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幸福的日常 (2/4)



「? ……?」

 一生懸命、ナマエが庭先で手を叩きながら、音も無く唇を動かして呼びかけている。
 けれども、朝日の差し込む早朝、気配からして起きているのだろう迷い犬は、まるでそこへおびき出されてこなかった。
 屈み込んで窺うナマエは少しばかり困った顔をしており、その体のあちこちが汚れているのは、先ほどまで床下へ入り込んで奮闘していたからだ。
 髪についている汚れを払い落としてやりながら、ナマエを傍らで見ていたサカズキが、その唇からため息を零す。

「床板を剥がしゃァ苦労もせんがのう」

 件の迷い犬は床下に潜り込んでいるが、どのあたりにいるのかは気配を辿れば大体は分かる。
 相手がマグマに耐えられる体ならサカズキがさっさと土に潜って連れて来るところだが、あの小さな犬が覇気を使えるとは思えなかった。
 そうなれば床板を剥がして上から捕まえるなり追い立てるなりした方がいいだろう、と考えてのサカズキの発言に、ナマエが慌ててその視線を向けて、首を大きく横に振る。
 先ほどサカズキが『やるか』と尋ねて寄越されたのと同じ拒絶に、わかっちょる、とサカズキは短く答えた。
 家の床を剥がす程度のこと、サカズキにかかれば造作もないことだが、直すには少々の手間と時間が掛かる。
 出勤の時刻を控えた今、それを実行すれば直すにしてもサカズキの出勤時間には間に合わず、そして破壊されたままの家にナマエを残していくのも気が引けた。
 どうしたものか、と考えたサカズキの耳に、家の中から時計の鐘が小さく響いて寄越される。
 どうやら時間切れだと把握して、サカズキは仕方がないと言葉を零した。

「帰りに慣れた連中を連れて戻る。噛まれんようにしちょれ。もしもその間に逃げよるんなら、それまでのことじゃけェのォ」

 能力を使わず床下へもぐりこむことはサカズキには難しいが、こういった生き物の保護を担う部署の連中であれば、さっさと対処できるだろう。
 本来なら出勤した後にでもここへ行って働くよう要請すればいいだけのことだが、サカズキはそうしようとは思わなかった。
 幾度か本部へ訪れたせいでか、ナマエは海軍本部の海兵の一部にその姿と名前を知られている。
 しかし、ナマエの方はサカズキの部下や他の海兵を全員見知っているわけではないのだ。
 声を掛けられれば口のきけないナマエは困ってしまうだろうし、見知らぬ人間が何人もやってきては不安になってしまうかもしれない。ナマエに負担を掛けることは、サカズキの本意ではなかった。
 サカズキの発言を疑問に思った様子も無く、こくり、と一つ頷いたナマエが膝を伸ばした。
 縁側に置いてあったスケッチブックをその手が捕まえて、ぱらりとめくった後、普段と変わらぬ文字をサカズキの方へと向けて見せる。

『いってらっしゃい。怪我に気をつけてね』

 にこり、と微笑んで向けられた見送りに、サカズキは制帽のつばを掴んで少しばかり押し下げた。
 普段と変わらぬ見送りが、面映ゆいのもいつものことだ。
 微笑む相手へ『行ってくる』と言葉を落として、サカズキは帰るべき場所からゆるりと歩き出した。







「犬が出たってェ〜?」

「なんじゃあ、急に」

 ひょいと顔をのぞかせた同僚からの言葉に、サカズキは眉間に皺を刻んだ。
 そのままじろりと睨み付けると、微笑んだ相手が人の執務室へと入ってきて楽しそうな顔をする。

「さっきそこで聞いてさァ〜、わっし、結構犬って好きなんだよねェ〜」

 かわいいから、と続く似合わない言葉に、ため息を漏らしたサカズキはその視線を外した。
 海軍本部へとやってきてすぐに、サカズキは部署の人間に事の次第を伝えた。
 突然現れた海軍大将に慌てて敬礼をしていたあの海兵達は、どうやら口が軽いらしい。
 そのうち合同演習でも組んで根から叩き直してやろうと心に決めたサカズキの横で、クザンは猫が好きだって言ってたけど、とどうでもいい情報をサカズキへ流したボルサリーノが、軽く首を傾げた。

「やっぱり、ナマエくんは『犬』が好きなのかァい?」

 揶揄うような声音に、サカズキが手を止める。
 改めて視線を向けると、サカズキを見下ろした大将黄猿がにんまりとその口元を笑ませていた。

「『やっぱり』たァ、どういう意味じゃあ」

 低く声を漏らして、サカズキは腕を組んだ。
 ナマエは恐らく、動物が好きな方だ。迷い犬の為に、わざわざ食事や寝どこまで用意していたのだから間違いない。あれが犬に対してだけだというのなら、まず間違いなく犬好きだろう。
 しかしボルサリーノの発言は、どうにも引っかかるものがあった。
 明らかに揶揄ってきている相手を睨み付ければ、オォ〜、と声を漏らしたボルサリーノが大げさにのけ反る。

「コワイねェ〜」

「おどれが馬鹿なことを抜かしよるからじゃろうが」

 舌打ちと共に声を漏らした大将赤犬が、片手で目の前の年上の同僚を追いやる仕草をする。
 わっしは犬じゃねェよォ、と声を漏らした大将黄猿は、それでもさっさと執務室から出て行った。
 それがまた顔を出したのは、サカズキが帰宅する時刻となった頃だ。
 それもサカズキが話を通してあった部署の海兵を伴ってのものだったのだから、サカズキは眉間の皺を深くした。

「なしてついてきよる」

「ちょっとその犬っころが見たくてさァ〜」

「犬ならよそで見りゃあよかろうが」

「まァまァ、そう言わず〜」

 にこにこと笑う相手は、どうやらサカズキ宅の珍事を暇つぶしの対象にしたいらしい。
 趣味の悪い相手にサカズキは舌打ちを零すが、それに怯えたような反応をしたのは、ほぼ二人に挟まれるような恰好で歩いている海兵二人だけである。

「クザンも誘ったんだけど、断られちまったんだよねェ〜」

「わしの家にそろって押しかけるつもりか、おどれ」

 勝手なことを言うボルサリーノに言葉を返しつつ、サカズキの足が慣れた帰路を辿る。
 普段はないおまけを引き連れて帰宅したサカズキの耳に届いたのは、わん、と響く昨日と同じ鳴き声だった。

「わう! わうわう!」

 威嚇している様子でもないそれを追うように、今日は最初から玄関ではなく庭の方へと足を踏み入れたサカズキが、珍しく目を瞬かせる。


 


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