11



 窓の外は白く霞んでいた。わずかな線を引いて雨粒が影になるのを見て、その煙りが雨によるものなのだと気づいた。
 彩度を失った世界に、やたら青々と存在を主張する植物。ベランダの柵に絡まった蔓のようなそれである。否応にも視線はそこに向いてしまう。
 ところどころにつけた、あざとく媚びるような小さな桃色の花が、僕は嫌いだった。雨降り花。彼女はそう呼んだか。如何にも彼女らしい、馬鹿な名前だ。摘むと雨が降るなんて言ってたか。彼女の気分次第で天気が変えられては、たまったものではない。そもそも気象がどうのとか言い出したら、彼女はまた怒るのだろうけど。名前もその理由も、なにもかも忌々しいなと吐き捨てた。
 嫌いというのなら、こんな草、刈り取ってしまえばいいのだが、僕も彼女もそこまで気が回らないでいた。それに今の鬱屈した僕は、草如きに気を乱されているなんて恥ずかしくてたまらない。もう誰の目もないとはいえ、くだらない意地が僕を捕まえているようだ。ほんとうならば今にも動き出したい体を押さえつけ、す ぐに枯れるだろう、そう無理矢理結論付けた。
 視線を背けようと泳がせると、もう誰も使わないだろう、安っぽい灰皿が目に留まった。僕がぼんやりしていると、いつも彼女はつまらないといった顔で煙草を取り出した。僕はテーブルの上の灰皿を除ける。彼女はそのまま、ベランダに向かう。一連の動作はもはや恒例となっていた。僕は煙草が嫌いなのだ。彼女も知っているはずなのに、灰皿を持ちこんでまで僕の部屋で吸いたがった。
 彼女の影が焼きついたベランダ。変哲のない、狭いベランダ。もっと広くて綺麗ならいいのに。これも彼女の口癖と化していた。男独り暮らしのアパートに何を求めているんだか。これだから女は嫌いだ。ああ、今日はいやに嫌いが重なる日だ。思考を振り払うように頭を揺らした。
 雨は嫌いではない。けれど、憂鬱を加速させるには十分の要素ではあった。嫌いな物たちが僕を囲む。言いようのない怒りの矛先は、やがて、僕自身に向かうとわかっていても、僕はこの憂鬱を止めることはできない。草に、煙草に、罪はないのだ。僕の感性が根底から腐りきっているのが悪いのだ。彼女が可愛いと評した花を可愛いと認められず、彼女が語った煙草の味わいを僕は受け付けなかった。結果として僕は振られたのだけれど、それはすべて、僕が彼女を受け入れなかったのが原因で、すべては僕が引き起こした結果でしかない。
 ふと頬に熱いものが伝った。窓に落ちた雨粒のように、僅かにぬくもりを遺して落ちていく。堰を切ったように、降りやまない雨のようにとめどなく溢れた。喉の奥から出るはずの音は、生まれる前に掻き消えていく。苦しそうな自分の呼吸の音と雨音だけが、恐ろしいほど客観的に鼓膜に響く。
 わからないと逃げていた自分の心のうちが、こんなにも汚くて、醜くて、みすぼらしいもので、それを抱えている僕もまた、酷いザマなんだろうなと、つながる。輪を描き、廻り出す。止まらない。精神の自殺とでも表現しようか。自己嫌悪のループは、止まらない。
 どうせならこのまま、呼吸が止まってしまえばいい。死に踏み切るのは、逆に、というのもおかしな話だが、ひどく前向きだった。強張った全身から力が抜け、柔らかくめぐる血が冷え切った指先に暖かさを運ぶ。
 それからは、不思議と楽な気持だった。買ってから履く機会をことごとく逃していたハイカットのスニーカーに足を突っ込んで、死に場所を探しにと、街へ繰り出した。
 傘に当たる雨音は、僕を密室にする。余計な干渉を一切断ち切る、狭い狭い密室。視界という窓で捉えた見慣れた景色は雨に濡れても見慣れた景色のままであった。
 人気のない二階建てのパーキング。鉄板の階段は、踏みしめると不思議と懐かしい音がした。
 瓶コーラの自販機。僕はコーラの瓶の薄緑が好きだった。
 錆びた鉄骨の自転車置き場。置き去りになった、これまた錆びだらけの自転車。かつての持ち主は、きっと僕みたいなやつに違いない。
 一瞬視界を真っ白に染めた道往く車のヘッドライトで、僕は時間の感覚を取り戻した。それまで手放していた感覚、生きるためのデバイスが、一度に戻ってくる。濡れた足元は冷え切って、歩き通した痛みもわからなくなっている。喉が渇いたし腹も減った。車のぶんぶんとうるさいノイズが脳の中までかき乱す。僕の密室は一瞬にして崩れ去ったが、ただ、それだけだった。
 死ぬのはまた今度にしよう。生きる理由もないけれど、なんだかもう、めんどくさいから。
 それで、十分だった。
 濡れた体を引きずって帰ってきたのは、もう真っ暗になってからだった。部屋の電気を点けると、暗闇の中であの緑色がぼんやりと光る。花はもう萎んでいるようだった。摘むと雨の降る花。それならいっそ、雨ばかりにしてやろうか。今度は除草剤を買ってきてやるぞと、くだらない予定ができた。僕は少し勝気になって、勢いよくカーテンを引く。
 肌が赤くなるほど熱いシャワーを浴び、すいた腹に飯を突っ込む。未だに心はふわふわしたままだが、まあ、いずれ落ち着くだろう。
 ざわり、胸騒ぎ。
 雨がひどくなるそのタイミングで、携帯が鳴り始めた。替えるタイミングを逃して、未だ折り畳みの携帯。ピンク色に下品に光るLED。一人だけ特別に設定した着信音。聞きなれたメロディ。鼓動が早まる。
 この件については、もう、結論は出ていた。振り返ってみれば、もう、随分と早い段階から。
 僕は決めたんだ。
 そう言い聞かせて、通話ボタンを押した。


11/4 夕陽真黒

 | →
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -