「ここは背理法を使えばいいんです。tan1°が有理数だったらどんな矛盾が生じますか?」
「え…と、tan60°が無理数……あ、そっか帰納法で有理数になることを言ってからそれを示せばいいのか…有理数同士の加減乗除は有理数になるんだよね?」
「はい……そうです、正解です」

 二人は証明の話をしているが、今は現文の授業中だ。
 松田の声をBGMに、ナナたちは一番後ろの席でひそひそとテスト勉強に励んでいた。教科書を見せるという名目で付け合った机の真ん中には、ナナの教科書が開いて置いてある。だが二人とも縦書きの文字には見向きもせず、数字の列を眺めていた。
 もし今が他の授業と同じ自習の時間だったら、代わりに今解いている問題を置いて気兼ねなく竜崎から教わることができる。でも松田の場合は違った。テスト一週間前にも関わらず、まだ範囲まで終わってなかったのだ。だから机の下、ナナの膝の上で、こっそり問題集を開くしかない。また授業中なため、 時々声が被り聞こえないことがある。

「――は、」
「ん?」

 今もそうだった。

「――です」
「…ごめん、もう一回」

 耳元に手を当てて近づけば、竜崎が耳を借りてひそひそ声で喋ってくる。直に話されると思ってなかったナナは、囁く吐息の擽ったさに思わず肩をすくめた。

「ふっ、くすぐった…!」

 クスクスと笑いが込み上げてきてしまう。
 すぐに口を抑えたが、さすがに松田も笑い声に気付いたようで、壇上から注意が飛んできた。

「おーい、授業中は静かにな」
「はい、すいません」
「お、佐藤か。じゃあ何か答えてもらおうかなー…」

 教科書をぱらぱらと捲り、楽しそうに問題を選んでいる松田に、マズイとナナは身構えた。教師っぽいことが好きな彼は、何かと生徒に問題を指したがる。それを忘れていた。授業を一切聞いてなかったので、指されてもきっと答えられないだろう。
 形だけ置いてあった教科書を手に取り、とりあえず速読を始めると、隣で思いがけず手が上がった。

「すみません先生ー、私のせいです」

 松田は顔を上げて声の主を確認し、ぎょっとする。

「えっ、りゅ、竜崎…!」

 彼がこの生徒に過剰反応を示したのには理由がある。竜崎が特別な生徒だと知らされた松田は当初、交流を図ろうと指名していたものの、全て完璧に、ともすれば逆に言い負かされてしまうことが多く、かなりの苦手意識を持ったのだった。
 問題を指す相手がナナから竜崎へと変わり、困った松田は作り笑いを浮かべながら頭を掻く。また論破されては堪らない。コネで採用されたものの、彼にもそれなりに教師としてのプライドがあった。…予定通りに授業を進められないけれど。

「はは…そうか、竜崎が悪いのか…」

 一人頷いた後、誤魔化すように咳をして、何もなかったかのように授業を再開させる。
 いつもより早口な松田の声を聞きながら、腰を下ろしたナナは、自分をかばってくれた(ノルマを終わらせるべく、無駄な時間を省きたかっただけかもしれない)隣人に微笑んだ。

「ありがとう」
「いえ、それよりわかりましたか? ――」
「…え?」
「……ナナさん」
「……はは、ごめんなさい冗談です…」


2012/09/28
ナナが解いてた証明は東大二次の試験問題
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