サンジ様の侍女になったのは、九歳の時だった。私の家系は代々ジェルマ王国の国王や王子たちに仕えていたから、私が召使いになるのは必然であり何の抵抗もなかった。子供には子供の召使いを宛てがうのが王国の仕来りで、私は六歳のサンジ様に仕えた。サンジ様は同い年の兄弟である、イチジ様、ニジ様、ヨンジ様とは全く違い、身体は強くなかったけれど、心は誰よりも優しく、私はその内面に惹かれた。
 一度、サンジ様がネズミに自分の作った料理をあげているのを見たことがある。私は普通なら止めなければいけなかったのだが、サンジ様の表情がとても嬉しそうだったから、何も言わずに隣に寄り添った。
「クロエ、こいつがやっとおれの料理食べてくれたんだ!」
「それはよかったですね、サンジ様の料理が上達した証です!」
 そう言えば、サンジ様は破顔した。私はその表情を見て、イチジ様でもニジ様でもヨンジ様でもなく、サンジ様に仕えることが出来たのは、本当に運が良く幸せなことなのだと悟った。
 サンジ様はその身体の弱さから兄弟、そして実の父親である国王様にまでも疎まれていた。王族に逆らうこともできず、私は暴力を受けるサンジ様を黙って見ていることしか出来なかった。代わりにできることといえば、私は怪我をしたサンジ様をレイジュ様と一緒に手当することだった。
「悪く思わないでね。私も同じように振る舞わないと、私が虐められるのよ!」
 レイジュ様もレイジュ様で苦労していた。レイジュ様は強いけれど、心をなくしてはいない。
 私はレイジュ様と同い年だったから、二人で話すことも多かった。だからレイジュ様の悩みもよく知っていた。
「私、こんな国なくなっちゃってもいいと思うの」
 ある時、レイジュ様はそう言った。私は何も言えなかった。レイジュ様の苦悩をその言葉は示していた。
 女王様が亡くなったのは、それからすぐのことだった。サンジ様もレイジュ様も深い悲しみに暮れていた。サンジ様が自分の作った料理を、一人で女王様のところに持って行っていたのは知っていたし、レイジュ様が毎日のように女王様のお見舞いに行っていたことも知っていたから、私は二人の悲しみがよくわかった。私はあまり女王様と会ったことはないけれど、ふたりが慕うほど優しい、慈愛に満ちた方だとわかっていた。反対にイチジ様たちは悲しむ素振りも見せず、何もなかったかのように普段通りだった。私はその姿を見てぞっとした。心をなくすということが、どれほど残酷なことかを知った。
 二人に寄り添ううちに、サンジ様もレイジュ様も表情が徐々に明るくなっていった。兄弟からの暴力は増す一方だったけれど、サンジ様は変わらず彼らに向かっていった。その勇気は兄弟の誰にも負けないと私は思う。

 サンジ様が遭難の末に亡くなったと知らされたのはサンジ様が八歳の頃だった。私は信じられず、レイジュ様に問いかけた。するとサンジ様は地下の牢屋に閉じ込められていることを教えてくれた。
 そこで目にしたサンジ様の格好を、私は生涯忘れないだろう。サンジ様は顔が見えないように鉄仮面を付けさせられていた。今もイチジ様たちに暴力を奮われるらしく、身体はあちこち怪我をしていた。私はこんな扱いを受けるサンジ様が不憫で、国王様への怒りも綯い交ぜになり泣いてしまった。
 サンジ様は泣いている私に慌てて駆け寄ってくれたものの、檻が邪魔をして近くには来れない。
「どうしたんだ、クロエ。何で泣いてるんだ?」
「……何でもないんです、サンジ様。ただサンジ様とお会いできて私は嬉しいんです……」
 私はそう言って、涙を拭いた。泣き止まなければ、サンジ様が心配してしまう。
