Short Short | ナノ

グレイスとわたし 




「いーやーぁ――!」

 バウバウッ、と元気のいい鳴き声が響き渡る。
 ある雨上がりの午後。乾ききっていない泥をはね飛ばして、玉子焼き色の大きな犬が庭を駆けまわっていた。
 ミモザやカンパニュラの中に顔を突っ込んでは嗅ぎまわり、空振りして空気を噛んでも、落ち込むことなくますます手足を加速させていく。
 彼女が夢中になって追っているのは、バッタでもお気に入りのまん丸のボールでもなく、目前をちらちら揺れて逃げていく、ルビー・ピンクの小さな影。
 小さな妖精・ヴェラは、“今日こそ”迫りくる猛獣に食われてたまるかと、必死に四枚の羽を動かしていた。

 グレイスはわたしを甘いお菓子か何かと勘違いしている。
 だってわたしと同じ色のバラには目もくれないし、飛び回るチョウチョやトンボにだって興味がない。
 それなのに、飼い主のアナってば「グレイスはヴェラと遊びたいだけなのよ」なんて言って、この大きなわがまま娘を叱りもせずにヨシヨシなんて撫でるのだ。
 もう! いつかわたしをグレイスの胃袋から取り出さなきゃならなくなったら、一体どう責任取るつもり!?

 ヴェラはひとり憤慨しながら、背の高いオリーブの木に向かって一目散に駆け上がった。
 この退避は上手くいった。グレイスは後ろ足で立ってこちらを見ているが、もともと頭のいい子だ。華奢なオリーブの木に自身が乗らないことはわかっていて、木にかけていた前足を下ろす。
 これでアナが気付いて助けに来てくれれば。ホッと息をつき、ヴェラは母屋のほうへ目をやった。
 今ごろ、グレイスの飼い主は“人間以外立ち入り禁止!”なんて失礼な張り紙をした部屋で、庭での決死の追いかけっこなど気付きもしないで仕事に没頭しているに違いない。
 仕事の出来に満足し、のびをして、一杯のお茶を飲んでから部屋を出てくるのは、一体いつになるのだろう。
 そう思って足元を見下ろすと、グレイスはオリーブ木の下にじっと体を落ち着かせ、くつろいだ体勢を取っていた。
 あーあ、もう! これで日が沈むまでここに居なくちゃならなくなった。今日はアナの仕事がはかどらないせいでアフタヌーン・ティーもおあずけだし、ほとほとついていない。

 両足を投げ出し、ヴェラは枝にもたれかかった。
 グレイスはのんきにも大きなあくびをし、湿った地面にふさふさのお腹を伏せている。
 夕暮れ、仕事の終わったアナが、疲れた顔でグレイスを水場へ引きずっていく姿が目に浮かぶ。
 ふんだ。わたしはちゃんと仕事を終えたのに、アフタヌーン・ティーをおあずけにされた罰だわ。
 グレイスをはやし立てて家まで連れて帰る案もちらりと浮かんだが、すぐにしつけが悪いのはアナのせいということにして、ヴェラは突然やってきた休暇を楽しむことにした。
 昼寝をしようとオリーブの葉をむしって丸めて枕にしてみたが、どうも心地が悪く、すぐに起き上がる。
 何か暇つぶしでもしようと、枝の上であぐらをかき、ルビー色の髪をぐしぐしととかしてみた。
 もつれ合った毛糸玉のような髪は頑固にヴェラの細い指に抵抗し、力いっぱい両手をのばして、ようやく何本かやっつける。
 その時、はらりはらりと落ちていった髪が、寝ているグレイスの鼻をくすぐった。
 バウッ、と声をあげてグレイスが飛び上がる。しまった、と思うがもう遅し。ぐらぐらと枝を揺らされ、ヴェラは悲鳴をあげた。

