隣の席のキャベンディッシュ君は自分が大好きで、授業中も鏡で自分の美しさを確認している。いくら先生が注意しても聞かないので(これはキャベンディッシュくんでなくても、この学校には先生の注意を聞かない人が多い)、もう諦められている。キャベンディッシュ君は確かに美男子だ。ナルシストだけれど、その短所を補うくらい、綺麗な顔をしている。でもクロエは他の女子達のように靡かない。なぜなら、他に素敵だと思う人がいるからだ。

「クロエ、今日もバイトかい?」

帰りのSHRが終わり、机に引っ掛けていた鞄を取ると、キャベンディッシュ君に声をかけられた。立ち上がりながら、そ
うだよと頷く。

「毎日毎日よく行くなァ。僕のものになれば、金に不自由なくさせてあげるのに」

勘違いしてはいけない。キャベンディッシュくんはファンを一人でも増やすためにそう言っているのだ。クロエは聞こえなかったふりをして、戸口へ向かった。

「お、バイバイ、クロエ」

近くにいたペローナがこちらに手を振ってくれる。ピンク髪で大きな目をしたペローナは、とてつもなくかわいい。ちょっと口が悪いところがあるけれど、本当にいい子だ。いわゆるツンデレというやつだろう。

「じゃあね、ペローナ」

手を振り返し、クロエは教室を出た。向かう場所はアルバイト先。レストラン、バラティエだ。
バラティエは大通りの裏、少し奥まった小路にある。知る人ぞ知る、名店だ。従業員用の裏口から中に入る。

「お疲れ様です!」

「お、クロエちゃん、早いねー」

ちょうど休憩していたらしく、コックのカルネが迎えてくれる。

「サンジの野郎ももうちょい早く来りゃいいんだがな」

「あはは、サンジさんはきっと忙しいんですよ」

「そりゃたぶん、女のケツ追っかけるのに忙しいんだ」

クロエと同じ学校で、一つ上のサンジは、高校生ながらこのバラティエで副料理長をしているということと、非常に女好きなことで有名だった。
笑いながら女子更衣室に入り、ウエイトレスの制服に着替える。更衣室から出た時、ちょうど、金髪に特徴的な眉をした高校生――サンジとばったり会った。

「お、クロエちゃん、いつも早いね」

「うん、ここで働くのが楽しいから、早く来たくなるの」

そうなんだ、とサンジは嬉しそうに微笑む。素敵だと思う人、というのはサンジのことだ。料理が上手で、男らしくて、何より優しい。

「やっと来たか、チビナス。早く厨房に入れ!」

オーナー兼シェフのゼフが、厨房から出てきてサンジに怒鳴った。サンジは、わかってるよクソジジイと返し、男子更衣室へ去っていった。自分もこうしてはいられない。厨房を挨拶しながら抜け、客席へ向かった。
店は今日も盛況だ。それぞれの注文を取り、料理を配膳し、食べ終わった皿を片付ける。結構体力を使うが、クロエはこの仕事が好きだった。料理を食べるお客さんの幸せそうな顔や、食事を楽しんでいる姿を見られるからだ。そして何より――

「クロエちゃん、これ重いからおれ持ってくよ」

「えっ、大丈夫だよ」

「いいから任せて」

スーツを着たサンジはそうウインクすると、大皿をサーブしに行ってしまった。サンジはいつも重いものを持って行ってくれる。特別扱いではなく、女性なら誰にでもそうすると思うけれど、その優しさがクロエには嬉しかった。
サンジのような素敵な人と一緒にいられるから、この仕事が好きだ。そんな邪な理由を知ったら、彼はどう思うだろう。呆れられるか、それとも嬉しがるか。どちらにしても、それを言う気はないけれど。
せわしなく動いているうちに閉店時間となり、皆で賄いを食べる。今日のまかない当番はサンジのようだった。彼の作ったシーフードピラフは絶品で、腹が減っていたということもあり、クロエはすぐに平らげてしまった。

