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拝啓、神様 (2/3)




 ふう、と吐き出した煙が空気に溶けるのを見やり、『コラソン』はゆったりと足を動かす。
 兄に似たのか父親に似たのか、大きく成長したその体に見合った足がまっすぐ石畳を踏みしめて、歩くたびに視界の端でちらちらと黒い羽毛が揺れた。
 八歳の頃、兄の傍を逃げ出して『海軍』へと入隊したロシナンテが、巷を騒がす『ドンキホーテファミリー』の首領と似たコートを身にまとうようになったのは、ここ一年ほどのことだ。
 表向きは十数年ぶりに戻った『ドフラミンゴの弟』として、そして実際には潜入捜査を続ける『海兵』として、ロシナンテはドンキホーテファミリーの幹部にその籍を置いている。
 与えられる任務は疑われないようにこなしながら、出来る限りドフラミンゴのしでかす『悪事』の邪魔をしているのは、そうすることが弟としての務めだと思っているからだ。
 今日もまた、早くあの『アジト』に戻り、任務の報告をしなくてはならない。
 手に持っていた袋を軽く揺らし、じゃらりとベリー硬貨の音を立てたそれにふっと息を吐いてから、煙草をくわえたロシナンテは歩く足を少しだけ早めた。
 その足がずるりと滑ってしまったのは、おそらく路面がぬれていたからだろう。
 受け身を取る暇もなく体が後ろへ傾ぎ、しまった、と『コラソン』は歯を食いしばる。
 それでも仕方なく衝撃に備えたその背中が石畳ではない何かに叩き付けられ、それと同時に『うぐっ』と小さなうめき声が聞こえた。
 石畳に比べて柔らかな感触に、慌ててロシナンテが起き上がる。
 それから振り向くと、自分の真後ろにあたる位置に、人が一人倒れていた。
 どうやらすぐそばの店の店員であったらしく、ロシナンテの巨躯に押しつぶされたと思えるその腹はべったりと水に濡れた石畳に押し付けられている。
 見やった傍らの店は花屋だったようで、恐らく水やりの水が路地に漏れ出てきていたのだろう、ということはロシナンテにも分かった。
 怪我をしているのではないだろうか、とその様子を窺ったロシナンテの前で、いててて、と声を漏らしつつその店員が起き上がる。
 向けられたその顔に、ロシナンテは妙な既視感を抱いた。
 見知らぬはずなのに、知っているような気がする。
 特に特徴があるともいえない顔立ちの店員は、打ち付けたのだろう顎を軽く押さえてから、少しばかり申し訳なさそうに眉を下げた。

「あー、お兄さん、ごめん、水撒いてたんだ。怪我ないですか?」

 そうして寄越された言葉に、ロシナンテが首を横に振る。
 それなら良かった、と服の前面をびしょ濡れにした店員が笑って、それからひょいと立ち上がった。

「濡れるからそっちも立った方がいいと思いますよ?」

 それからそう言って軽く手を差し出されて、ロシナンテが素直にその手を掴まえる。
 ぐい、と引っ張るそれに合わせてロシナンテが立ち上がると、自分をはるか上から見下ろす形になったロシナンテを見上げて、うわ、と店員は驚いたような声を上げた。

「でっかいなァ! 何食ったらそうなるんですか?」

 初対面の相手に親しげに言葉を寄越されて、ロシナンテは軽く首を傾げる。
 自分のドジを自覚しているから、自らが『海兵』である情報をファミリーに漏らさぬよう、ロシナンテは必要のない時は出来る限り口をきかないようにしている。
 海兵として生き始めた頃に口にした悪魔の実はそれに随分と役立ってくれていて、ロシナンテの兄ですら、ロシナンテを『話せなくなった男』だと思っているのだ。
 だからこそ今だって何となく口をつぐんでいる彼を不思議そうに店員が見上げたところで、店の方から軽く声が掛かった。

「ナマエくん、大丈夫だった?」

「あ、はい、すみませーん」

 どうやら店内からロシナンテが転ぶ様子やその下敷きになる彼を見ていたらしい店主が心配そうな声を出していて、それへ店員が笑って返事をしている。
 怪我もありません、と答える彼を見つめて、聞こえた声を頭の中で一度反芻したロシナンテは、それから大きく目を見開いた。
 ぽろ、と口に咥えたままだった煙草が落ちて、濡れている石畳へ落ちてじゅわりと小さく音を立てる。
 いつもだったら膝にあたって火傷の一つもするところだが、どうやらそれは避けることが出来たらしい。

「………………『ナマエ』……?」

 思わず、小さく声が漏れた。
 それは、ロシナンテがどうしても忘れることの出来なかった、ただ一人の名前だった。
 十数年の間に薄れてしまいかけていた記憶が、唐突にロシナンテの頭の中へ甦る。
 その途中で溢れた忌まわしい記憶に体が震えるのを感じたが、今のロシナンテにはそんなもの些細なことだった。
 『ナマエ』とは、あの日突然現れたロシナンテとその兄へ、食事を振舞ってくれた彼の名前だ。
 死んでしまった母親がロシナンテにそうしたように頭を撫でてくれて、優しい声で『ロシー』とロシナンテを呼んだ、彼の名前だ。

「……『ナマエ』……」

 言葉を繰り返したロシナンテの前で、名前を呼ばれていることに気付いたらしい店員が、その視線をロシナンテへと戻す。

「はい? 俺は、ナマエですけど」

 すみません知り合いでしたっけ、と少し困ったように笑ったその顔に、記憶の中の彼が重なる。
 年齢の計算が合わないだとか、そもそも彼は『異世界』の人間であるはずだとか。
 そういった考えはわずかにロシナンテの中にも浮かんだが、そんなものは関係なく、ロシナンテの中の何かがはっきりと、目の前の彼が『彼』であることを大声で主張していた。
 思わず伸ばした手で掴んだ腕は細く、されるがままになった相手が、困惑の色合いを強くした目でロシナンテを見上げる。
 不審そうなそれを見下ろして、一度息を吸い込み、ロシナンテはそっと口を動かした。
 どこで誰が聞いているかも分からないが、今はそれよりなによりも、確かめなくてはならないことがある。

「……ロシナンテ、を。『ロシー』を、知ってるか?」

 恐る恐る問いかけたロシナンテの前で、ロシー? と彼が言葉を紡ぐ。
 それはまさしくロシナンテが覚えている『ナマエ』の声音で、ああやはり、と確信したロシナンテの向かいで、ぱちぱちと彼が瞬きをした。
 それから、その顔が柔らかく微笑みを浮かべる。

「もしかして、ロシーとドフィのお兄さん? よく見れば顔がそっくり」

 あの二人は元気にしてますか、なんて言って窺うようにロシナンテを見上げたナマエは、紛うことなく『ナマエ』だった。




 


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