「きゃーっ! グレイス! やめてよやめて! 落っこちちゃうー!」

 しかし、枝を揺らしていたのはグレイスではなかった。
 起き上がってこちらを見ているが、前足はきちんと地面について、ヴェラの居るよりはるか先を見つめている。
 バサバサッ、と羽音がした。そう、羽音だ。
 揺れる枝にしがみついたまま、ヴェラはさっと青ざめた。――鳥だ!
 逃げなくちゃ! とっさに立ちあがったはいいが、今飛び出したらかっこうの的じゃないだろうか。
 かといって、この派手な髪の色だ。いくら鳥は目が悪くたって、じっとしていたら、見つけられるのは時間の問題。ましてや枝ぶりの悪いオリーブの木に、隠れる場所なんてどこにもない。
 幹を滑り下りれば、グレイスが下で待っている。べちょべちょの口の中に飛び込む感覚を思い出し、ヴェラはぶるっと震えた。
 もう逃げる道がない。どっちにしろ食べられるしかないんだ。アナ! 心の中で叫んだが、母屋の窓はぴくりとも動かなかった。
 その時、ギャーッと耳を劈く声をあげて、ヴェラの背後から黒いくちばしが襲いかかってきた。
 カラスだ! ヴェラは飛び上がり、隠れる場所はないかと細い木の上を必死に駆け抜けた。
 ちらちら動き出したピンク色のおいしそうな実を見つけて、カラスが無理やり枝の間に体をねじ込んでくる。
 カチカチと背後でくちばしが鳴り、ヴェラはパニックになって四枚の羽をばたつかせた。

「きゃーっ! やめてよー! わたしなんか食べたって甘くもなんともないんだからーっ!」

 ピンク色のちらちら動くおいしそうな実に、きらきら輝く宝石が四つもくっついている。
 カラスの興奮はますます高まり、オリーブの葉を散らしながらカラスは崖っぷちのヴェラめがけて突進した。

 神さま、こんなのあんまりだわ!
 わたしが頑張っているアナを恨んだのがいけなかったのなら、どうか謝ります!
 だから、だから、せめてアナに「ありがとう」と「さよなら」を言うまでは――!

 絶体絶命。今にもぱくんとカラスに食べられるという寸前、グレイスが下でバウッと吠えた。
 その声に驚き、カラスがギャッと声をあげて首を引っ込める。
 はっと足元を見れば、木に寄りかかったグレイスが鼻にしわを寄せ、威嚇の声をあげていた。
 黒曜石のような瞳が、ぎらりと光る。

 ――来なさい!

 ヴェラは四枚の羽をぴったりと背中にたたみ、グレイスめがけて空中に身を投げた。
 グレイスが大きく口をあけ、ヴェラをぱくんと飲み込む。
 まんまと獲物を横取りされた。カラスは腹をたて、ギャアギャアとわめきながらグレイスめがけて滑降してきた。
 グレイスは歯を食いしばって唸り声をあげ、くちばしや鉤爪で襲いかかってくるカラスを顔を振って追い払う。
 しつこい攻撃に、グレイスはついに前足をふって立ち上がった。その大きな体に圧倒されたのか、カラスは最後に一度ギャーッと叫び、グレイスの前足をすり抜けて森の方へ帰っていった。
 どすん、とグレイスの両足が地面へ戻る。牙の間から壮絶な戦いを見守っていたヴェラは、グレイスの伸ばした舌を伝って地面へと降り立った。
 よだれでべちょべちょになった四枚の羽を、ゆっくりと広げていく。
 ヴェラは顔に傷を作ったグレイスを見上げ、声を詰まらせた。

