パンテラの勝利と敗北
※『パンテラの確信』の続き
※アニマル主人公はユキヒョウ
※ほぼシャチ
シャチの覚えている限り、ナマエと出会ったのは血の海と化した小部屋だった。
トラファルガー・ローに狙われた毛皮商が、動物から生皮をはがしていた場所だ。
何匹もの獣達の死骸と毛皮があった場所で、どうしてだかシャチ達の船長が檻から出してやったというナマエは、その部屋の唯一の生き残りである。
どう見ても『肉食獣』であるナマエが檻の外にいるという事実にシャチは騒いだが、ナマエはシャチや同じ部屋にいたローを襲わなかった。
その白い毛に斑点の入った毛皮は美しく、なるほど狙われるだろうと納得はしたが、悲しげに『家族』らしいユキヒョウの亡骸に寄り添うさまを見せられて、殺して皮を奪おうとは思えない。
シャチ達が危害を加えないと分かったのか、無残な姿で死んでいる動物達を『埋葬しろ』と命じられて行動している間、ナマエは運ばれるユキヒョウ達の死骸に付き添いはしても、シャチ達の活動を邪魔したりしなかった。
ナマエは賢いユキヒョウだ。
しかし、やはりただの獣なのだろう、とは思うのである。
「……あんなァ、ナマエ。そこつなぎだからさァ」
舐めてもどうにもなんねェよ、と言葉を放ち見やった先で、ナマエがちらりと視線を寄越す。
その太い前足はがしりとシャチの足を捕まえていて、そうして寄せられた舌先が、またもシャチの足を舐めた。
つなぎを着込んだシャチには何の痛みも無いが、時折聞こえるさりさりという音からして、何とも丁寧に擦られているようである。
動物というのは毛並みを整える時に舌を使うものだ。
ナマエもよく体を毛づくろいしているし、豹と呼ばれるはずなのにどう見ても猫のようなその動きに笑ったりブラッシングしてやったりはしていたが、今日は何やら飛びついてきたナマエによって足を奪われている。
日頃のブラッシングのお礼のつもりなのかもしれないが、驚いてしりもちをついた尻の痛みの詫びも欲しいところだ。
「なあう」
ため息を零したシャチの足元で、更なる鳴き声を零したナマエがのしりとその体をシャチの足の上へと乗せた。
それに気付いて目を瞬かせたシャチの前で、足を伝うようにして乗りあがってきたナマエの前足が、シャチの胸に乗る。
充分に育ったユキヒョウの体重を掛けられて体を後ろに傾がせながら、あの、とシャチは言葉を零した。
「ナマエさん? どいてくれます?」
思わず敬語を零してしまったのは、眼前に迫る肉食獣の目が、何か明らかに明確な意図をもってシャチの顔を覗き込んでいたからだ。
殺気は感じられず、かみ殺されるとまでは思わないが、一体何をされてしまうのか。
困惑を浮かべるシャチの前でひくりと鼻を動かして、猫のように高い鳴き声を零したナマエが、ぱくりとシャチの帽子のつばを銜える。
それをそのままぐいと引っ張られ、シャチは己のトレードマークがユキヒョウに奪われたことを知った。
「あ、おい、ちょっと」
慌てて手を伸ばすも叶わず、それを器用に自分の後方に放ったナマエが、前足を動かしてシャチの腕を抑え込む。
ついに背中を床へ押し付ける格好になり、どうしたものか、とシャチは少しばかり考えた。
ここは食堂でもなければシャチが使っている共同部屋でもなく、それぞれの部屋を行き来する合間にある通路だ。
奥まった船長室から続くそこはきれいに掃除がされているが、ごろごろと転がっているわけにもいかない。
さっさと飛び起きてしまいたいが、ナマエを驚かせてしまうと、飛び上がったナマエが低い天井に体をぶつけかねなかった。
ナマエに跳躍力があることは、すでにハートの海賊団の中では周知の事実だ。
それなら跳ばないように両手で抱えりゃいいのか、と考えが到り、押さえ込まれた両腕をそっと動かそうとしたところで、ナマエの顔がシャチへとさらに近付く。
「……いっ」
そうして、ざりり、と皮膚の薄い額を舐め削る慣れない感触に、シャチの口から思わず悲鳴が漏れた。
そのまま髪の方へと滑って行った気がするが、髪まで引っ張られて軽く痛みを感じる。
さらに数回攻撃されて、シャチは自分がナマエに舐められているという事態を認識した。
しかもどうやら、髪の毛の方を入念にくしけずられているようだ。頭皮にまで引っ掻くような感触があって、とんでもなく痛いとは言わないが続けられれば確実に赤くなりそうである。
