私の初恋は寿くんだった。
私と寿くんは所謂幼なじみという関係だった。歳は私がふたつ下だけれど、親同士がそうだったように、私たちの仲も良かった。兄のように思っていた寿くんを、異性として認識し始めたのは中学一年の頃だ。あれはバスケット県大会の決勝。寿くんは何十本もシュートを決めていた。そのフォームが、ジャンプが、ゴールを見つめる眼差しが、あまりにも綺麗だったから、私は恋に落ちた。寿くんは武石中を優勝に導き、当たり前のように大会MVPを獲得した。
恋に落ちた私は、寿くんに「おめでとう」としか言えなかった。急に異性として意識したから、今まで言えていた「かっこよかった」とか「すごいシュートだった」とかは軽率に言えなくなってしまった。寿くんは私の様子を疑問に思っていたようだけれど、女心に疎い彼は気にせず「ありがとう」と笑った。私はその時の、自分に向けられた最高の笑顔を忘れられない。
寿くんが安西先生を追いかけて湘北高校に入ったことは親伝いに聞いた。そうしてバスケ部に入って怪我をしたことも、怪我が悪化して寿くんの心が折れてしまったことも、寿くんが不良になってしまったことも、全部聞いた。母は私の身を案じて、寿くんとは付き合わないようにしなさいと言った。私はあの笑顔が忘れられなかったから、頷きはしたけれど、寿くんとの縁を切るのは嫌だった。
そんなある日、私は寿くんを見た。学校帰りに偶然。寿くんは髪がもっと長くなり、歩き方も服装も、一緒にいる友達まで変わっていた。私は声をかけられなかった。寿くんが寿くんじゃないように見えたからだ。直感的にこわいと思った。今までそう思ったことはなかったというのに。
寿くんから遠ざかりながら、私は母の言う通りにしようと決めた。寿くんは変わった。変わってしまった。今まで通りに声をかけることも怯んでしまうくらいに。
それからは寿くんにも、寿くんと同じくらい素行の悪い男子にも近づかなかった。母に心配をかけたくなかったというのが大きい。けれど気をつけていたというのに、高校に入って初めてできた友達の晴子ちゃんは、入学早々真っ赤な頭をしたこわそうな男子に声をかけた。
「バスケットは、お好きですか?」
彼は晴子ちゃんに即、恋をしたらしい(晴子ちゃんは可愛いから当たり前だ)。それに気づいていないのは晴子ちゃんくらいだ。まあ、言うつもりはないけれど。
なんだかんだで私は湘北高校に入学した。寿くんの存在があったからではなく、単純に家が近いから湘北にした。入って後悔したのは、想像以上に不良が多かったことだ。けれど晴子ちゃんを通して桜木くんたちと交流するうちに、私の視野が狭かっただけなのだと考えるようになった。桜木くんも水戸くんも、普通に話せるし気が利くし、面白い人達だ。
もうひとつ、晴子ちゃんと友達になって変わったことがある。それは今まで避けていたバスケットボールに否が応でも関わることになったことだ。晴子ちゃんのお兄さんはバスケ部のキャプテンで、晴子ちゃんは流川くんのファンでもある。バスケ部の見学に誘われることも多く、時には水戸くん達と桜木くんの様子を見に行くこともある。桜木くんは晴子ちゃんの影響でバスケを始めたけれど、筋がいいと木暮さんは褒めていた。言葉通り桜木くんはめきめきと上達していった。この調子でいくとスタメンになるのも時間の問題だ。ダンクも守りも得意な赤木さん、とてつもなくバスケが上手い流川くん、そして桜木くん。今年は全国狙えるかもしれないと、木暮さんも言っている。
ここに寿くんがいたら、と考えることも少なくない。寿くんがいたらもっと全国が現実味を帯びてくる。でもその可能性は極めて低い、というかないに等しいとわかっているから、私は期待しないでおくことにした。寿くんが戻ってくるなどありえない。夢を見られるほど私は少女じゃない。そう思っていたある日の事だった。
「えっ……?」
晴子ちゃんに連れられていつものように行った体育館。そこに見慣れない姿が――見慣れた姿が、あった。
「……寿くん」
「え、ナマエちゃん、知り合い?」
晴子ちゃんに尋ねられ、頷く。彼のことはよく知っている。
短髪になった寿くんは、皆と試合形式で練習していた。寿くんの腕は鈍っていないようで、何度もシュートを決めている。呆然と見ていると、シャツの裾で汗を拭う寿くんと目が合った。「ナマエ」と彼の口が動いた気がした。
寿くんは赤木さんに何やら話すと、こちらへ向かってきた。私は心の準備ができていなかったから、どうしようもなく困った。今もまだ寿くんが好きなのだと、バクバクしている心臓が教えてくれる。寿くんの第一声は、「久しぶりだな」だった。