「わたしを助けてくれたのね……?」

 大きな鼻が、ふんふんと呼吸をしながらヴェラに近づいてくる。
 ヴェラはグレイスの鼻にすがり、ひしっと抱きしめた。

「まったく、女の子が顔に傷を作るなんて、このおてんば娘! アナに叱られたら、わたしのせいだって言うんだからね……!」

 うー、わんわんわんー。葉っぱを散らしたオリーブの木の下で、一人分の泣き声が延々と続いていた。

 *  *  *

 夕方。ようやく仕事が一区切りついたところで、アナは仕事用の椅子にもたれてうんと伸びをしていた。
 日差しが強くなったところで下ろしていたカーテンをめくると、外はちょうど日が陰ってきたかという頃。
 今日はやかましい声がしないせいか、ずいぶん早く仕事が片付いた。
 少し遅めのアフタヌーン・ティーでもしようかと、満足した顔で仕事部屋を出る。
 するとそこには、泥だらけの巨体で厨房のど真ん中にどすんと座り、のんびり居眠りをしているグレイスの姿があった。
 あれほど言い聞かせていたのに、外を跳ねまわったまま、清潔であるべき仕事場兼厨房に入って来たらしい。
 疲れ切った顔であちこち足跡の残る厨房を眺めて、もはや声も出ず、重いため息だけを零した。

「なんで、こうなるんだか……」

 よろよろとお茶の準備に向かうと、カウンターの上に、覚えのないビスケットの缶とティースプーンが転がっていた。
 ヴェラの仕業だとすぐにわかった。小さな体でビスケットをつまみ食いするには、ティースプーンを“てこ”に使って缶を開ける必要があるから。
 とっ捕まえてお説教のひとつでも落としてやりたいが、今回は仕事を理由に楽しみにしていたお茶の時間を取り上げてしまった責任もある。
 お茶に誘って仲直りしよう。そう思い、ふと元気のいい声の主を探して部屋を見回すと、グレイスがゆっくりと立ち上がった。
 ふんふんと鼻を鳴らしながら、アナのもとへと歩いてくる。その鼻の上には、見覚えのある派手な頭の妖精がころんと張り付いていた。
 大きなガーゼを枕にして、ヴェラは眠っていた。その下に赤い染みを見つけて、まさかと思ってつまみ上げたが、どうやら怪我をしたのはグレイスで、ヴェラは出血を止める重石となっていたらしい。
 しかも、グレイスの口の周りはビスケットまみれになっている。

「一体なんだっていうの?」

 問いかけても、グレイスに答えられるわけがなかった。
 つままれてもなお眠り続けるヴェラに、グレイスがクンクンと鼻を鳴らす。
 アナはふうっとため息をつき、ヴェラを手のひらに寝かせ、もう片方の手でグレイスの口についたビスケットを振り落とした。

「わかったわ、話は後で聞きましょ。……まずはあなたの手当てからよ、このおてんば娘」

 ぽんぽんと頭を撫でてくれたアナに、グレイスは嬉しそうに一声鳴いた。

 日の沈んだ厨房に、お菓子を焼く甘い香りが漂ってくる。
 ヴェラが歓喜の声をあげて飛び起きるのは、もう少しだけ、後のこと。




あとがき

【壁】д・)コソコソ
久々の…短編です。いかがでしたでしょうか…ドキドキ。
今回は、ツイッターでお世話になっている「お茶部」に提出するために生まれたキャラクターで、一本書いてみました。
ピンク色の派手な頭の妖精・ヴェラ、そして犬のグレイス、人間の女性・アナ。
登場人物が全員女の子というのは、私の作品ではとても珍しい例ではないでしょうか(笑)
以前チラッと書いた「クリスティーネのおはなし」の雰囲気が個人的に好きだったので、今回もそんなイメージで書いてみました。

本作は「お茶部」に提出する作品の、番外編のようなものなので、
本編が見たいという心優しい方は、ぜひ「お茶部」の作品集が出来次第、他の素敵作品と共にご覧くださいませ…(宣伝宣伝!)
私も今から待ち遠しいです(´∀`*)+゜

ではでは、約半年ぶりの新作をポイと置いて、失礼いたしますー。

***霞ひのゆ


[Photo Material:ミントBlue]


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