取り立てて会話もなく、無言のまま、ふたりは臨美の家に到着した。

「……鞄、」
「ありがと。……それじゃ」

鞄を差し出す静雄に素っ気なく礼を言って、臨美は視線を合わせないまま玄関へと向かう。
いつも家の中に入るまで自分の背をじっと見送るその視線にはすっかり慣れてしまっていた。毎日、ドアを閉め切るまでその視線は彼女の背を離れない。
それがまたたまらなく嫌で、さっさと閉めてしまおうとドアノブに手をかけた瞬間、後ろから静雄の声がした。

「また、明日の朝来るからな」
「……来なくていいよ」

素っ気なく味気ない、これもいつもの会話だった。
けれど何度言っても静雄は毎朝迎えに来るし、臨美もその言葉が今更聞き入れてもらえやしないとわかっていて、そう口にする。およそ意味のない会話だった。
一年という月日は、彼女に諦めを感じさせるには十分過ぎるものだった。

「それじゃあ、ばいばい」

そう話を切り上げて、最後まで静雄を振り返らないまま、臨美はドアを閉じる。
そのまま自分の部屋へと直行し、鞄を床に投げ捨て、制服が皺になるのも構わずにベッドへ仰向けに倒れる。それと同時にポケットに入っていた携帯電話がメールの着信音を響かせた。
のろりとした動きでそれを取り出し、画面を開く。
そこには先ほど学校を出る前に送ったメールへの返信が届いていた。

『二十時に×××ホテル3012号室。金額はいつも通り。』

「………」

簡素な内容のそれを頭の中で反芻し、記憶してからそのメールを削除する。
時刻を確認すれば、いまはまだ夕方の四時十一分だった。夜の八時まで十分に時間はある。
二時間程度寝てから出かけるかと考え、ベッドで上体だけを起こし、制服に手をかける。スカーフを抜き取り、セーラー服を脱いだところで臨美は視界に入った“それ”にぴたりと動きを止めた。

「……ばかなシズちゃん、」

そう先ほど別れた人物の名をぽつりと呟いて、右腕を撫でる。
そこには肘の窪み辺りから手首にかけてまで赤黒く変色した傷痕が走っていた。
もう完全に傷は塞がっているとは言え、元々色の白い臨美の腕に刻まれた生々しいそれは、あまりにも痛々しい。臨美はそれを消そうとするように何度も擦る。しかし当たり前のように深く濃い傷痕はそこから消えない。
臨美は、そっと、その傷痕にうなだれるようにして額を押し当てた。凝固する途中の血のような色をしたそこは冷たく、彼女の薄い肉の体温しか宿っていない。過ぎ去った過去の素っ気ない顔で、そのくせいまなおそこに色濃く根付いている。
臨美は力なく笑った。

「………ほんと、ばかなんだからさ、……」

制服を脱ぎ捨てて下着だけになった姿で、その体勢のまま、彼女はしばらく座り込んでいた。
もうなにも考えまいとしても、自然と頭の中に浮かび上がるのは、目を見開いて呆然と自分を見つめる“彼”の表情だった。





 *

 *

 *





「臨美ィィィ! 待ちやがれこのノミ蟲女がっ! 今日という今日は息の根止めてやる!」

大爆発でも起こったような破壊音に負けない怒号を響かせながら、静雄が鬼のような形相で追いかけてくる。それを時々振り返りながら軽い足取りで敷地内の中庭を駆ける臨美は、今日は一段としつこい静雄の追跡に内心で舌打ちをしながら、彼を撒くためのルートを頭の中で考案していた。
一度校外に出た方が得策だろうと思い立つや否や、臨美は方向転換をした───ところで、風に煽られた長い髪が翻り、ちょうど彼女のすぐそばに立っていた木の枝に絡まってしまった。