「お、いい食べっぷりじゃねェか」

「お腹すいてたし、美味しかったから」

「クロエちゃん、おかわりもあるよ〜

サンジにそう言われ、クロエは迷ったものの、首を振った。

「おかわりは食べたいけど……いいかな」

「なんでだい?」

「だって、この時間にいっぱい食べたら太っちゃうから……」

そう呟くと、サンジははっとしたようだった。

「はっ、おれとしたことが……クロエちゃんに美味いって言われたのが嬉しくて、そこまで考えられなかった…!」

なぜかショックを受けているようだった。

「……クロエ、もう遅いから帰ったほうがいい」

ゼフに言われて「はい」と頷く。カウンターから立ち上がると、サンジに聞かれた。

「今日も迎え来てもらうのかい?」

「ううん、今日は電車で帰ろうと思って」

「じゃあ駅まで送るよ」

「えっ!?」

突然の申し出に、クロエは驚いてしまった。隣に座っていたパティが囃す。

「クロエ、連れ込まれそうになったらすぐに逃げるんだぞ。こいつは年中女を求めてるからな」

「そんなことしねェよ、クソコック」とパティをにらむと、サンジはクロエを向いた。

「じゃあ、着替えたら出口付近で待ってて。おれも着替えていくから」

「わかった」

おずおずと頷いて、更衣室へ向かう。本当に送ってもらってしまっていいのだろうか。でも一人で駅まで向かうのは、やはり心細い。出口の前で待っていると、サンジはすぐに来てくれた。スーツではなく、高校の制服でもなく、おしゃれな私服を着ていた。初めて見る私服姿に、クロエは思わずじっと見てしまった。

「なにか付いてる?」

「えっ、いやその……サンジさんの私服姿を初めて見たなと思って」

「ああ、いつも制服かスーツだもんな」

行こうか、とサンジが歩き出し、クロエはその斜め後ろをついていく。
夏の初まりを感じるような、蒸した空気に包まれる。時折吹く穏やかな風は、柔らかい樹木のにおいがした。数メートルおきに立つ街灯も、夜空に浮かぶ月も、サンジと一緒だと今までとは違う景色に見えた。

「……クロエちゃんは毎日バイト入ってくれてるけど、疲れねェ? たまには休んでもいいんだよ?」

サンジが心配そうにこちらを振り向く。クロエは笑って首を振った。

「ううん、疲れたりしないよ、この仕事が好きだから。それに、急に休んだら迷惑掛かるし」

「いや、迷惑なんて掛からないよ。その時はおれがウエイターやるし……」

「ふふ、サンジさんがウエイターやったら、女の人を贔屓して大変なことになるんじゃない?」

想像して笑うと、サンジは確かにそうかもなと、真面目な顔で頷いた。
だんだんとすれ違う人が多くなり、駅が見えてくる。クロエはこのままずっと、サンジと歩いていたいと思った。

「駅が見えてきたなァ」

サンジが言った。うん、と相槌を打つ。

「……もうちょいクロエちゃんと一緒にいたかったけど、仕方ねェな」

女性に対するお世辞にしては、寂しさが含まれていた。表情を確認するためにサンジを見上げるが、その横顔は長い前髪で隠されていた。

「私も……もうちょっとサンジさんといたかったな」

冗談めかして言ってみる。振り向いたサンジは、微笑んでいた。

「ありがとう。クロエちゃんにそう言ってもらえて嬉しいよ」

「ううん、こっちこそありがとう……送ってもらっちゃったし」

ちょうど改札に着き、クロエは礼を言う。いいんだ、とサンジは言うと、こちらに手を伸ばした。握手かなと思ったが、その手は自分の頭をぽんぽんと撫でた。

「気を付けて帰ってね。何かあったらすぐ連絡して」

サンジの連絡先は、ちゃんと携帯に入っていた。サンジだけでなく、バラティエで働くコックたちの連絡先も入っている。
頷くと、サンジは笑った。

「クロエちゃんは素直でかわいいなァ」

「そんなことないよ」

「いや、あるさ……じゃあ、おやすみ」

「うん、おやすみ、サンジさん」

頭に置かれた手が離れると、一瞬クロエは淋しさを感じた。でも気のせいだと思い、ICカードを取り出す。改札に入り振り向くと、サンジはまだその場に立っていた。嬉しくなって手を振ると、にこやかに振り返してくれる。クロエは名残惜しく思いながらも、人々の波の中へ入っていった。話し声、足音、電車のベルなどの音が、周囲を取り囲む。

「……いつになったら、自覚してくれるんだろうな」

サンジの呟きも雑音に紛れ、彼女の耳には届かなかった。




最近、キャベンディッシュ君の様子が変だ。まず、授業中に鏡を見なくなった。それから、休み時間に集まる女子達に笑顔こそ見せれど、どこか陰がある表情をするようになった(そのアンニュイな表情もいいと、ますます人気になっている)。隣の席ということもあり、放課後、クロエは理由を聞いてみることにした。