 それから私は、ほとんど毎日サンジ様のところへ通った。もちろんイチジ様たちや兵士のいない時間を計って行った。私はサンジ様が生きていることを知らない侍女として振る舞わなければならない。サンジ様と牢越しにだけれど話をするのは、やはり楽しかった。ある時、サンジ様は「オールブルー」という全ての海の生き物が住む海を見たいのだと語った。
「オールブルー……そんな海があるのですね」
「……クロエは信じるのか?」
「もちろん信じますよ、サンジ様の言うことなら何でも信じます」
 そう言って笑うと、サンジ様も照れたように笑った。
「へへ……おれもクロエを信じてるよ」
 私はその一言が嬉しくて、サンジ様が本当にいなくなった今も、繰り返し思い出している。
 サンジ様はレイジュ様によって牢屋から助け出された。そして、たまたま停泊していた豪華客船へ乗り込ませた。私はそこで見習いとしてコックをするサンジ様を幾度となく想像して、今も無事でありますように、どうかサンジ様を愛してくれる人が現れますように、と祈り続けた。サンジ様が「亡くなった」後はレイジュ様の侍女になり、たまにレイジュ様とサンジ様の話をした。レイジュ様にとっても、サンジ様は特別だった。だから、サンジ様の手配書を見た時は驚いた。まさか海賊になるとは思っていなかった。レイジュ様に見せると、彼女は微笑んで「海賊になるなんて、やるじゃないの」と言った。サンジ様は私たちが思っているほど弱い人ではなかったのだ。私は私の知らないサンジ様がいることに寂しく感じたけれど、それは仕方のないことだ。サンジ様はサンジ様の道を歩いている。私は何も言えない。ただ、あわよくば――今のサンジ様の中に私がいてくれたら、とは思っていた。もし再会した時、思い出してくれたら。再会しないことがサンジ様にとって良いことなのはわかっている。だからこの願いには蓋をして生きてきた。しかし――。
「……久しぶり、クロエ」
 その時は、最悪の形でやってきた。
 私はサンジ様に抱きしめられている。私はただ硬直して彼の体温を感じている。私よりも背の高くなったサンジ様は、手配書で見るより大人びた顔つきをしていた。
「……お久しぶりです、サンジ様」
 サンジ様が離れた。私は心臓が大きく鳴っているのに気付かないふりをして、彼に言った。
「このような形で再会することになり、とても心が痛みます……」
 この部屋には私とサンジ様以外誰もいない。レイジュ様が気を利かせて、国王様が出ていった後、他の侍女たちを引き連れていった。
 サンジ様は眉根を寄せ、つらそうな顔をした。
「あァ、おれもつれェ……まさかこんな形で再会するなんてな」
 サンジ様はどさりとソファに沈む。私は彼のそばに近づいた。
「クロエ……どうしたらいい? おれはもう結婚するしかねェのか?」
 頭を抱えるサンジ様に胸が締め付けられる。私の答えられることではなく、ただ無言でサンジ様を見守るしかない。
「ああ……クソッ、最低な野郎だあいつは」
「……それは同意します」
 そう返せば、サンジ様は驚いたようにこちらを見上げた。本来、仕えている方の悪口は言ってはならない。けれどサンジ様を苦しめる者は許せない。怒りが私の心を支配して、理性を上回ってしまっていた。
「クロエ……」
 私はそっとしゃがみこみ、彼の目を見て言った。
「サンジ様……サンジ様にとって、麦わら海賊団の方々は大切な方々なのですね」
「あァ、そうだ……この忌まわしい爆弾がなかったら、すぐにでもこっから出ていって、あいつらんとこに行きたい」
 サンジ様に付けられた腕輪は、レイジュ様によって偽物にすり替えられていることは知っていた。しかし今それを言えば、サンジ様が脱出したあと、残されたレイジュ様が疑われてしまう。激怒した国王様が、レイジュ様に何をするかわからない。私は言った。
「では……私はその腕輪の鍵を見つけてきます」
「見つけるって言ったって、持ってるのはビッグ・マムなんだろ? それに、鍵を探してるのがバレたらクロエは……」
「大丈夫です」
 私は笑った。
「私はどうにでもなります。それよりもサンジ様はご自身の心配をなさってください」
 サンジ様は複雑そうな顔をしたが、「そうか」と頷いてくれた。
「では……失礼致します」
「クロエ」
 立ち上がった途端、名前を呼ばれる。振り返ろうとするも、できなかった。背後から抱きしめられていたから。
「サ、サンジ様……」
「君には昔から本当に世話になってる。また会ったら恩返ししてェと思ってたのにな……」
 サンジ様の言葉に胸がいっぱいになる。そんなことを思ってくれていたとは。けれど私は突き放さなければならない。腰に巻かれた手をやんわりと外しながら言う。
「……召使いが王族へ尽くすのは当たり前のことです。それがイチジ様であろうとヨンジ様であろうと、私は今のように行動するでしょう」
 私は自分の心を押し殺した。今のは嘘だ。そう突き放さなければ、サンジ様は私を気にかけてしまう。サンジ様は優しいから。脱出するにあたり、余計な心配をしてしまう。
「それでは」と言って、部屋を出た。サンジ様を振り返ることはできなかった。

 向かったのはレイジュ様の部屋だった。ノックをして入れば、彼女はソファに座り新聞を読んでいた。近くに立つとこちらを見上げた。
「サンジの様子はどう?」
「……良くないです。やはり麦わら海賊団の方々を大切に思っています」
「そう……」
 レイジュ様は新聞を畳んだ。
「サンジには悪いけど、今は我慢してもらうしかないわ。私に疑惑が向いてしまう」
「あまりにもサンジ様が不憫で、鍵を探すとサンジ様に言いましたが、よかったでしょうか?」
「……逆に怪しまれたかもしれないわね。ビッグ・マムが鍵を持ってるのに王国の侍女であるあなたが探すというのは」
「すみません……」
「まあ、大丈夫よ。偽物の鍵はあるんだし……それより、サンジと久々に会ってどうだった? 抱きつかれたりしなかった?」
 顔に熱が集まる。
「されました……」
「ふふ、やっぱりサンジはクロエが大好きなのね」
 私は話題を変えた。
「……シャーロット・プリンについては何かわかりましたか?」
「今のところ、ショコラタウンでカフェを営んでいて、周りからも評判の娘としか情報はないわ……ただ、やっぱりいい子すぎる。もっと調べるべきね」
 レイジュ様はプリンを胡散臭いと言って、その本性を調べている。私は会ったことがなく、最初プリンの写真を見た時は、サンジ様と結婚するに相応しい綺麗な女性と思ったが、レイジュ様の勘は当たる。
「これからホールケーキアイランドに船をつけるから、プリンのことがもっとわかればいいけど」

 ホールケーキアイランドに着くと、馬車によってヴィンスモーク家は城へ移動させられた。私はサンジ様の侍女として、レイジュ様の口利きもあり特別に城へ入ることを許されたため、馬車の後部に座っていた。途中、麦わらのルフィと泥棒猫のナミが現れて、ルフィとサンジ様が決闘をした。サンジ様の身を切るような嘘とルフィの心のこもった叫びに、涙をこらえることはできなかった。
 到着してすぐに茶会は開かれ、それが終わるとサンジ様は部屋に戻ってきた。
「お帰りなさいませ」
「あァ、ただいま……少し、プリンちゃんと話してくる」
「わかりました」
 サンジ様はそう言って部屋を出ていった。戻ってきたのは、それから少し経った頃だった。
 レイジュ様が付けたマスクは外され、兄弟たちにやられた痛々しい傷が、顔中に残されている。かける言葉をなくしていると、サンジ様は椅子に腰かけて言った。
「……クロエ、おれァ結婚することにした」
「さようで、ございますか」
