身勝手な終結
※『手前勝手なぬくもり』の続き
※名無しオリキャラちょこちょこ注意
「え? 俺と『同じ』人?」
唐突に寄越された言葉に、ナマエは目を丸くした。
そうじゃ、と頷いたジンベエが、腕を組んでナマエを見ている。
船が一つの島を目指して出発したのは今朝のことだ。
そういえばどこに行くの、とナマエが尋ねたのは昼食の時間の少し手前で、言うとらんかったか、とそれに首を傾げたジンベエの口から漏れたのが先ほどの言葉だ。
「俺と、『同じ』人がいる島……」
海の彼方にあるというその島にいるのは、ナマエと同じ境遇の人間であるらしい。
ナマエの知っている地名を知っていて、ナマエと似た黒髪だという話だから、恐らくは日本人だろう。
何とも唐突な話だ。
困惑しているナマエをよそに、ジンベエが言い放った。
「『イセカイ』へ帰る方法も、何か知っとるらしい」
ただしお前さんに会いたいと言うとる、と言葉を続けてから、ジンベエはじっとナマエを見つめた。
会うか、と尋ねて来るその双眸を見つめて、それから促されるようにナマエが頷くと、どうしてだか少しだけジンベエの体から力が抜ける。
「ジンベエさん?」
「いや……よし。それなら早くつかねばならんのう。相手の気が変わってからでは遅い」
戸惑うナマエをよそにそう言い放ち、急がせよう、と続けたジンベエは船尾の方へと向かってしまった。
船は帆を風で膨らませて前進しているが、恐らくは何人かに押させるつもりなのだろう。この船が風の少ない場所でも速度を上げて移動することが出来るということは、ナマエも知っている。
追いかけても船を押せないナマエでは役に立たないので、いつも通り甲板の掃除をしようとその手でバケツを持ち上げたナマエは、ちらりとその目を甲板の上にいる数人の魚人たちへと向けた。
ナマエの視線に気付いた連中が、にかりと笑顔を浮かべる。
「良かったな、ナマエ!」
自分のことのように嬉しそうに、口々にそんなことを言い放つ相手達に、うん、とナマエは一つ頷いた。
わずかに過る違和感に、あれ、と胸の内でだけ首を傾げる。
そんなナマエを置いて、数人の魚人達がしみじみと言葉を交わしている。
「ナマエの母ちゃんも心配してんだろうなァ」
「そりゃそうだろ、いやァ、良かった良かった!」
ナマエが『帰ることが出来る』と信じ切った様子で交わすその言葉たちに、誤魔化すような響きは感じられない。
そのことがぎゅっと胸を締め付けて、ナマエはわずかに息をのんだ。
『帰り方』を知っている人間に会えるということは、クルー達の言う通り、ナマエは家に帰ることが出来るということだ。
夢に見たことすらある、生まれて育ってきたあの世界へと帰ることが出来る。
それはすなわちそのまま、ナマエがこの船の上からいなくなるということだった。
非現実的なこの場所へ、どうやって来たのか分からないのだ。
帰ることが出来ても、再びここへ来ることは出来ないかもしれない。
怖い顔をして優しい、ついでに言えば案外過保護な魚人達や人魚達と共に過ごすことが出来なくなってしまう。
そのことがナマエにはとてつもなく寂しいのに、手放しで喜んでくれるクルー達は、どうもそうではないようだ。
喜んでくれることは嬉しい筈なのに、何よりこの為にジンベエや他のみんなも様々な手を尽くしてくれた筈なのに、じわりと湧き出た不条理な感情に、ナマエの目がわずかに伏せられた。
「…………俺……」
「ん? どうした、ナマエ?」
何暗い顔してんだ、と唐突に声を掛けられて、ナマエははっと顔をあげた。
不思議そうにナマエを見下ろす魚人に、慌てて笑顔を向ける。
「ううん、なんでもない! どんな人だろう、その人」
何かお土産持って行った方がいいのかな、と言葉を続けたナマエの傍で、賄賂ってやつか、と訳の分からない納得を示したクルーが頷く。
食べ物か、酒か、宝だ、金だと周りからいくつか提案が出ていくのを聞きながら、ナマエはバケツの取っ手を掴む手に力を込めた。