「キャベンディッシュ君」

「なんだい?」

こちらを見上げる彼は、やはりどことなく元気がないというか、いつもの自信に溢れたオーラがなくなっている気がする。

「最近、元気なさそうだけど、何かあった?」

キャベンディッシュ君は大きくため息をついた。

「……好きだとアピールしている子に、いつまでも振り向いてもらえないからさ」

クロエは驚いた。自分が大好きなキャベンディッシュ君が、特定の誰かを好きになるなんて、信じられなかった。判明してしまった繊細な問題に、クロエは言葉を選びながら言った。

「それは……大変だね」

キャベンディッシュ君は二度目のため息をついた。

「僕が好きな子が、誰だかわからないのかい?」

「え? 全然わからないけど……」

見当もつかずそう言うと、キャベンディッシュ君は頭を抱えた。そしてブツブツと呟いたと思うと、ぱっと顔を上げた。何かを決意したような、そんな表情だった。彼は口を開いた。

「クロエ、君のことだよ」

「えっ!?」

何かの間違いだと、クロエは思った。あのキャベンディッシュ君が、特別容姿が整っている訳でもない自分のことを好いているなんて。
何も言えなくなっていると、彼は真剣な眼差しで言った。

「僕は、君と付き合いたいと思ってる……返事は後でいい。よく考えてくれ」

キャベンディッシュ君は立ちあがり、教室を出ていった。取り残されたクロエは、呆然と立ち尽くす。キャベンディッシュ君の目は本当に真剣だった――こちらも、真剣に考えなければならない。
ぼんやりと彼が去っていった戸口を見つめていると、どこからか聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「んナミさァ――ん! ロビンちゃ――ん! 途中まで一緒に帰ろ〜〜

サンジの声だ。戸口から階段の方を覗くと、二人の美女にデレデレになっているサンジの姿が見えた。
こんなサンジは嫌だ、とクロエは思った。こんな、だらしなく顔を崩して、デレデレしているサンジは見たくない。クロエは覗くのをやめようとした。顔を引っこめる瞬間、彼と目が合ったような気がした。

裏口からバラティエに入ると、珍しくゼフがスタッフ用のテーブルで休憩していた。いつもより遅くなったこともあり、クロエはぴしりと固まった。

「お、お疲れ様です」

「遅かったな……何かあったか?」

ゼフは責めることも無く、理由を尋ねた。クロエは何もないですよ、と笑い、申し訳ないですと謝ると更衣室へと逃げた。制服に着替え、厨房のコックたちに挨拶し、客席へ出た。
クロエが遅れたせいか、サンジが接客をしていた。彼が客のワインを注ぎ終わるのを待ち、急いで彼に囁いた。

「サンジさん、ごめんなさい。後は私が入るから大丈夫」

サンジはじっとこちらを見つめたかと思うと、首を振った。

「今日のクロエちゃんは、ちょっと心ここに在らずって感じがするな……おれもこのまま客席に入るよ」

「でも……」

「厨房は大丈夫」

サンジはそう言って微笑むと、来店してきたお客さんのところへ向かった。綺麗な女性だったらしく、目をハートにして大袈裟に挨拶する。そんなサンジを見て、クロエの胸がずきりと痛んだ。先程学校でデレデレしているサンジを見た時と、同じ痛み。見ていたくなくて振り返ると、料理を運ぼうと厨房へ向かった。
この痛みを忘れようといつも以上に動いていると、あっという間に閉店時間となった。賄いを食べるためカウンターに座ろうとすると、サンジに声をかけられる。

「……クロエちゃん、ちょっといい?」

クロエは賄いの皿を持ちながら、サンジに連れられ休憩所に入った。皆客席にいるため、この部屋には誰もいない。座るように促され椅子に座ると、その向かいにサンジが座った。彼は心配そうにこちらを見ていた。

「クロエちゃん、今日学校で何かあったかい? いつもと様子が違ってたから変だと思って」

サンジの言う通り何かあったが、その何かを言うのは、キャベンディッシュ君のことを考えるとできなかった。

「あったんだけど、ちょっとそれは言いたくないかな……」

ごめんね、と謝ると、謝る必要なんてないさ、とサンジは言ってくれた。それから、お互い何も話さず賄いのチャーハンを食べる。いつもなら箸が止まらないのに、今は食欲がなく、あまり進まない。
キャベンディッシュ君の告白、そしてデレデレするサンジに感じた胸の痛み。サンジはとても素敵な人で、自分は彼を人として好きなのだと思っていた。でもこんなに胸が痛むということは――きっとそれは違う。

