閉鎖的だった尾形の世界をなかばこじ開けるようにして、そいつは現れた。
「おめー、『山猫の子供』なんだべ?」
「……あ?」
「山猫」の含む意味は知っている。いわゆる枕芸者のことだ。客と寝る芸者――すなわち母のこと。母を侮辱する言葉として、尾形は知っている。自分が「山猫の子」と呼ばれるのは慣れていた。それについて覚えるのは怒りでも悲しみでもなく、ただの無。何の感情も湧かなかった。心底どうでもよかった。自分がどのように評価されているかなど。
だからいつもは無視する。親が噂するのか、同い年くらいの子供に言われることが多い。大体はその意味を知っていて、あるいは噂する大人たちに悪気があるのを察して、揶揄する。けれどその子供には悪意を感じられなかった。むしろ、その声は期待に弾んでいた。だから尾形は無視できなかった。家まであと数歩のところで立ち止まり、尾形は後ろを向いた。
先に目に入ったのは白いと言うより青白い、肌色の悪い顔だった。頬は痩せ、どことなくくたびれたような印象を受ける。不健康そうな子供だ。しかしこちらを見つめる目は輝いていて、その目と体のアンバランスさに尾形は驚いた。上等な着物を着ているから違うとわかったが、そうでなければ浮浪児と認定していただろう。
「だから、『山猫』の子供なんだろ? おめーは、猫の子供なんだろ?」
その子供は掴みかからんばかりの勢いで言った。相変わらず目はきらきらと輝いている。もう少し肉がつけば、きっと愛嬌のある顔になるだろう。
なるほど、勘違いをしているのだ。尾形はその子供の言い方で合点がいった。隠語としての「山猫」を、本来の意味で捉えているのだ。自分を野良猫の子供だと思っているのだ。
「……俺は猫の子供じゃない」
否定する。子供の目の輝きは薄れ、しょげたように眉を下げた。
「本当に? だって、母ちゃんがそう話してんの聞いたんだ。隣んちの子は山猫の子だって」
「隣?」
「ああ。おれんちはおめーんちの隣、この家なんだ」
子供は家を指した。そこは確かに尾形の家の隣だ。そういえば、隣には同い年くらいの子供がいると、祖母から聞いたことがあった。学校にも行けない、病気がちな子供がいると。
「……へえ」
尾形は感情が込もっていない相槌を返した。別に、隣に誰がいようが関係ない。ただ学校帰りに通り過ぎるだけの場所。しかし、子供はそうは思わなかったようだった。「なあ」と縋るような声音で呼びかけられた時、尾形は嫌な予感がした。そしてそれは当たった。
「……おれの友達になってくんちょ」

子供の名はナマエと言った。ナマエは絵を描くのが得意で、二人ですることといえばナマエの家の前の地面に絵を描くことだった。ナマエは学校帰りの尾形を待ち伏せているらしく、家の前にはいつもナマエがいて強制的に絵を描かされた。
「百ちゃんのそれは船かなんかか?」
ナマエは尾形を「百ちゃん」と呼んだ。尾形は面倒くさいのでその呼び方を許している。面倒くさいので一緒に遊んでやっている。
「違う。これはあんこう鍋だ」
「へえー、あんこう鍋好きなんけ?」
「……ああ」
互いの好きなものを描こうとナマエが勝手にお題を出し、浮かんだものがあんこう鍋だった。母の作る、椎茸の入らないあんこう鍋。父がまた食べに来てくれると信じて作られるあんこう鍋。
「おれもあんこう鍋好きだ! んめぇよなあ」
ナマエは屈託なく笑った。あまりにも屈託がなかったため、尾形の心に巣食っていた影が一瞬だけ消えた。ナマエの描いたものが気になり、目を落とす。
「……お前は空が好きなのか?」
地平線の上に雲がぽつぽつと浮かんでいる。ナマエは小枝でもう一つ雲を書きながら頷いた。
「ああ。おれは自然が好きだ。外の世界が好きだ。でも、母ちゃんは外に出るなって言う。出てもおれんちの前だけだ。生まれた時からずうっと」
「病気かなんかなのか?」
ナマエは顔を上げずに「みてぇだ」と呟いた。
「病気だってこたあわかる。けどなんの病気だかはさっぱりわがんね。母ちゃんも父ちゃんも教えてくんねー……だからあんまし好きじゃねえ」
「おっ母とおっ父をか?」
「ああ」
描くのをやめ、枝で地面をぐりぐりと掘りながらナマエは言った。尾形はわずかな親近感を抱いた。この子供にも抱えている闇があるのだ。
「ナマエ」
戸が開いたと思えば、ナマエの母が顔を出した。ナマエは返事をせずぐりぐりと掘り続けている。
「そろそろ家さ戻んな。風が体に障る……こんにちは、百ちゃん」
ナマエの母はこちらを見てにっこりと笑った。最初こそ良い反応はされなかったが――山猫の子と噂していたのはこの母親だろう――ナマエと遊んでやっているうちに良き友達と認定されたらしい。尾形は立ち上がり、会釈をする。ナマエはまだぐりぐりやっている。
「今日はなんの絵描いたんだ?」
ナマエの母がこちらを見て言ったため、尾形は答えた。
「互いの好きなものを描いてました」
「へえ」
彼女はつっかけを履き、表に出てきた。尾形の隣に近づき絵を見つめる。そのまつ毛の長さはナマエと同じだ。
「百ちゃんのそれは……船かなんかけ?」
「いえ、あんこう鍋です」
「ああ、あんこう鍋! んめぇもんなあ」
ナマエの母は笑い、そしてナマエの絵を見た。
「ナマエは空描いたのけ?」
「……んだ」
「上手ぐ描けてんでねえの! ナマエは自然が大好きだがらね」
ナマエは褒められて、少し気を良くしたようだった。地面を掘る勢いは増し、むずむずと照れくさそうにしていた。
なんだ、と尾形は思う。何だかんだ言って、母親が好きなんじゃないか。ナマエが健全な子供であることを、尾形は少し残念に思った。親近感を覚えたのに。
「さ、こっつぁむくなってきたから百ちゃんもお帰り。ナマエも。風邪にでもなったら大変だかんね」
母親に肩を触れられたナマエは、仕方なさそうに立ち上がった。
「……じゃあな、百ちゃん」
こちらに手を振るナマエに、尾形も振り返した。同い年の子供に手を振るのは、これが初めてだった。

ナマエの母親に呼び出されたのは、それから数日経ってからのことだった。なんでも、ナマエの容態が悪く、床に伏せているのだという。思えば最近ナマエの姿がなかった。
「……ナマエはな、あと1ヶ月ぐれぇしか生きられねぇんだ」
母親は大粒の涙を流しながら話した。尾形はさほど驚かなかった。きっとそうなるだろうと薄々感じていた。ナマエは死期の近い匂いがした。
「ナマエはそれを知らねえ。それを伏せたまま、どうか最後までナマエと遊んでくんちょ……百ちゃんは初めてできたナマエの友達なんだ……お願いだ……」
ナマエの母は畳に突っ伏した。ひくっ、ひくっとしゃくり上げている。尾形はそれを無感動に見つめた。母親というのは果たして泣く生き物なのだろうか。尾形の母も、たまに父を想って泣いている。
「いいですよ」と受けた意味は特にない。ただ、学校帰りにナマエと遊ぶのは習慣になっていたし、どうせなら看取ってやるかという気持ちもあった。情が移ったのではない。人が死ぬ時を見てみたかったのだった。

床に伏せるナマエとの遊びは、もっぱらしりとりや早口言葉など言葉を使ったものだった。
「なまむぎなまごめなまだま……だめだ、言えねえ。百ちゃんは?」
「生麦生米生卵」
「すげえなあ、百ちゃん。早口言葉得意なんだな」
早口言葉など初めてやったが、尾形は言わずに頷いた。ナマエは布団の中からこちらを見上げている。その顔はやつれていたが、目にはまだ光があった。
「……なあ、百ちゃん」
「なんだ」
「おれ、もうすぐ死ぬんだべ?」
「なんでそう思う」
「わかるんだ、死ぬって。体が心に追いつかん……弱ってきてる。母ちゃんも父ちゃんも表情が暗い」
尾形は無言でナマエを見つめた。ナマエは言葉を続ける。
「死ぬ前に、百ちゃんにおれの秘密教えとく」
「…………」
「実はな、百ちゃんのことは前から知ってたんだ。百ちゃんのじいちゃんから銃を教わってるのも、百ちゃんが芸者とお客の子供なのも、全部知ってたんだ……いつか友達になりてぇって思ってた。だから勇気出してあの日、話しかけたんだ」
「……じゃあ、山猫の本当の意味も知ってたのか?」
「ああ、知ってた。知ってて嘘ついたんだ。ごめん」
かすれた声でナマエは言う。尾形は首を振った。それは構わない。けれど理由が知りたかった。
「なんで、俺と友達になりたいと思った?」
ナマエは乾いた唇を舐めて、こう言った。
「……百ちゃんは、おれに同情なんかしねぇと思ったから。百ちゃんは百ちゃんで大変だから、おれに同情してる暇もねぇと思った。同情が一番嫌いだ。同情なんかする友達はいらねぇ……百ちゃん、おれに付き合ってくれてあんがとな。おめーのおかげでおれは楽しかった。友達っていいもんだってわかった……百ちゃんがおれの友達になってくれて、よかった。本当に、ありがとう」
「……こっちこそ、ありがとう」
口をついて出た言葉だった。ナマエは瞬き、それから嬉しそうにゆっくりと口角を上げ、目を細めた。それが最後に見たナマエの笑みだった。

20220519

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