「お、おい、ナマエ、なにしてっ」
「ナマエ」
慌てて声をあげたシャチから少し離れた場所で低い声がナマエの名前を呼び、動きを止めたナマエがシャチから顔を離した。
その目が前方を見やったので、ユキヒョウにのしかかられているシャチも首をそらすようにしながら真上を見る。
上下が逆になった視界に、呆れた顔をして佇む船長の姿があった。
いつもと違うのはどうしてか帽子をかぶっていないことと、髪型がいつもと少し違うことだろうか。
「船長、その髪型珍しいっすね」
どちらかというと跳ねのある髪がしっとりと湿っていて、濡らしながら丁寧に櫛で梳いて撫でつけたのかと考えたシャチの言葉に、そこの奴にやられたんだ、と答えたローが足を動かした。
近寄ってきた相手を見上げて、ナマエがくるくると喉を鳴らしている。
どことなく満足げなそれに首を傾げたシャチをよそに、ため息を零したローの手が自分の頭へ触れ、くしゃりと整えられていた髪を乱した。
それを見て、どうしてかシャチの上のユキヒョウが体を強張らせる。
太い尾がわずかに揺れ、見やった先でいつもより少し膨らんでいるのをシャチが見たところで、体の上の重みが一瞬増した。
そうして、次の瞬間にはその圧倒的な跳躍力で飛び上がったナマエを、予想していたらしいローの腕が抱き留める。
体を傾がせもせずにユキヒョウを小脇に抱え直したトラファルガー・ローに、さすが船長、と賛辞を贈ったシャチが起き上がった。
じたばたともがきながら、ナマエがみゃあともなあともつかぬ鳴き声を零している。
シャチは知らなかったが、どうやらユキヒョウというのは吠えることの出来ない生き物らしい。高い声は相変わらずだが、ナマエは明らかに何か不満を訴えている。
「そこの奴って、ナマエがやったんですか、それ」
問いつつ立ち上がったシャチの言葉に、ああ、とローが不本意そうに答えた。
「おれが寝てる間に人の髪や服をべたべたにしやがったからな。今から風呂に行くところだった」
「べたべた……ああ……」
眉間に皺を寄せたローの言葉に、ローの髪が何で湿っていたのか把握して、シャチが一歩足を引く。
それを見やり、おれが来なかったらてめェも同じ目に遭ってただろうが、と唸ったローは、暴れるナマエを無視して歩き出した。
「ついでにこいつも入れてやる。自分の毛並みが乱れりゃ少しは大人しくなるだろう。こいつの分のタオルを持ってこい」
「アイアイ、キャプテン」
不機嫌なローに海兵のように敬礼をしてシャチが答えると、それをちらりと見て鼻で笑ったローがそのまま歩み去っていく。
頭を後ろにして小脇に抱えられているナマエから救いを求めるような視線が向けられたが、船長にクルーが逆らっていいはずがない。
ひらひらとシャチが手を振って見送ると、悲鳴のように鳴き声に尾を引かせながら、ナマエはそのままローに運ばれて行ってしまった。
恐らくこれから半時間もあとには、広げたタオルの上で必死に自分の毛づくろいをするナマエがいることだろう。
ドライヤーでもあててやっかな、なんてことを考えつつ、先ほどナマエに放り捨てられた帽子を拾い上げてかぶり直したシャチが、その口からため息を吐く。
「ああいうの、きれい好きって言うのか?」
自分の舌で毛づくろいをするのは大体の動物の常だろうが、動物にも美意識というものがあるのだろうか。
愛情表現だというなら受けてやってもいいかもしれないが、シャチにはローと同じ目に遭う未来を受け入れる自信がない。
「……うちの船長ってすげェなァ、やっぱり」
しみじみそう呟いて、シャチはうんうんと一人で頷いた。
ナマエの舌で舐められた感触を思い返してみても、眠っていたローが目を覚まさない筈がないのだ。
さっさと風呂に入る選択をしたとしても、一度はナマエに好きなようにさせたのだと思えば、その度量の広さには感服する。
ねぎらいの酒も用意しとこう、なんて考えて先に姿を消したトラファルガー・ローの後を追うように歩き出したシャチには、すでに何日も攻防を続けたローがついに折れた結果だったのだなんてことは、知る由も無かったのだった。
end
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