「………げ、」

臨美は顔を引きつらせながらもすぐに枝と髪がほつれた箇所に手を掛けるが、細い性質の髪は複雑に絡みついていて、なかなかほどけない。
以前から疎ましく思いながらもそのまま放置していたのが、まさかこんな場面で凶と出るとは。
そうこうしている間にも静雄の声はみるみる近くなり、臨美は背筋に冷や汗が伝うのを感じた。
何故か今日は随分と機嫌が良くなかった静雄が、身動きの取れない、格好の餌食とでも言うべきいまの自分に追いついたらどうするか。考えるまでもない数秒後の自身の末路に、先ほどまで涼しい表情で軽やかに走り回っていた彼女の顔がいよいよ青ざめる。

───このままでは殺される。

後処理が面倒だが仕方あるまい、と臨美はこの窮地を脱するべく、とっさに自身の髪に持っていたナイフを押し当てる。ああ、帰りは美容院に直行しなければならなくなってしまった……と、予定を大幅に狂わされたことに対して苛立ちつつ、ぐっと腕に力を込めた。その瞬間、

「おい臨美、テメエ……っ!」
「─────っ?!」

背後から突き刺さんばかりの勢いで伸びてきた腕に、ナイフを持っていた手を掴まれ、臨美は息を詰める。更に、突然のことに怯んだその一瞬の隙にナイフを取り上げられてしまい、臨美は顔を歪めた。とんだ失態続きに、最早焦りすら起こらない。
自身の手首をきつく掴むこの手が誰のものであるかなど考えるまでもなかった。
───どうせ殴られるならば、嫌味を言ってから殴られた方がマシだ。
そう投げやりに考えて後ろに立つ男を振り返り、皮肉のひとつでも投げかけてやろうとしたところで、しかし、男の表情に臨美は口を噤んだ。

「……テメエ、なにしようとしてた、いま」

地を這うような低い声でそう問い掛ける静雄の表情が、あまりに真剣なものだったから。
喧嘩の中ですら見たこともないような強い色の瞳に射抜かれて、臨美はらしくもなく動揺してしまった。

「なに、って……そっちこそ何なの、シズちゃんのくせにそんな似合わない真面目な顔なんてしちゃってさあ、」
「いいから答えろよ」
「………、」

茶化そうとして、しかしその見慣れない真剣な、それでいて怒りのようなものを押し殺した静雄の表情に臨美は言葉に詰まる。いつもの激しく直情的な怒りではなく、どこか静かで底冷えするような怒りは、彼女に無性に居心地の悪さを感じさせてやまない。
───こんな静雄は知らない。
これは誰だ、と思う。
意味のわからない焦燥と苛立ちに、臨美は溜め息混じりに渋々と呟いた。

「………髪、切ろうとしてたんだよ」
「なんで」
「、見てわかるでしょ。絡まったの」
「あ? ……ああ、」

枝に絡まった髪を見て、静雄は納得したように頷く。なぜそんなことを逐一問い詰めてくるのか、臨美には理解不能だ。いつもならばここで問答無用に拳が飛んでくる場面だというのに、こうして些細なものであるにしても、まともに会話を交わしていることに内心驚きを隠せない。

「―――だからって、女がそんな雑に髪を扱うんじゃねえよ。もったいないだろ」

そして、あの平和島静雄の口から、そんな言葉が飛び出したことにも。

「………」
「んだよ、そのツラは」
「いや………」

なんだはこっちの台詞だ。

臨美は混乱していた。もちろん、いつもと明らかに違う静雄に。静雄が女性に対してそんな言葉を口にできることにも、静雄が自分を“女”とはっきり認識していたことにも驚いた。
そして、それに嫌悪感とは違うなにかで胸を掻き乱されている自分自身にも。
これは一体なんだと、自問してみても答えは帰ってこない。

