放課後の静けさ漂う廊下を、ナナは英語の教科書を片手に、緊張した面持ちで歩いていた。行き先は、先ほど職員室で教えてもらった空き教室。弥が強引に連れていったと聞き、すぐに教室へ戻りたかったが、それは粧裕が許さない。大体、これは彼女が命じたことなのだ。

「粧裕ってたまに逆らえない時があるよね…」

 ナナは隙あらば引き返そうとする足を、強引に前へ動かした。

 今は中間テスト一週間前。ちょうど竜崎がこの学校に来てから三週間経つ。
 前の騒動で伝説を作ってしまった彼は、また一段と目立つ存在になり、一目見ようと、他のクラスや違う学年の生徒達が外の廊下へ押し寄せた。この見世物状態を竜崎は嫌がっていたが、基本的に学校にいる時間が短いので、何の問題もないようだ。

 目的の教室まで来ると、閉じられた戸の向こうから、海砂の甘い声と月の英文を読む声が聞こえてきた。すぐにでも引き返したかったが、勇気を持って戸を開ける。必要以上に近づく海砂と、真面目に教えようと教科書を見つめる月の姿が目に飛び込み、二人とバッチリ視線が合った。

 (か、帰りたい…!)

 早くも後悔し始めたナナを余所に、海砂が元気に手を振ってくる。

「ヤッホーナナっ、どうしたの? 月先生なら今ミサとイチャイチャするので忙しいんだけどー…イタッ」
「コラ、ただ英語教えてるだけだろ。佐藤、何か聞きたいことでもあるのか?」

 優しく微笑む月に、ナナの頬が緩む。緩まない方が難しい。しかし、すぐに横からビシビシ刺さってきた敵意に、頬の筋肉が強張る。一瞬湧いた、月に教わりたいという気持ちは穴の開いた風船のように一気に萎み、ナナは手を前で動かした。

「…い、いえ些細なことなので、今じゃなくても大丈夫です」
「そうか? …じゃあ、テスト勉強頑張れよ」
「はい、ありがとうございます」
「じゃあね、ナナ」
「うん、バイバイ」

 ぎこちなく手を振りながら静かに戸を閉め、ため息をつく。
 ナナと同じテニス部に入っている海砂は、月に好意を寄せている。それは恋などという可愛いものではなく、少し一途すぎるのではと思うほどの愛だ。邪魔をすれば、人格が違うんじゃないかと思う程攻撃的になる。普段はとてもいい子なのに。今でさえこうなのだ。海砂にこの気持ちを知られたら、いったいどうなることか。
 意気消沈したナナは、とぼとぼ粧裕の待つ教室へ向かった。





「じゃあ、作戦変更ね」
「……はい?」

 先の顛末を話した後に言われた言葉がこれだ。首を傾げたくもなる。

「いやあの、聞いてた? 海砂がいる限り無理だから、もう見てるだけでいいって言ったんだけど」
「ダメ、どうせだったらやるだけやって散った方がいいでしょ?」
「まあそうだけどさあ……具体的に何するの?」
「中間テストで10位以内に入って、一目置かれる存在になる」
「なっ!? 無理でしょそんな」
「大丈夫、ナナならできる! それにナナには竜崎君という心強い味方がいる!」

 ナナと竜崎は、クラスメイトたちに(少なくとも粧裕には)仲が良いと思われているらしかった。

「……教えてもらえと?」

 コクコクと粧裕が頷いた。

「それに、ナナは国立行きたいんでしょ? 今から勉強して損はないと思うけど」

 確かにそうだ。

「一応頼んでみるかな…」
「うん、頑張って!」

 ファイトーと拳を挙げる粧裕は、どうみても楽しんでいる。月の妹として応援してくれるのは嬉しいけれど、なんだか複雑だ。





 次の日の朝、登校してきたナナは自分の席に座り、持ってきたチラシをじっと見つめていた。隣はまだ来てないようだ。

 (これに乗ってくれればいいけど)

 チラシには美味しそうなケーキの写真が、いくつも並んでいる。いくら甘党と言っても、忙しそうな彼のこと。そう簡単には乗ってくれないだろう。

「おはようございます」

 考えていて足音に気づかなかったナナは、隣から声を掛けられ、ビクリと肩が跳ねた。さっとチラシを隠し、こちらを不思議そうに見ている彼に挨拶を返す。

「うん、おはよ」
「…今、何を隠したんですか?」

 後ろにあるチラシを指され、ナナは言葉を濁した。

「ああ、あのね、竜崎にひとつ頼みたいことがあって…」
「何です?」
「その、今日から六日間、勉強を教えてくれたらなーと思って…」
「……中間テストですか?」

 頷くと、竜崎は案の定面倒そうな顔をする。ナナはすかさずチラシを出して見せた。

「教えてくれたら、この『西風庵』のケーキバイキング、おごるから」

 チラシに写る色彩豊かなケーキたちに、竜崎の目の色が変わる。

「ここ、昨日テレビで取材してたところじゃないですか…」
「(そうなの?)…そうだよ、期間限定だから今月中しか食べられないよ? それに、この限定アイスの券もつけるよ!」