「……サンジさん」

「ん?」

サンジはスプーンを止めてこちらを見た。その瞳は穏やかで、優しい。

「私、サンジさんのこと――好きなのかもしれない」

人に告白するのは、生まれて初めてのことだった。こんなに勇気がいるなんて、知らなかった。きっと、キャベンディッシュ君も同じくらい勇気を振り絞って、言ってくれたのだろう。
サンジは驚いた様子ではなかった。ただ瞬きをして、知ってたよ、と微笑んだ。

「知ってた?」

「うん」

そう頷いたきり、サンジは何も言わず、賄いを口にした。
なんだ、知ってたんだ。いつから、どうして知ってたのか、どんどん疑問は出てくるけれど、サンジが話さないなら聞かなくてもいいと思った。

「……クロエちゃんは、どうしたい?」

いつの間にか賄いを食べ終わっていたサンジに、問いかけられる。クロエはスプーンを止め、考えた。
サンジがよければ付き合いたい、とも思うけれど、今それを言うのは違う気がする。キャベンディッシュ君の気持ちを考えれば、そんなことはできない。

「……ちょっと、考える」

結論を先延ばしにするのはよくないとわかっていても、一人になって少し考えたかった。
サンジは「わかった」と頷いただけで、あとは何も言わなかった。

迎えに来てくれた母の車に乗り、家に帰る。様子が違うと気づいたのか、何かあったのかと聞かれた。でもこのことを親に言いたくはなく、何もないよと首を振り、自室へ向かう。
電気を点けずに、からりと窓を開ければ、涼しい風が舞い込んできた。初夏の青葉の匂いがする。春とは違う色合いの夜空を眺めながら、今日はいろんなことを体験した一日だったと振り返った。
柔らかな夜の闇は、自分を包み込んでくれるような気がする。穏やかな気持ちで、クロエは目を瞑った。陰のある彼の表情、真剣なまなざし、賄いのチャーハン、サンジの微笑み。しばらくして目を開けた時には、彼女の心は決まっていた。



「……キャベンディッシュ君」

放課後、誰もいなくなったタイミングで、そっと隣に声をかけた。キャベンディッシュ君はその日一日、昨日のことなどなかったかのように、自信に満ち溢れたオーラを振りまいていた。
彼は少し緊張した声で、「なんだい?」と返した。やっぱり、気になってたんだ。心配させないように、いつものように振舞ってくれてたんだ。
クロエは気づかれないように、少し大きく息を吸った。

「昨日のこと、私、よく考えたの。ずっと考えて……キャベンディッシュ君と私じゃ釣り合わないって思った」

キャベンディッシュ君の眉がひくりと動いた。クロエは言葉を続ける。

「キャベンディッシュ君は優しいし、いい人だと思う。でも、キャベンディッシュ君の隣に自分がいるっていう想像ができなかった……どうしても。だから――」

「もう、言わなくていい」

キャベンディッシュ君は額に手を置き、うつむき加減に手を振った。そしてため息をつくと、ゆっくりとこちらを向いた。
驚いたことに、彼は微笑んでいた。今までになく、綺麗な表情だった。

「こうなるとはわかってたんだ……いつもバイトに行く時、クロエは本当に楽しそうだったから。でも、自分の気持ちを言わなきゃ後悔するとも思った。だから、告白したんだ」

クロエは謝りかけたが、口を閉じた。謝るのは少し違うと思った。
キャベンディッシュ君は静かに、諭すように言った。

「他に、好きな奴がいるんだろ? その人のところに行っておいで」

バイトにも遅れるよ、と彼は笑う。胸が詰まり、クロエは言葉で気持ちを表すことができなかった。代わりに、深々とお辞儀する。自分の気持ちを伝える様に、しばらくそうした後、クロエは身を起こし、ゆっくりと戸口へ歩き出した。振り返ることはしなかった。それは、キャベンディッシュ君に対して失礼な気がした。
階段を降り、昇降口へ出る。さわやかな風が頬を撫でて、初めて自分が泣いていることに気づいた。

20190528

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