ひんやりとつめたい、相合傘の跡をなぞってみる。凹凸がうっすら残ってるのを感じて、さっちゃんが全力で消しゴムをかけても、完全には消えない油性ペンのしつこさを思い知った。ここに座る予定の子に気付かれないといいけど。
 その子がいるかもしれない外に目を凝らしてみたけれど、やっぱり薄暗くて、運動部に支配された校庭はよく見えなかった。代わりに窓が鏡になって、誰もいない教室を映し出す。ぼんやりとした明るいものが、いろんなところでゆれていた。2月末というのもあって、ソレはわたしが与えたえさに嬉しそうにかぶりつく。

「おいしい?」

 わたしを一向に映さない鏡から、教室に首を戻して声をかけてみたけれど、返ってきたのは骨を噛みくだく音だけだった。きっとわたしと話す余裕もないくらい、お腹がすいてたんだろう。
 ごめんね、今まで知らないふりしてて。
 とてつもなくきれいで汚くて繊細で、恐ろしく思っていた存在は、それぞれの思い出をごくんと丸呑みしてどんどんどんどん大きくなる。息つく暇もないくらい早く、豪快な食事。
 机だけでは飽き足らず、ソレが天井をぺろりと味見した瞬間、ジリリリリと閉じたドアの向こうから、けたたましいベルの音が飛び込んできた。校長の気まぐれで始まったクラス対抗避難訓練大会以来、ずっと聞いてなかった音。
 夢中でえさを食べてたイキモノには聞こえなかったみたいで、前の席の神楽ちゃんを食べた後、相合傘と一緒に、お妙ちゃんの深い笑みごとわたしの机をかみくだき始めた。
 そういえば、このイキモノに気付いたのも、ちょうど避難訓練の時だったなあ。



 先生は、先生だから、それもこれも全部知ってたのでしょう?
 参観日にスーツ姿の先生を見てひそかに顔を赤らめていたことも、よく準備室に出入りする他のクラスの子たちをまねて、スカートをたくさん折ってみたことも、神楽ちゃんの頭に先生の右手がのる度、わたしの中で黒いもやが立ちこめていたことも。
 それでいて先生は、わたしの知りたいことについては何も教えてくれませんでした。金縛りの解き方も、気になる人の心を透視する方法も、男女の愛し合い方も、何一つ教えてくれませんでした。

 あの日、用紙も準備室も赤に染まっていく中、わたしが先生の左手に触れたときも、何一つ。

 あの時先生は、いつもの無表情で、平然とわたしをつき放しましたね。

 でも。ねぇ、先生。

 初めて触れた瞬間、かすかに指を動かしたでしょう?

 教師と生徒なんて、使い古された言葉はいらないんです。
 小論文の書き方なんて、どうでもいいんです。
 先生の、心の中が知りたかった。

 聞き分けのよくないわたしは、来る日にお別れの言葉を言えないでしょう。
 だから、ここで言っておきます。

 先生、

 さようなら。



 がぶり。

 イキモノは容赦なく、わたしを丸呑みにする。メインディッシュなのだから、もう少し味わって食べてほしい。ソレが性急にセーラー服をちぎるのを他人事のように見てぼんやりと思う。わたしは一刻も早くわたしになりたいらしい。
 歯を立てられてるけど痛みも熱さも感じず、ただただ心地よかった。感じていた胸のつかえが、すうっと取れていく気分。認めてしまえばこんなに楽になるなんて。なんだ 、もっと早くにこうすればよかった。

 重くなってきたまぶたを下ろそうとした時、ドアから入ってきた先生の白衣がちらと見えた。見慣れた白と見慣れないほど力のこもった、わたしが恐れた真っ赤な赫。

「―――…!!」

 嗚呼、やっと、


201102

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