 竜崎の甘味アンテナに感心しながらそう言うと、最後の言葉が決め手となったのか、彼は携帯をポケットから取り出しどこかに掛け始めた。ワンコールしない内に、相手の声が聞こえてくる。

『はい』
「今日から六日間休みにして下さい、Tは終わったので」
『……了解です、し』

 ブツッ

 (え、切っちゃった…?)

 相手は了解したけれど、何か言いたげな様子だった。用件を述べて電話を切った竜崎をぽかんと見つめる。彼は何事もなかったかのように携帯をしまった。

「何位狙いですか?」
「十位以内に……」
「三位以内にしましょう。新神高校のテストと言っても、所詮は高校の範囲を出ないので簡単です。それにそのくらいじゃないと、月先生は見向きもしないと思います」
「…は、い?」

 今何と。
 ナナが固まったのを、竜崎は順位を高くしたためだと勘違いしたのか、つらつら述べる。

「大丈夫です、ナナさんならいけます。指されてもちゃんと答えてますし、基礎力はあります。何とかなるでしょう」
「いや、え、ちょっと待って…さっきなんて言った?」
「三位以内に…」
「そのもうちょっと後!」
「…ああ、月先生ですか?」

 何度も頷くナナに、竜崎はニヤリと笑った。

「一ヶ月も隣にいればわかりますよ。ナナさん、わかりやすすぎです」

 そんなに分かりやすいだろうか。ナナは思わず頭を抱えた。





 竜崎先生の補習は甘くはなかった。
 どの科目にしても、制限時間内に多くの問題を解かされ、中には明らかに範囲外のものが多数あった。ナナは抗議したが、いつか習うことだしやっていて損はないと言われたら、黙るしかない。
 恐らく範囲分だけを教えるのはつまらなかったのだろう。人に勉強を教えるのはこれが初めてのようで、最初はナナのわかる次元まで噛み砕くのに少し時間がかかったが、つまづいた所はちゃんと説明してくれた。原理も一から説明してくれ、何事もただ暗記していたナナにとって、とても有意義な授業だった。

 そしてテスト前日の放課後。
 誰もいなくなり、静まり返った教室で問題を解いていたナナは、ようやくシャーペンを置いた。

「できたよ…」

 隣にいた竜崎が、プリントを両手で摘んでさっと目を通す。そして薄く笑った。

「ナナさん…」
「どこ間違ってた?」
「すばらしいです、全問正解です」
「えっ、嘘、やったー!」

 嬉しさを表すために両手を挙げるが、ヘロヘロと机に倒れていく。六日間頭に高校三年分の知識を詰め込んだのだから、疲れていて当然だ。

「疲れた…って外暗くなってる」
「送りましょうか?」
「いいの…?」

 断る気力もなかったナナは、携帯を取り出す竜崎を見上げる。

「はい、今日で最後ですし」
「そっか、今日で終わりだね…ありがとう」

 感謝の気持ちを込めて微笑むと、彼は電話を掛けながら首を振った。

「嬉しいですが、礼を言うのは結果を出してからです」
「……はい」

 厳しい先生だ。
 二言三言話した後、電話を切った竜崎は言う。

「迎えが五分後に来るそうです。下で待ってましょう」

 帰り支度したナナは、竜崎とともに昇降口へ向かった。テスト期間中は部活がないため、校内はしんと静まり返っている。

「…何か怖いね、夜の学校って」
「そうですね、お化けが出そうです」
「……全然そんなこと思ってないでしょ」
「…バレましたか」
「竜崎って、そういうの全然信じてなさそうだから…そういえば、迎えって誰がくるの?」
「…ワタリという、私の保護者の様な人です」

 みたいな人、という婉曲的な言葉に、ナナは疑問に抱いたが、複雑な事情がありそうなので何も聞かないことにした。

「へえ…えっ、もしかしてあのリムジンがそう?」
「はい」

 昇降口を出て、門の外に止まっている高級車に驚いて尋ねると、竜崎は何でもないように頷く。高級車で通学しているという噂は本当だったのか。初めてリムジンを近くで目の当たりにし、茫然としているナナに、竜崎が車の前に立っている老紳士を紹介した。

