放課後の教室内に響き渡るざわめきは、授業中のそれよりも活気があって、休憩時間のそれよりは気だるさに満ちている。
そんな喧騒をBGMに、折原臨美は窓際の一番後ろの席で椅子に座ったまま携帯電話をカチカチと操作していた。長い黒髪が半分開け放された窓から流れる風に煽られ、まるでカーテンのように、俯き気味の彼女の顔をまだらに隠す。

───鬱陶しい。

細い髪を掻きあげながら、臨美は眉を顰める。
ここ数ヶ月美容院の世話になっていない髪は伸び放題で、いつの間にか腰に届くほどの長さだ。人生の中で今が一番髪が長いのではないだろうかと考えて、すぐにくだらないとそれ以上の思考を放棄する。
ただ、今が夏であることも相まって、この長い髪の存在がひどく疎ましかった。明日からは結ってくるかと考えながら、作成していたメールを打ち終え、送信する。
それと同時に机に置かれていた鞄がふっと姿を消し、臨美はゆるりと顔を上げる。けれどわざわざ確認しなくてもわかっていた。

「帰るぞ、」
「………」

───この邪魔で仕方ない髪以上に、鬱陶しいものがある。

ちょうど今から一年前、去年の夏からずっと彼女が思っていることだ。あの頃の自分の髪の長さはどれくらいだっただろう。もう覚えてなどいないし、これからも思い出すことはないのだと臨美はぼんやりと思う。
けれど目の前のこの男は、きっとまだそれを覚えているに違いない。そして彼はこれからも、忘れることなど出来やしないのだろう。

「……おい、臨美」
「わかってるよ、」

催促の言葉に、携帯電話を閉じ、椅子から立ち上がる。それでもまだ随分と高い位置にある顔を、臨美は半ば睨みつけるようにして見上げた。以前の彼ならば青筋を浮かせて睨み返してきただろうに、その瞳には怒りも苛立ちもない。
そこには、自分の鞄と臨美の鞄を抱え、殺気も怒気もない視線で彼女を見下ろす平和島静雄が立っていた。





来神学園において、平和島静雄と折原臨美は入学当初から校内に知らない者はいないというほどの有名人として扱われていた。
静雄は幼少期から人並み外れた怪力とそれから派生する喧嘩の強さを持ち、臨美は淡麗な容姿とそれとは裏腹な黒い噂が絶えない。それらに加え、そのふたりが毎日顔を合わせるたびにいささか度を越した喧嘩をしているとなれば、生徒たちの話題に彼らが上るのは至極当然のことだった。

しかし。
周囲がすっかりその光景に慣れてしまった、彼らが入学した年の夏休み明けに―――ふたりの喧嘩はぱったりとなりを潜めてしまったのだ。

この事実に騒然としたのは周囲の人間たちだった。
―――あの平和島静雄と折原臨美が喧嘩をしなくなった。
それどころか、ふたりは以前にも増して共に居る姿──もちろん喧嘩などという物騒な行為はなしで──が見かけられるようになり、それと同時に校内で広まったふたつの噂が生徒たちの口に盛んに上るようになった。

ひとつは、平和島静雄と折原臨美が恋人という関係になったという噂。
そしてもうひとつは、平和島静雄が折原臨美の舎弟になったという噂。

それらの噂の最大の根拠は、静雄の臨美に対する態度の豹変ぶり、ひいてはその献身ぶりにあった。
まず、授業が終われば、彼は毎日放課後に臨美のクラスまで彼女を迎えにくる。そして方向が逆であるにも関わらず家まで彼女を送り届け、翌朝の登校時にはまたわざわざ彼女を迎えにくる。
更には臨美が不良に絡まれたりナンパを受けたりしていれば、どこから嗅ぎ付けてくるのか、その場に駆け付けては相手を蹴散らす。仮にもかつては静雄とそれなりに渡り合っていた臨美がその辺の不良連中に引けを取ることは考え難いことであるにも関わらず。おかげでこの一年間、臨美自身がナイフを振り回す場面は極端に減っていた。こうして言葉にするならば、静雄の行動はどう考えても恋人に尽くす健気な彼氏の姿そのものだ。
しかし周囲が首を傾げたのは、ふたりの間に、まったく恋人らしい甘い雰囲気が感じられないことだった。
ついこの間まで互いにナイフやら道路標識やらを振り回していた犬猿のふたりが急にそんな雰囲気になることを考えればそれはそれで末恐ろしい事態なのだが、それにしても彼らの言動はあまりにちぐはぐだった。
以前は会話として成立しているのかどうかすら怪しかったものの、互いに校舎中に響き渡るような大声で悪態を吐きあっていたにも関わらず、いまではそれすらなくなってしまい、ならば普通に会話しているのかと言えば、どうやらそうでもない。必要最低限の会話しか交わさない恋人たちが一体どこにいるというのか。むしろ以前にも増して殺伐とした雰囲気が漂っているようにも感じられるのは、決して周囲の勘違いではないはずだ。
ならば、静雄が臨美の舎弟になったという後者の噂が正しいのかと言うと、それにもまた矛盾点が見当たってしまう。
自分の思い通りにならない静雄に対し嫌悪感を覚えていた臨美にとって、今の献身的な静雄を自身の駒にすることはひどく容易く、本来ならば彼女は嬉々としてこの状況を受け入れ、思うがままに利用しているはずだ。
しかし、彼女は静雄の行為を能動的に受け入れるばかりで、自分から静雄になにかをさせようとは一切しなかった。それどころか、自分にとってある程度都合よく動いてくれる静雄を、どこか疎ましくあしらっているような素振りさえあった。
感情的な激しい怒りを表していた静雄からは臨美に対する敵意は消え、身の内の嫌悪感を隠し飄々と静雄を嘲笑うように立ち回っていた臨美は、彼に対する嫌悪感を隠しもせずに、それでも静雄の行為を受け入れる。
人を食ったような歪な笑みすら浮かべずに忌々しげに静雄を睨みつける臨美の表情は、とてもではないが体の良い駒を手に入れた勝利者のそれではなかった。

平和島静雄と、折原臨美。
かつて犬猿の仲とされていたこのふたりの関係は、いまの来神学園において、ひどく曖昧な、形も名称も断定し難いものと化していた。