人が目を逸らしたくなるような顔へと変わっているかもしれないということ。
 何より自分自身が生きていたことを名乗り出る気が無いということを考えて、帰りの船で迷いに迷ったナマエがそれでも己の婚約者を呼び出したのは、ナマエがマリンフォードへ帰って数日後のことだった。
 もしも自分が彼女だったなら、教えてほしいだろうと、そう思ったからだ。

「彼は、生きているよ」

 そうして面と向かい合って言葉を放ったナマエの前で、彼の婚約者はぱちりと目を丸くしていた。
 どういう意味か分からぬと言った様子で軽く首を傾げながら、その目がじっとこちらを観察している。
 けれどナマエがそれ以上言わずに、ただまっすぐに視線を向けていると、じわじわと意味を把握してその目が揺らいだ。
 その顔がすぐに喜びを浮かべるのだろうと思っていたナマエの前で、不機嫌さに歪んでいく『彼女』の顔に、ナマエはわずかに戸惑いを浮かべる。
 やがて、彼女はナマエの前で見せたことなど一度だって無いような不機嫌な顔になってしまった。
 身を乗り出して来た彼女が素早く振るったその掌はナマエにも見えていたが、いくつかの計算をしたナマエは、あえてそれを避けなかった。

「……酷い冗談を言わないで」

 ぱん、と高い音を立ててナマエの頬を張った後で、目の前の彼女が出来る限り落ち着こうと努力した声音でそう言葉を放つ。
 その手首でブレスレットのチャームが揺れて、この世界に二つしかないと言うそれがナマエの視界の端に入った。

「私がどういう気持ちで生きているのか、貴方だったら分かっていると思ったのに」

 言葉を落とし、震える手が自分のバッグからベリーを取り出して、自分の分の飲み物の代金をテーブルへと置いた彼女は今にも泣き出しそうな目をしている。
 それを見上げながら己の頬を押さえたナマエが何も言わないでいると、彼女はその場から素早く立ち去ってしまった。
 遠ざかっていく背中を見やってから、じりじりと痛む頬を押さえつつ、店員を呼ぶ。
 慌てて近寄ってきた店員が差し出して来た小さな濡れタオルに、ありがとうと礼を言いつつ自分の頬へ軽く当ててから、ナマエは今先程頼んだ飲み物の代金を己の分も合わせて支払った。
 そうして、その場から立ち上がり、逃げていった彼女を追いかける。
 手前の角を曲がって姿の見えなくなった彼女を追うように歩いたナマエが向かったのは、以前の『デート』で、彼女がナマエへ教えた『彼女』と『彼』の『秘密の場所』だった。
 住宅に囲まれた奥地にあるそこはとても小さな公園で、忘れられたそこのさびれた遊具で遊んでいる子供すらいない。
 そうしてナマエが追いかけてきた小さな背中はその公園の端にあり、近寄りながらナマエが名前を呼ぶと、ベンチに座っている薄い背中がびくりと揺れた。
 泣いていたのか、己の顔に触れていた手を降ろしてから、彼女は小さな声で言葉を落とした。

「……ごめんなさい」

「別に、謝らなくても」

 落ちた弱々しい声へそう返しながら、歩んだナマエの体がベンチへと座る。
 自分と彼女の間にわずかな空白を開けているのは、ナマエと彼女にとってはいつものことだった。

「手は痛くないか?」

「とても痛いわ。だから謝っているの」

 痛かったでしょう、ごめんなさい。もう一度そう言葉を放ち、彼女は自分の片手をそっともう片方の手で擦る。
 晒されたその掌は真っ赤になっていて、人を叩いたことなど殆ど無いだろう女性にとって、先程の行動がとても感情的で衝動的なものであると言うことが見て取れた。

「避けれたのに、利用しようと思った俺も悪い。だからお互い様だ」

 そちらを見やってナマエが言葉を放つと、やや置いて、傍らの女性がゆっくりとナマエの方へその顔を向けた。
 やはり泣いていたのだろう、目が赤くなったその顔をナマエが見つめると、『利用』? とわずかに不思議そうな声が傍らから漏れる。

「俺が君と婚約した日に、俺が言ったことを覚えている?」

「言ったこと……」

「『もしも君に、他に好きな相手が出来た時は』」

『その相手とやっていけるようにしよう』

 真剣な顔でそう告げたナマエへ、それなら貴方の時もそうしましょうね、と言って微笑んでいたのは、傍らの彼女だ。
 その目にはどことなく諦めが浮かんでいて、自分に『そんな時』が訪れる筈がないと確信している節があった。
 ナマエが自分の発言から己を除外していたのと、恐らく同じ理由だろう。
 お互いがお互いに叶わぬ相手へ恋しているのだから、それも当たり前だった。
 今はそれでもいいとそう思いながら、それでも取り決めた約束の通り、ナマエは彼女へ『そう言った意味』では指一本も触れていない。
 恋愛感情を間に挟まぬ婚約者二人の関係は、きわめて白く健全なものだった。