取り繕うように笑みを浮かべるナマエを、甲板の端で風にあたっていたアラディンがちらりと見やり、それから小さくため息を零していた。
※
件の島は、もうすぐそこだ。
予定より早く進んだものの、たどり着く時刻を考えて、船は島のすぐ近くの海域で停泊した。
まだ本当に『帰れる』のかも分からないのに、前祝いだと言い出したクルーが酒を引っ張り出してきて、甲板のあちこちでクルー達が酒を舐めている。
主役としてその真ん中で笑っていた筈のナマエがこっそりとその最中を抜けたのは、夜も更け、周りの殆どが酔っ払ってしまった頃だった。
船尾側へ回れば、星と月を反射する美しい海が視界一杯に広がっている。彼方にうっすらと見える島は、夕方ごろに通り過ぎた島だろうか。
「……はあ……」
デッキへと座り込み、木の格子を両手で掴みながら、ナマエの口からため息が漏れた。
しくしくと、ずっと身の内が痛い。
祝いだから、と美味しい食事を振る舞ってくれたはずなのに、味すらほとんど分からなかった。
酒が飲めれば誤魔化すことが出来たのかもしれないが、ナマエはとんでもなく酒に弱いし、まだ未成年だ。この世界の法律では問題ないのだとしても、ナマエ自身にためらいがある。
結局逃げ道すら失くしてしまって、笑みの抜け落ちたナマエの顔は曇っていた。
もう一つ、その口がため息を零したところで、ふとナマエの耳にわずかな板の軋みが届く。
それに気付いてナマエが視線を向けると、カンテラを片手にしたこの船の船長が、ナマエのいる方を見やったところだった。
「どうしたんじゃナマエ、こんなところで」
船内に戻ったのかと思ったわい、なんて続けたジンベエが、大きな体を動かして近付いてくる。
慌てて笑みを浮かべたナマエは、困ったように頭を掻いた。
「お酒の匂いすごいから、ちょっと普通の風にあたりにきたんだ」
「なんじゃ、ナマエは酒の匂いでも酔うのか」
誤魔化すナマエの言葉に、ジンベエがどことなく面白がるような声を出す。
そうしてすぐ傍らにやってきて、ナマエの方へカンテラを差し出した海賊が少しばかり眉を寄せたのが、灯された光でナマエにも見えた。
どうしたのかと見上げた先で、ナマエの傍らに座り込んだジンベエが、すぐそばにカンテラを置く。
「どうしたんじゃ、ナマエ」
先ほど投げたのと同じ問いを落として、ジンベエが続けた。
「暗い顔をしとる」
はっきりとした指摘に、ナマエは思わず両手で自分の顔に触れた。
しかし口元はしっかりと笑みを浮かべていて、昼間と何も変わらない顔の筈だ。
「そう? 昼からずっとこの顔だけど」
「ああ、そうじゃな。ずっと暗い顔じゃ」
誤魔化すようなナマエの言葉を肯定して、ジンベエは少しばかり息を吐いた。
そうは言うが、ナマエに航路の目的を告げてから、ジンベエは船が停泊を決めるまでナマエの視界には入らなかった。
昼と服装が違うから、恐らくは船を押す魚人達の仲間入りをしていたのだろう、とナマエは思っている。
だというのにどうして昼の自分を知っているのだろうか、と少しだけ考えてから、ナマエはその考えを散らすように首を横に振った。
「暗い顔なんてしてないよ。すごく嬉しいから、はしゃがないように我慢してるだけ」
大人しいナマエに不思議そうな顔をするクルーもみんな、ナマエがそういえば『そうか』と納得してくれていた。
けれども、ナマエのいうことに、いや、とジンベエが口を動かす。
「本当にそうなら、そんな顔はせん」
きっぱりと、確信に満ちた言葉を放たれて、ナマエはぱちりと瞬きをした。
改めて見やれば、ジンベエは随分と真剣なまなざしをナマエへと向けている。
その口は閉ざされていて、ナマエの言葉を聞き漏らすことの無いように耳を澄ませているのがナマエにも分かった。
少しばかり押し黙って見てもジンベエの様子は変わらず、そっと逸らされたナマエの目が、星と月の光をはじく夜の海へと向けられる。
いつだったか、蒸すような暑さの夜に、ジンベエに海へと連れて行ってもらったのをふと思い出す。
ただ海に入るだけでも、傍らの魚人と一緒に泳ぐのはとても楽しかった。
