未だ、名も無い (2/2)
「AランチとBランチ、どちらにしますか?」
「任せるよォ〜」
のんびりとした口調で寄越された返事に、またそんなことを、と軽く笑った。
それから少しだけメニューを鑑みて、相手が好みそうな方を指差す。
「大将さんなら多分、Bランチがお好きだと思います」
「それじゃァ、そいつにしようかねェ〜」
俺の言葉にあっさりと頷く相手に、そんな風に俺を信用していいんですか、と首を傾げる。
俺の発言を受けて、目をきょとんと丸くしたお客様が、それから楽しそうな笑みをその口元に刻んだ。
「なんだァ〜、わっしに悪さなんて、ナマエはしねェだろォ〜?」
面白がるようなその声音に、もちろんしませんよ、と笑顔を返した。
いつものようにセットのドリンクにはホットのコーヒーでいいか確認してから、カウンターへと戻る。
店長にBランチを一つ注文して、慣れた手順でコーヒーを淹れた。
今日もいい匂いのするそれを手にして振り返れば、俺の動きを眺めていたらしい相手と目が合う。
「……大将さん、どうかしましたか?」
じっと注がれる視線に居心地の悪さをわずかに感じて、コーヒーを運びながら問いかけた。
コーヒーを渡せば礼を言ってくる案外礼儀正しい海兵さんが、カップを引き寄せながら頬杖をつく。
「あのねェ〜、ナマエ」
「はい?」
「いい加減、『大将さん』はやめとくれよォ〜」
もうそろそろ良いだろうと、そんな風に言葉を続けられて、思わず目を丸くした。
すでに指定席になってしまった一席に陣取っている目の前の相手は、この島に本部のある海軍の『最高戦力』の一人だ。
大将の肩書があると、知っていることを『教えてもらって』から、俺はもう一か月ほど、そうやって相手のことを呼んできた。
「おんなじ呼び方になるのが、あと二人もいるしねェ〜」
そんな風に『大将さん』は言うが、しかし他の海軍大将になんて、一度だってお目にかかったことがない。
たぶん、いくらマリンフォードとは言え、これだけの肩書がある人と頻繁に顔を合わせるのは稀なことなんだと思う。
俺がその『稀』な人間になっているのは、俺がこの人に保護された人間だったからだった。
あの日、右も左も分からない場所で確かに俺を助けてくれたのは、確かにこの海軍大将だ。
それでも本来だったら、『保護された人間』から『移民』になった時点で、縁が切れるはずだったのだ。
けれども、彼は俺が働いている店だったこの店に一度様子を見に来てくれて、店長の料理が気に入ったのか、こうして時々食事をしに来てくれるようになったから、海軍の保護下を外れても顔を合わせることが出来ている。
呼び方を変えろ、と要求してくるのは、これから先も俺に呼びかけられるつもりでいる、という意味にとっていいんだろうか。
これからも通ってくれるというのなら、それはとても嬉しいことだ。
「……じゃ、じゃあその、黄猿さん……とかですか?」
だらしなくなりそうな顔を引き締めつつ、そっと尋ねると、ぱちりと瞬きをした相手が少し困った顔をした。
「わっしの部下達を真似てんのかァい? 海兵じゃァあるまいし、やめとくれよォ〜」
きっぱりとした却下に、こちらも困って眉を下げる。
それじゃあなんて呼べばいいんですか、と相手へ向けて尋ねると、どことなく不思議そうに首を傾げられてしまった。
「わっしの名前くらい、知ってんだろォ〜?」
頬杖をついたまま、そんな風に寄越された言葉に、相手がどう呼ばれたいのかにやっと気が付く。
じわ、と掌に汗をかいた気がしてこっそりと服に手を擦りつけながら、ええと、と声を漏らして少しだけ相手から目を逸らした。
嬉しい許可の筈なのに、なんだか求められると恥ずかしい。
しかし、そんな恥ずかしさは『普通』は持たないものなんじゃないだろうか。
そう思うと躊躇うことだって憚られて、恐る恐ると口を動かした。
「…………ぼる、さりーの、さん」
「そう、それがいいねェ〜」
少したどたどしくなってしまった俺の呼びかけに、海軍大将黄猿であるはずの相手がにんまりと笑う。
どことなく嬉しそうにすら見えるそれが、強烈に俺の心臓を突き刺した。
今は能力を使ってもいない筈なのにどうしようもなく眩く見えて、少し逸れていた目を完全に逸らす。
「りょ、料理運びますね。もう少しお待ちください」
少し早口になってしまった俺にくすくすと笑った相手が、急がなくていいからねェ、なんて言う風に言葉を放った。
「慌てて転んじまったら大変だからねェ〜」
「大丈夫です!」
一番最初の、まさか様子を見に来てくれるなんて思わなかったあの日の俺の失敗を引き会いに出されて、むきになって言い返してしまった。
それを見てますます『ボルサリーノさん』が楽しそうな顔をするからたまらず、逃げ出すようにテーブルを離れる。
覗きに行ったカウンターの向こう側では店長が料理を進めているところで、あと数分で提供できそうだった。
今のうちにと他の席の食器を下げて回って、ついでにお冷のお代わりを補充していく。
その合間にちらりと見やった席では、まだ料理を食べてもいない『ボルサリーノさん』が、コーヒーを楽しんでいるところだった。
こちらを見ていない相手にほっと息を零しながら、水差しを手にカウンターの内側へと戻る。
『この世界』に来たあの日から、俺は少しおかしかった。
どう見ても同性で、年上で、何より『海軍大将黄猿』という主人公の敵が気になったり、微笑まれたり優しくされたりするだけで不整脈を起こす。
かと言って会いたくないわけじゃなくて、店にやってきてくれるのが待ち遠しいし楽しみだった。
会えるのが嬉しいし、声を掛けられるのも嬉しい。保護した立場だったからか、気に掛けてくれるのも親しくしてくれるのも、全部嬉しい。
それがどうしてかなんてわかりきったことだけど、それを明確にしてはいけないような気がする。
「うう……」
「ナマエ、もってけ」
水差しへ水を補充しながらわずかに唸った俺の方へ声を掛けた店長が、カウンターにトレイを置いた。
Bランチが鎮座しているそれを見て、慌てて水差しを元の場所へと戻してからカウンターを出る。
外側から手にしたトレイを運ぶと、俺の動きを視界に入れていたらしい『ボルサリーノさん』がこちらを見た。
「お待たせしました」
「そんなに待っちゃいねェよォ〜」
微笑んでそんな風に言いながら、俺が置いたトレイの上を見下ろした海軍大将が、美味しそうだねと笑う。
どことなく子供っぽくも見える、その笑顔にまた心臓を掴まれた気がして、俺はひとまずそんな自分には気付かないふりをすることにした。
end
←
戻る | 小説ページTOPへ