「おまえ、誰だ」

 少年はそう言い放ち、鋭く私を睨んだ。私の今の心情とは正反対の、その澄み切った空色の瞳で。
 一日の終わりにそんな理不尽な眼差しを向けられた私の気持ちを察していただきたい。
 まったくもって、最悪な一日である。





 最悪な日。
 今日一日を一言で表すなら、この言葉しかないと私はしみじみ考えていた。
 まず朝の目覚まし時計が鳴らなかった。お陰で朝食を食べ損ねた。次に電車を乗り過ごし、そのせいで会社まで全力疾走したものだから、道行く人々から怪訝そうな視線を向けられた。
 昼食で入った店は味がいまいちで、おまけに密かに想いを寄せていた先輩がとうとう別部署の横山さんとくっついたことを、惚気と共に報告された。
 動揺から業務は凡ミス続きでまさかの残業、ようやく帰路についた時刻は22時。

 まさしく踏んだり蹴ったりな一日だったが、それでもどうにかやり過ごしたのだから、誰か褒めてくれてもよいのでは。
 すっかりすさんだ気持ちでそんなことを考えながら、自宅のドアを開き、パンプスをむしるように脱ぎ捨てる。
 そこではたと気がついた。

 ────人の気配がする。

 一人暮らしの女の家に不法侵入するなんて。これが噂の変質者か。あるいは殺人犯だろうか。
 恐る恐る室内へ踏み入り、壁を探って電気をつける。パッと明るくなった部屋にはけれど、私の予想に反して、いかにも無害そうな少年が一人、所在無げに立ち尽くしていたのである。




 話は冒頭に戻る。
 突然のことに呆気にとられてだんまりしていると、少年はその幼いながらも整った顔をしかめて、同じ言葉を繰り返した。

「おまえ誰だ。……喋れねェのか?」
 
 日本語だ。外国人然とした容貌なので英語しか話せないのかと思いきや、そうではないらしい。これは助かる。私は英語が話せない。

「……誰だって、私こそきみに尋ねたいのだけど」
「ん?」
「どこから来たの。まさかいたずらで人の家に?それはちょっと、よくないと思うよ」

 そもそも鍵はどうしたのだろう。一体どこのお子さんなんだ。親も心配しているだろうに、捜索願はもう出されているのだろうか?
 疑問は尽きないが、とにかく。

「あのね、少年」
「……それおれの事か?」
「室内で土足はちょっと。靴脱いでくれるかな」
「お、おう。悪ィ」

 靴を脱いだ少年を適当に座らせながら思索する。
 少年はそれなりに良識のある子供のようだ。さり気なく観察した結果、ひとまずそう結論した。
 それどころか、所作の端々から育ちの良さすら感じられる。まず悪行目当てではないだろう。ひょっとすると家出かもしれない。

「紅茶と緑茶どっちが好き?」
「……紅茶」

 戸惑いながら答える少年がおかしくて、思わず頬が緩む。しんと静まり返る室内。聞こえるのは外で吹く風がいたずらに窓ガラスを揺らす音と、少年のひそやかな息遣い。見慣れたはずの部屋が今ばかりはなぜだか新鮮に感じられる。
 電気ケトルからこぽこぽと湯の沸く音が聞こえてくるまで、そう時間はかからなかった。







 とにかく落ち着いて話をしようか。
 そう促せば、手渡した紅茶をこくりこくりと飲む少年は、意外にも素直に口を開いた。

 いわく、少年はイースト・ブルーにあるゴア国で生まれ育った。少年はその国の貴族だが、貴族の腐った体質に嫌気がさしており、とうとう親の目を盗んで家出。グレイ・ターミナルというスラム街へたどり着いたところだった。そこで少年は運悪くゴミ山で足を滑らせ転落。目が覚めたらこの部屋にいた。

 ……まとめるとこういう話だ。間違いなく嘘だろう。気絶した少年を国を跨いで誘拐したうえ、見ず知らずの女の部屋に置き去りにするなど、あるはずもない。
 子供の想像力は凄い。私は半ば呆れながら感心した。

「おまえもおれの質問に答えてくれ。おまえは誰で、ここはどこだ?おれをさらったのか」
「ええ?人聞きが悪いなあ」
「……目が覚めたらぜんぜん知らねェ場所。最初は治療でもしてくれたのかと思ったが、そうでもなさそうだ。それじゃあ、さらわれたんじゃないかと思うだろ」

 とんでもない濡れ衣だった。
 とはいえ、しょせんは子供の言うことだ。いちいち腹を立てるのも馬鹿馬鹿しい。

「きみの言い分はよくわかったよ。とにかくおうちへ帰らないとね。おうちの電話番号はわかるかな?」
「でんわ……電伝虫のか」
「……わからないなら、ご家族の携帯番号でもいいけど」
「けいたい?」

 首を傾げる少年がたどたどしい口調で私の言葉をおうむ返しにする。なまじ容姿が整っているので非常に愛らしい。

「まさかとは思うけど、電話、知らない?」
「電伝虫なら知ってる」
「そうじゃなくて、こう、普通の」

 もどかしく思いながら形やら用途やらを伝えると、少年は眉根を寄せて首を捻った。

「おれが知ってるのとは違う」
「それじゃあ番号、知らないのかな」
「知らねェ」

 きっぱり言い切る少年に今度はこちらが眉間にしわを寄せる番だった。

「それじゃあ、おうちの場所は?この近くかな」
「だからゴア国の──」
「あー……きみの空想の世界ではなくてね。お父さんとお母さん、きっと心配してるよ。お姉さんがおうちまで送ってあげるから」
「……空想じゃない。それにおれは家には帰らねェぞ。あんなところはもうこりごりだ。一秒だっていてやるもんか」
「でもご家族が……」

「いやだ!!!」

 少年の叫び声が狭い室内に反響する。
 思わずじっと少年を見つめれば、彼の空色の双眸はいまや涙であわく滲んでいた。唇を噛み締め懸命にわななきを堪えるさまは痛々しく、胸が締めつけられる。
 これはただ事ではないのかもしれない。そういえば少年は怪我をしているようだった。破れたシャツの隙間から覗く肌に、青黒いあざが浮いている。

「……おうちで何かあったの?」
「……」
「帰りたくない?」
「……あぁ」
「そっかあ」

 少しだけ悩んで、私は少年の頭に触れた。黄味の強いブロンドヘアーは想像通りふわふわとやわらかい。指で髪をとかすようにそっと撫でれば、少年のまんまるい瞳が見上げてくる。

「いいよ。今日はお姉さんのおうちに泊まっていって」
「……いいのか?」
「うん。大したおもてなしも出来ないけどね」

 あ。空色からぽろりとしずくが零れた。
 零れた涙はふにゃりと笑った少年のまろい頬へ、顎先へと伝い流れていく。


「ありがとう。おれ、サボっていうんだ」





目の色はっきりしないので青にさせて下さい…



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