はしゃいで笑って驚いて、一緒に過ごしていたあの時のジンベエだって恐らく、きっと、多分、楽しんでくれていただろう。
そうだったらいいなと、願うように思いながら、やがてナマエの唇が言葉を紡いだ。
「…………あのさ、俺って、みんなに迷惑ばっかりかけてたよね」
声音は小さくても、静かな海の上ではしっかりとその耳に届いたことだろう。
それでも言い出したら止まらずに、おずおずとナマエは問いかけた。
「俺がいなくなって、せいせいする?」
『帰る』ことが出来るかもしれないことを喜ばれて、嬉しく思うべきだった。
それでもわずかに浮かんでしまった考えが消えてくれなくて、ナマエの身の内でじくじくとどこかを刺している。
ナマエはこの船のみんなが好きだ。
人間であるナマエに対してどことなく過保護だが、ちゃんと仕事をくれて、一緒に騒いで、仲良くしてくれた。
けれどもそれは一方通行で、実はナマエがいなくなっても寂しくもなんともないのだとすれば、それは途方もなく寂しいことだった。
小さな子供みたいなわがままで傲慢な考えだと分かっているから、ナマエは両手で目の前の格子を掴んだまま、一向にジンベエの方を見ることが出来ない。
少しの間の沈黙が落ち、傍らでため息を漏らす音がして、ナマエはびくりと身を竦めた。
「あ……ご、ごめん、別にあの、」
「何を言い出すかと思えば、馬鹿なことを」
けれども、慌てて自分を取り繕おうとするより早く、そう言い放ったジンベエの手がナマエの腕を捕まえた。
恐らくはナマエの骨など簡単に折ってしまえるだろう魚人の掌は少しざらついていて、わずかにひんやりとしている。
少し漂った海の匂いに、やっぱり傍らの魚人は海に入っていたんだとナマエは思った。
「寂しいに決まっとる」
きっぱりとした声音で言い放たれて、思わずナマエがジンベエの方へ顔を向ける。
ゆるくナマエの腕を掴んだまま、ジンベエはナマエへ向けて言った。
「寂しいわい。他の連中も同じじゃろう、わざわざ酒まで出して、こんなところで船を停めた」
「お……お酒はお祝いだって、それに船だって、着くのが遅くなるから、今日はここで停まって明日の昼頃に着くように調節するって……」
「どちらにしても、島についてからで良い話じゃ。わざわざここで『そう』したのは、その分島に着くのが遅くなるからじゃろう」
ナマエの言葉に重なったジンベエの声に、嘘の響きは感じられない。
戸惑いと困惑をその顔に浮かべたナマエを見下ろして、しかし、とジンベエは続けた。
「お前さんは帰りたいんじゃろう、ナマエ」
そう言うとった、と続けられる言葉が何を示しているのかは、ナマエには分からなかった。
けれども、確かにずっと、家に帰りたいと思っていた。
どれだけの心配をかけているのだろうと思えば申し訳なかったし、家族や友人が恋しい気持ちに変わりはない。
毎日をどれだけ楽しく過ごしていたって、一人で眠るときはふと思い出しては寂しくなっていた。
ナマエが少女で、ましてやジンベエと出会っていなかったなら、毎晩泣きながら眠りについていたかもしれない。
ナマエが毎日泣き暮らしたりしていなかったのは、ナマエが男で、何よりジンベエがこうしてずっと一緒にいてくれていたからだ。
「……ジンベエさんは」
「ん?」
「ジンベエさんも、寂しい?」
そろりと、窺うように言葉を重ねたナマエに対して、ジンベエは少しばかり目を丸くした。
そうしてそれから、そう言ったじゃろうが、とどことなくあきれた声で寄越される。
そのことがなんだかくすぐったくて、そっか、と声を漏らしたナマエの手が目の前の格子を手放した。
重力に従って降りた手が、掴んだままのジンベエの掌によってジンベエの方へと引かれる。
気付いたジンベエがナマエの腕を逃がしたので、今度はナマエの掌がジンベエの手を捕まえた。
周りの人間より温かいらしいナマエの手には、ジンベエの掌は随分と冷えているように感じられる。
自分が触ったらやけどをさせてしまうんじゃないかとか、そんなことを考えたのは確か初めて会った日だった。
