小説 | ナノ


▽ 09 逃走


ナルトの体を左手で引っ張り上げ助け起こす。自分の体で受け止めた瞬間に頭の芯まで響く痛みを感じて権兵衛は一瞬呼吸を忘れた。けれど精神力でそれをねじ伏せすぐに右手の平を返して手を繋いだ。痛みに散らされる思考を必死に手繰りよせる。狼に対抗できる戦力はない。自慢の耳が捉える狼の数は後方800mのあたりに少なくても八。個々に獲物を探していたのか放物線を描いて点々としている…。先程、絶命した狼の血と自分の血の匂い。彼らは素早くそれを察知して我々を追い詰めるだろう。自分ひとりでも難しいこの状況でナルトを連れて生き延びなければならない。
もう…。自分を守ってくれる親はいない。木の葉の人間にも頼ることはできない。けれど、ナルトだけなら――。
痛みで、恐怖で、焦燥で…、熱くなる目頭にギュッと力を込める。涙なんて流してなるものかと。暗闇の中ナルトに気付かれることなく権兵衛は覚悟を決めた。大きく呼吸を吸って唇を引き締める。その表情は微笑んでいた。
「ナルト――」
澄んだ声だった。夜の闇に一筋の光さえ見えそうなほど。左腕のその雪のように白い肌が紅に染まっているのを忘れてしまえるほど…。
「また二人で鬼ごっこしよう!」
つよがりでもいい。言ったもの勝ちだ。ニコッと笑う権兵衛の額にはうっすらと脂汗がにじむ。けれど夜がそれを隠し、ナルトは飛び抜けて明るい権兵衛の声に安堵して息を吐いた。
「まずはその前に…」
今ではナルトの耳にも聞こえるほどの無数の唸り声があたりに響く。権兵衛は逃げる時間を浪費してナルトを励ましたのではない。獲物を探して散り散りになった狼に囲まれないよう、狼たちが集結するのを待っていた。目の見えない暗闇に響く唸り声。ナルトは冷たい空気を吸って背筋がまたヒヤリと冷える。
「狼たちから逃げ切ろう」
闇を見据える権兵衛は不敵に笑っていた。逃げ切れる算段が既についている、とでも言うかのように。狼の声を聞いて固まった体がゆるゆると弛緩していく。権兵衛のその笑顔が声が、ナルトに安心感を与える。大きく呼吸を吸って、吐いて、ナルトがそうしたときを見計らっていたかのように。
「行くよ」
権兵衛は駆け出した。左手を引かれナルトも自然と走り出す。速かった、脱兎の如く。
鬱蒼と茂る木々は夜の帳をすっかりと降ろし、お世辞にも見通しが良いとは言えなかった。満月ゆえに木々の影さえなければ確かに明るい。ナルトも権兵衛も木の葉隠れの出身故に常人に比べれば夜目はきくほうだ。だからこそ月の光が差す森で二人は鬼ごっこができたのだから。けれど、狼から逃げるための道は違う。まさに一寸先は闇。足元どころか目の前すら見えない。権兵衛に引っ張られなければ、足を踏み出すのも億劫になる。だからこそこの速度には驚きを隠せない。
「っ…、権兵衛…っ!」
「喋らないで!舌かんじゃうからっ!」
「――っ!!」
でも、でもっ。
走って二人の息はあがっている。風を切って駆け抜けているので頬は冷たく感じるが、同時に上気している。心臓は跳ね体温が上がっていくのが分かる。けれどっ、なのにっ――。忍犬使いでない普通の鼻を持つ自分でもわかる。肌にまとわりつくような鉄の匂い。左手に感じる権兵衛の手がどんどん冷たくなっていく。目で見えなくとも蒼白した権兵衛の顔が頭に思い浮かんだ。当然だ。止血もせず全速力で走れば血流はどんどん速くなり、出血も多くなる。走れば走るほどに血液という名の熱を権兵衛から奪っていく。止まれと言いたかった。このままでは逃げ切る前に権兵衛の身が危ないと思った。死んだら元も子もない。なにより権兵衛を失いたくないと思った。
けれど。
「――――っ」
権兵衛の右手が、伝わる温度とは裏腹にギュッと力強く握り締めてくる。権兵衛の身が心配だ。でもそれ以上に――。自分を引っ張るこの右手を信じようと思った。また二人で鬼ごっこしようと言った権兵衛の言葉を。薄明かりにかろうじて見えたあの笑顔を。
ナルトはヒュッと息を吸って腹に力をこめると足に力を入れて加速する。目の見えない自分は何も出来ない。ならばせめて自分の手を引っ張る権兵衛が楽になるように。幼いながらも必死に考えたナルトならではの思いやりだった。権兵衛はそれに気付いたのか。
「ありがとう」
と小さな声で呟いた。



1kmほど走っただろうか、短距離走を思わせる速度を落とすことなく走り続けた。後方から狼の声も足音も聞こえない。
森の向こうにうっすらと光が見える。それを見てナルトは『あぁ、もうすぐ里に着くんだ』そう安堵した矢先だった。
「止まってっ!」
権兵衛が手を離し、腕でナルトの体を止める。
「まだ、いた――っ」
息も切れ切れで権兵衛が肩で呼吸しながら言う。前方に2頭。里に抜ける道を塞ぐように待ち受ける人でない者の呼吸音。権兵衛はそれが狼であると認識するのに時間はかからなかった。
(里まで抜ければ――っ)
権兵衛はナルトを里へ送り届け、自分は自分の住処に逃げる算段でいた。権兵衛の寝床にたどり着くには類まれなる聴力、視力、嗅覚を持っていない限り、だいたいは死ぬ――。例えそれが飢えた狼であろうと。満月以外の外出を禁じられた権兵衛を守るための牢屋。監獄。それは外からの侵入者に容赦なく牙を剥く。だからこそ、逃げ切れれば大丈夫だった。
(はずなのにっ――!)
このまま進めば狼の餌食になるのは目に見えている。ならば、このままナルトと共に罠がひしめく隠し通路を進むべきか。権兵衛は逡巡して戸惑った。好調時なら2km離れた狼2頭の存在など権兵衛は難なく索敵できる。それがこの距離になるまで気付けない。そんな状態の自分がナルトを連れてあの通路を進めるのか不安になった。
「権兵衛?」
後ろからかかる声は驚くほど優しかった。後方から押し寄せる狼の群れが怖いだろうに、先程の発言からまだ狼がいることが分かっているだろうに、ナルトは…、微笑っていた。
「大丈夫だってばよ!オレってば、権兵衛を信じてるからよ」
だから絶対に大丈夫!と言わんばかりに。
それを見て権兵衛は喉元が熱くなるのを感じた。違う違う、今することは泣くことなんかじゃない。自分を信じてくれるナルトを生き延びさせることを考えろ。
「ナルト――」
「おうっ!」
(絶対に…、死なせるもんか!)
権兵衛は自分に言い聞かせ、淀みない声で再びナルトに声をかける。
「手、離さないで。ちょっと怖いところに行くけど、私の引っ張る方に行けば危なくないから――っ」
狼が遠吠えで連絡を取り合う。そんなこと構うもんか。少年少女の顔には笑顔が浮かぶ。まるでわくわくして堪らないとでも言うように。絶対に逃げ切ってみせると言わんばかりに。
少年少女は手を取り合い、より深い森の方へと駆け出した。


さぁ、鬼ごっこはこれからだ――っ!



望月の兎

逃走





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