「おら、じっとしてろよ」
「わっ、」

そう言ってあっさりと取り上げたナイフを臨美の手に返して、静雄は彼女の髪に手を伸ばし、ぎこちない手付きでもつれたそこを解きはじめた。もうこれ以上驚くことはないと思っていた臨美の思考が、今度こそ完全に停止する。
こんなにも近い距離で真正面から向かい合って、互いの拳もナイフも飛び出さないなんて、一体どんな天変地異の前触れだと言うのか。二人を知る者がいたならばそう恐れおののくような光景だが、生憎、静雄が暴れまわっていたことによって周囲にはまったく人影が見当たらない。
元々あまり手先が器用な方ではないのだろうが、思うようにいかないらしい静雄は、難しい顔でうなりながら大きな手を四苦八苦させている。

───刺されるとは、思わないのだろうか。

臨美は大きなワインレッドの瞳を瞬かせた。
すんなりと自分にナイフを返して、挙げ句こんなにも無防備に構えたりなどして。そのがら空きの胸に、ナイフが突き立てられるとは、思わないのだろうか。
そう問いかけてやろうとするのだが、さもそんなことは意識にありませんといった様子で一生懸命に髪を解こうとしている静雄に、そんな疑問を口にすることすら馬鹿らしくなってしまった。

「……シズちゃんってさあ、」
「なんだよ。いま集中してんだから話しかけんじゃ、」
「ばかだよねえ」

───ああ、まったくもって、ばからしい。
ばかだよねえ。もう一度繰り返せば、静雄は突然の罵倒にひくりと唇を引きつらせた。

「ああ?! んだとコラッ!」
「……ははっ」

臨美は思わず笑ってしまった。
こめかみに青筋を浮かせて、鋭くこちらを睨みつけているくせに、彼女の髪に触れるその指先はいまだぎこちなく、おぼつかない。てっきり感情にまかせて引きちぎられると思っていたのに、まるで表情と手付きがちぐはぐな静雄がおかしくて、臨美は素直に笑った。自分でも驚くほど素直に、率直な感情のままに。
臨美は笑う。

「本当に、シズちゃんはいつだってこっちの思惑も予想も飛び越えてくれるね。……で、なんでそんな顔赤いの? そういうところも、ほんと理解不能過ぎておもしろいよ」

なぜか顔を真っ赤にして口をぱくぱくさせている静雄がまたおかしくて、また臨美は笑った。いつもの自分たちでは有り得ない光景だ。だが、悪くはないと思う。たまになら、こんなことがあってもいい。彼とこんな時間を過ごす、そんなこともたまにならあってもいい。
静雄の手はいまだ自分の髪に触れたままで、なぜか顔を赤くして動揺している彼にナイフを突き刺すことはひどく容易いことであったのだが、手にしていたナイフはいつの間にかポケットに収まっていて、臨美は、いまはその理由を自身に問いかけることをしなかった。





 *

 *

 *





目が覚めた。

いつの間にか眠っていたようで、肌寒さに臨美は細い肩を震わした。タンスから適当な服を取り出して、着替える。時刻は夜の六時過ぎだった。
これから向かう場所のこと。そこで行われること。それらを知った時に彼はどう思うのだろうかと、ふと考える。
以前の静雄の反応ならば、簡単に想像できたと思う。けれど、いまの静雄はわからない。いまの、まるで知らない人間のような静雄の考えることは、一切臨美にはわからない。
ただ、叶うならばここ一年目にしていない嫌悪感をその瞳に表してくれればいいと思う。あのぎらつくような真っ直ぐな敵意が欲しい。それが本来の彼であった筈だ。それが、本来の自分たちであった筈だ。
そうすれば、自分たちは、あの頃の正しいふたりに戻れる。

───きみもそう思うだろう?

臨美は、声には出さず、ここにいない彼に問いかける。



ねえ。
夢を視たんだよ、シズちゃん。
君とわたしがまだ喧嘩をしていた頃の、けれど、君が拳ではなく指先でそっとわたしの髪に触れた、あの時の夢だ。いまはもうおぼろげな、あの日々の夢だ。

君はもう忘れてしまっただろうか。

わたしは覚えている。



わたしは覚えているよ、シズちゃん。