「俺も寂しい。ジンベエさんと、みんなと離れるの」
きちんと言葉にして出て行ったナマエの気持ちに、そうか、とジンベエが一つ頷く。
耳を傾けてくれる相手の優しさを感じながら、だけど、とナマエは続けた。
「帰れるんなら、帰りたい」
ナマエが生まれて育ったあの世界には、ナマエの全てがあった。
好きなように行き来できるようになるのが一番だが、なんとなく、それは叶わないような気がしている。
何も言わずにいなくなったナマエを家族は心配しているだろうし、今帰ったらニュースになってしまうかもしれないが、どうしたって帰りたい気持ちに嘘も偽りも無い。
そんな思いを乗せて紡いだナマエの言葉に答えるように、されるがままだったジンベエの掌が、ナマエの手を緩く握り込む。
万が一にも痛い思いをさせないようにと言うその慎重さは、そのままジンベエと言う名の海賊が優しいという現れのように思えた。
「……それなら寂しいが、わしらはお前さんが帰るための手助けをしよう。とても寂しいが、何より仲間が幸せになるためじゃ。いくらでも手は尽くす。かなり寂しいがのう」
「寂しいって言いすぎだよ」
「言わんと分からん奴がおるからのう、仕方がない」
やれやれとわざとらしく声を零すジンベエに、ナマエがくすりと笑う。
先ほどまで身の内にいた身勝手な痛みが、どこかに行ってしまったような気がした。
今でもみんなと離れることになるのは寂しいし、時にこのすぐそばに座っている海賊と離れ離れになることは特別寂しい。
それはきっとこの魚人が優しくて、ナマエがジンベエのことを大好きだからだ。
「俺、ジンベエさんのこと大好きだなァ」
抱いた気持ちを素直に吐き出したその瞬間に、あれ、とナマエはおかしなことに気付いてしまった。
一緒にいると楽しくて、その傍から離れたくない。
優しくされると嬉しくて、もしも迷惑だと思われていたんなら、と考えるとどうしようもなく悲しかった。
その手に触るのも、名前を呼んでもらうのも、何なら怖い顔で怒られるのだって。
それは明らかな好意だが、『好きだ』と考えるこの感情は、友達相手には行き過ぎではないだろうか。
ぶわりと過った何かが熱くて、体温が上がったことに慌てたナマエの手がジンベエの掌から逃げ出す。
唐突なナマエの動きに驚いたらしいジンベエが、少しばかり目を丸くした。
「な、なんじゃ、急に」
どうした、と聞いてくる相手に、いや、あははは、とごまかすように笑って、ナマエの手が軽く頭を掻く。
「あんまり人に言わないから、すっごく恥ずかしくなった!」
自分の焦りをうまく伝えてはいけないような気がして、嘘のようで嘘ではない言葉を吐き出したナマエに対し、ジンベエがひょいとその手を伸ばしてきた。
ぽんぽんとナマエの頭を叩いた大きな手が、そのまま離れる。
「……わしだって初めて言われたわい、お前さんのような相手には」
「え、何それ、誰にだったら言われたことあるの?!」
「さァて、ナマエにはまだ早い話じゃのう」
「また子供扱いしてる!」
笑いながらの言葉にナマエが非難の声をあげるのは、いつもとそう変わらない。
しかしながら胸が少しだけ痛むのは、きっと無視しておくべきことだとナマエは思った。
ナマエは男で、ジンベエも男だ。年の差もあれば人種の差もあり、何よりナマエは恐らく、この世界からいなくなる存在なのだ。
明日には島につき、噂の『日本人』らしき相手とも話が出来る。『帰る』方法も、恐らくは分かる筈だ。
「明日、ちゃんと話聞けたらいいなァ」
「うむ。もしも騙すような輩だったら、わしらが黙っておらん。何を言われたか、ちゃんと話すようにな」
「ほーれんそー! 分かってるよ」
「草の話はしとらんわい」
そんな会話を交わして、ナマエはジンベエと二人で空を見上げた。
元の世界では見られないような満天の星空から、きれいな光が二人と夜の海の上へと落ちていた。
end
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