「ワタリです」
「初めまして、佐藤さん。竜崎からお話は聞いております」

 外国の、それも執事のような人から丁寧に挨拶され、慣れないナナはますます動揺する。

「こ、こちらこそ初めまして。竜崎くんにはとてもお世話になってます…」
「ふっ、いえいえこちらこそ…どうぞ、お乗りください」

 ドアを開けられ、生まれてこの方このような扱いを受けたことのないナナは、戸惑って後ろを振り返る。竜崎はどうぞ、と先を促してきた。
 スカートを押さえ、恐る恐る身をかがめる。

「お、お邪魔します…」

 さすがは高級車。シートの座り心地は抜群で、竜崎がいつもの座り方をしても天井との間に余裕があるくらい、中は広々としていた。
 車が発進しても、そわそわと落ち着かないナナを見兼ねて、竜崎が隣から声をかける。

「ナナさん、落ち着いてください」
「そう言われても…それどこから出してきたの?」
「ワタリからもらいました。ナナさんも食べますか?」

 と、口をつけてないソフトクリームを差し出してきた竜崎に、ナナは苦笑しながら首を振った。

「…いや、いいよ。ありがと」

 そういえば、ワタリに行先を告げていない。ナナは前にかがんで運転主に声をかけた。

「あの、××駅で降ろしてください…」
「いえ、佐藤さんのお家までお送りしますよ。失礼ですが、ご住所はどちらでしょう?」
「えと、××市×××2ー5ー3です…」
「わかりました」

 ここから遠いというのに、ワタリはすぐに了解してくれた。申し訳ないなと思って謝れば、いえいえと笑って首を振られる。とても優しい方だ。

 (……それにしても)

 ナナは竜崎の横顔を見つめる。転校してきた時から薄々只者ではないと感じていたけれど、まさか運転手まで付く御子息様だったなんて。自分とは程遠い世界だと思っていたものがこんなに近くにあったとは知らず、リムジンに乗せられている今もまだ、現実とは思えない。
 どうにも信じられない気持ちでぼんやり眺めていると、視線に気づいたのか、竜崎がこちらを向いてソフトクリームを持ち上げた。

「やっぱり欲しいんでしょう?」

 助手席からアイスボックスを取らせようとする彼に、ナナは焦って首を振る。竜崎は腑に落ちない顔をしたが、再びアイスを食べ始めた。その様子を見て、ナナはひそかに微笑む。何となくだが、今の彼はいつも以上に子供っぽく見えた。





 一人を降ろし、乗客が二人となった車は夜の住宅街へ溶けていく。
 ワタリはこちらに手を振る少女をミラー越しに見て微笑み、それから後ろの窓へ顔を向ける少年に、さらに頬を緩めた。
 思ったより早く、効果が表れてきている。

 Lを日本の高校へ入れたのはワタリだった。
 彼とともにワイミーズハウスを出て三年。多くの難事件を解決していく彼に改めて驚き感心すると同時に、まだ10代の彼を閉じ込めておいてよいのかという考えが頭を過り始めた。Lがこの仕事を楽しく感じているのはわかる。捜査員たちとモニター越しのコミュニケーションもとれているし、何も不満もないのだが、 時折同い年の子供と触れ合ってほしいと、外へ連れ出す度思ってしまう。
 ワイミーズ時代、我が強く協調性のないLに、一人部屋を与えたのが間違いだったとはまったく思わない。しかし、同年代の子供達との交流をほぼ遮断してしまったのは事実。それが部屋を与えた理由の一つでもあるのだが、同時に心残りでもあった。
 日本の学校に白羽の矢を立てたのは、最も安全な国の一つであることと、嫌でもクラスメイトたちと生活しなければならない環境からだ。嫌がる彼を説き伏せるのは非常に骨が折れたが、今の様子を見るかぎり、その甲斐があったようだ。

「…とても礼儀正しい、可愛らしいお嬢さんでしたね」
「…………」

 彼女の姿が見えなくなり、体を戻したLにそう声を掛ければ、予想していた通り返事は返ってこない。少なくとも、Lは彼女を特別に感じてはいるだろう。でなければ、車で送ろうなどとは考えない。
 このまま行けば、もしかすると――。
 まだ確信はなく、ただの願望にすぎない。だが、窓の外をぼんやり眺める彼の横顔を、期待を込めて見てしまうのだった。


2012/09/11
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