「それとも、まさか『彼』をもう『好き』じゃないとか?」

 あり得るはずもない言葉を述べると、むっと彼女が眉間に皺を寄せる。
 その目じりにたまった涙が一筋、ぽろりと零れてその頬を濡らして落ちた。
 詰るように見つめられて、ナマエはそちらへ微笑みを返す。

「そのブレスレット、『彼』の手作りだったんだな」

 お揃いだとは聞いていたけどそれは知らなかった、なんて言葉を落としたナマエの前で、彼女は丸く目を見開いた。
 慌てたようにその手が片手を飾るブレスレットへ触れて、細いその鎖を指先で握る。
 『まさか、本当に』と問いかけてくるその視線を受け止めて、俺は君に嘘を吐かないよ、とナマエは傍らの婚約者へ向けて囁いた。

「写真でも一つ撮ってくればよかったんだけど、中々口実を思いつけなくて……それに、写真で『彼』だと分かってもらえるか、自信が無かったから」

「……どうして?」

「『彼』、怪我をしているんだ。顔も怪我をしていて他の人を脅かすからと、隠して過ごしているらしい」

 だからどの程度の傷かは分からなかった、と続けたナマエの横で、婚約者が息を飲む。
 それをただ見つめて、それで、とナマエは言葉を続けた。

「君は、それでも会いたいかな?」

「当たり前じゃない!」

 愚問とも言うべき問いに、ナマエの傍らの彼女はもはや反射に近い速度でそう言い返した。
 そう、よかった、とナマエがそれへ笑いかけると、途端にその顔を見ていた彼女の眉が寄せられる。
 またその目に涙が浮かんで、先程よりも早くその睫毛から零れて落ちた。

「…………ごめんなさい」

 そうして、涙を孕んだ震える声が、ナマエへ向けて謝罪を述べる。
 そんなにひどい怪我にはなっていないよ、と先ほどのカフェテラスで拝借したタオルをのけて頬を見せたナマエが答えると、それもだけどそうじゃなくて、と彼女は首を横に振った。

「私だけ、こんな……」

「ああ、なんだ、そんなこと」

 力なく落ちる呟きと共に目を伏せられて、ナマエはそっと彼女から視線を外す。
 ふと見やった空は周囲の住宅に切り取られていて、この世界に来てからはあまり見なくなった狭さの中に、澄んだ青を晒していた。
 大通りから離れているせいで、喧噪さえも殆ど聞こえない。
 『秘密の場所』らしい静けさに耳を傾けながら、ゆっくりとナマエの口が動く。

「いいんだ俺は、もともと叶う筈もないから」

 目の前の人物が『彼女』の大切な相手だと気付いた時の体が冷えるような感覚を思い返しながら、ナマエはそんな風に言葉を放った。
 あの日彼を見つけるまで、ナマエは傍らの彼女も『自分と同じ』なのだと思っていた。
 もし、彼女が『次』を見つけられたら、己の叶わぬ恋を諦める口実に出来るような気がしていたのだ。
 けれども現実は違っていて、『彼』が生きていたのなら、『彼女』は何を置いても『彼』を選ぶであろうということはすぐに分かった。
 『仲間に置いていかれる』と気付いた時の困惑と焦りは、今も胸の端にある。
 『同じだ』と言ってくれた口から決別を寄越されるのが怖かったなんて、海兵にあるまじき臆病さだ。

「……そういえば私、貴方の『その人』をちゃんと聞いたことがないわ」

 自嘲したナマエの傍で、ふと思い至ったように彼女が言う。
 それと同時に伸びてきた手がナマエの腕を掴み、ぐい、と己の方へ注目を向けようと言うように引っ張った。
 子供が気を引くようなその行動にナマエが視線を傍らへ向けると、未だに涙に濡れた目をまっすぐにナマエへと向けた彼女がいる。

「…………聞いても面白くもなんともないよ。相手は俺のことを知っていて、その上で俺を自分から遠ざけているんだから」

「……そう言われたの?」

「いや、言われてはいないけど。今までそう言った話の一つだってしたことなかったのに、急に見合いの話まで持ってきて、『家庭を持て』って言われたら、さすがに分かるよ」

 今まで一度だって言わなかったことを口にして笑ったナマエの傍で、え、と彼女が声を漏らす。
 戸惑ったようなその顔をナマエが見下ろしていると、今の言葉が冗談でないことはきちんと伝わったのか、恐る恐る、と言った風に彼女は口を動かした。

「……それじゃあ……クザン大将さんが、貴方の?」

 ナマエが誰に紹介されたのかくらいは聞き及んでいたのだろう、ナマエが逃げるとでも思っているのか、しっかりと腕を掴みながらの問いかけに、ナマエは頷くでもなく微笑んだまま、そっと言葉を相手へ向けた。

「まさしく、道ならぬ恋だろう?」

 茶化すような声音を使えば、それを聞いて少しだけ眉を寄せた彼女の顔にも微笑みが浮かぶ。

「相手が生きている分、貴方の方が健全だわ」

 馬鹿ね、と呟いた言葉にそう続けた彼女に、はは、とナマエは小さく笑い声を零していた。







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