「……元気だったか?」
「まあ、うん……寿くんは?」
「俺は色々あったが、今は元気だ」
「それはよかった」と笑えば、寿くんはまじまじとこちらを見た。
「……お前、なんか雰囲気変わったな。なんというか、大人になった」
「そりゃあ高校生だもの。大人にならなきゃ」
「まあそうなんだが……」
寿くんはなんだか気まずそうにしている。何か変なことでも言っただろうか。ちらりと横を見ると、隣にいたはずの晴子ちゃんがいない。見回せば藤井ちゃんたちと遠巻きにこちらを見ている。にやにやしていて、私はげんなりする。
「……なあ、よかったら今日一緒に帰らねえか?」
何を言われたのかよくわからず、「え?」と聞き返せば、寿くんは焦ったように言った。
「ほら、積もる話もあるし、いっぺん家に帰ったっていい……まあナマエがよかったらだが……」
「いいよ」と答える。こちらも積もる話があるからだ。寿くんは「ホントか!」と笑った。
「じゃあ19時に体育館に集合な」
「うん」
寿くんは練習に戻って行った。心なしかその後ろ姿は嬉しそうで、私は期待してしまう。
「ナマエ、いい感じだったじゃない!」
こちらに来た晴子ちゃんたちにつつかれる。私は曖昧に笑った。期待しない方がいいとわかっているのに、私はそうしてしまう。だって寿くんはバスケ部に戻ってきた。そうしない方が難しかった。

自宅で暇をつぶし、私は再び寿くんと会った。初夏が訪れる前の、澄んだ夜の空気が心地いい。
「待っててくれてありがとな」
「ううん」
「ミッチー、ナマエさんと知り合いだったのか!?」
ちょうど桜木くんが体育館から出てきて私と寿くんを交互に見る。
「ああ、知り合いというか昔なじみだな」
「へえ、こんな可愛い幼なじみがいたんすね」
「か、可愛いだなんて……」
宮城さんの言葉に照れていると、ぐいと肩を掴まれた。見上げれば寿くんが近くにいる。
「ってことで、今日はナマエと帰る。じゃあな」
肩を抱いたまま歩き出した寿くんに、私は戸惑いながらもついていく。校門を出てもそのままだったから、私はおずおずと切り出した。
「あの、寿くん……」
「あ? ……お、悪ぃ」
寿くんは慌てて肩を離した。気まずい沈黙に包まれる。口を開いたのはやはり寿くんだった。
「……今までどうしてた?」
「中学は部活に励んでたよ、高校じゃ帰宅部だけど」
「なんで湘北に入ったんだ?」
「……家が近かったから」
「あー、確かにな。ナマエの家、もうこの辺だもんな」
そう、歩いて五分くらいで家には着く。けれどもっと寿くんと話したくて、私は言った。
「あのさ」
寿くんと被ってしまった。お互い同じ気持ちということか。寿くんは鼻の下をこすり、照れたように言った。
「……そこの公園でもっと話さねえ?」
「うん……」
私たちは夜の公園に入った。街灯がポツリと立っていて、辺りをほんのり白く照らし出している。その下にあったベンチに座る。
寿くんと二人きりという状況を急に意識して、私は緊張してしまう。
「……あのよ」
寿くんが切り出した。
「俺のこと、親から聞いてるだろ?」
「うん……」
「俺はちょっと前までどうかしてた。本当はバスケやりたくて堪らなかったんだ……そん時に、ナマエを見たことがある」
「え?」
「ナマエも俺に気づいてた。けど声をかけずにそのまま行っちまった。まあ、声をかけられてもろくなことは言えなかったがな」
寿くんは寂しそうに笑った。
「今の俺はナマエでさえも声をかけられないくらいなのかって、ちょっとショックだった」
「それは……あの時の寿くんが寿くんじゃないように見えたから」
「どう見えてた?」
「……私はこわいと思った。何もかも変わった寿くんを見て」
「……そうか」
寿くんは黙った。それから言った。
「今の俺はこわいか?」
私は首を振る。
「ううん、こわくない」
本心だった。今の寿くんをこわいなんて思わない。
寿くんは右手を上げて、そっと私の頬を包んだ。
「……こうされても、こわくないか?」
彼の声は手の先と同じくらい優しかった。私は頷く。こうなることをずっと望んでいた。
寿くんの顔が近づいてくる。私は目を閉じた。虫の音が鮮明に聞こえる。初めてのキスが、誰もいない公園の、この柔らかい夜にされることをロマンチックに思った。

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