「おれが結婚すればクソジジイも仲間もビッグマムも、みんな丸く収まるんだ。プリンちゃんもおれのことを想ってくれているし、それでいいんだ」
 サンジ様は自分に言い聞かすように言った。私は何も言えなかった。
 翌日、サンジ様はプリンへの花をつみ、彼女を喜ばそうと料理も作った。意気揚々とプリンの元へ向かったが、その姿は無理をしているようで、私は見ていられなかった。
 サンジ様が出ていった後、私はレイジュ様と話すため部屋を出た。昨晩からレイジュ様はプリンを嗅ぎ回っているのは知っていた。レイジュ様の身に何も起きなければいいがと心配していたが、それは的中してしまった。レイジュ様のいない部屋の中で狼狽していると、サンジ様が現れて、レイジュ様が脚を撃たれて医務室にいると話してくれた。サンジ様は雨に濡れ、服も摘んだ花も料理もびしょびしょだった。
「サンジ様、どうされたのですか?」
「……外でタバコ吸ってたんだ」
 明らかな嘘だった。こんな雨の中、外でタバコは吸わない。サンジ様の顔をよく見ると、うっすらと目が充血していた。やはりプリンと何かあったに違いない。
 気になるが、今はレイジュ様の無事を確かめたかった。二人で医務室に行くと、レイジュ様はちょうど目覚めた頃だった。
「……気づいたか?」
「私……夕食後に何かが……」
「記憶が曖昧なんだろ。教えてやる、何があったかを」
 サンジ様の話はこうだった。レイジュ様の脚を撃ったのはプリンで、彼女は結婚式で彼女の兄妹たちとヴィンスモーク家を皆殺しにすることを宣言した。最初からそれが狙いだったのだ。
 私はショックを受けて何も言えなかったが、レイジュ様は冷静だった。
「そう……さすがの父も少々驕ったわね」
「信じるのか……?」
「勿論。あなたは私をダマさない……でもそこまでとは。プリン……あまりにいい娘すぎて嗅ぎ回ってたの」
「結婚せずおれ達を殺す気なら……おれが結婚すりゃルフィ達も助けてくれるなんて、そんなもの元々成立しねェじゃねェか!! おれ一人が犠牲になれば丸く収まると思ってた! とんだ幻想だった……!」
 サンジ様は頭を抱える。
「だけど、こっちにはいい機会だわ。ジェルマはこのまま滅ぶべきだと思う。このまま気づかないフリをして、ビッグ・マムの計略通りに……」
「何言ってんだ、お前も死ぬんだぞ!? レイジュ」
「――へぇ、私の心配してくれるの? 最後の思い出って厄介ね……昔の手助けくらいで恩なんか感じないで」
「…………!!」
「あなたは麦わら達と逃げなさい、サンジ」
「あァ!? そんなこと、たとえできても……バラティエはどうなる!?」
「それは逃げられてから考えればいい。ここにいたらみんな死ぬわ……ジェルマを捨てて逃げなさい、サンジ! ビッグ・マムが欲しいのは私達の科学力。あなたの恩人の命にも興味はないはず。海上レストランを人質のようにふりかざす父も兄弟も明日殺される! 当然の報いよ!! 人殺しの集団だもの!!」
「おれだって……あいつらには恨みしかねェが……お前までなぜ死ぬんだ……!」
「私にも情は残ってるけど……父の命令に逆らえないように改造された共犯者。手は汚れてる……死ぬべきよ――言い忘れたけどそのブレスレット、爆発なんてしないわ。私がすり替えておいたから」
「…………」
「島を出られない理由は他には!? しっかりしなさい、サンジ! 大切なものをよく見て! あんな素敵な奴ら、もう一生出会えないわよ!!」
 素敵な奴ら――麦わらたちのことだ。彼らはサンジ様を救おうとここまでやってきた。サンジ様を本当に大切に思っている方々だ。
 サンジ様は無言で医務室を出ていった。きっと、麦わらに会いに行ったのだろう。私はレイジュ様とともに残った。
「……レイジュ様」
「何? クロエ」
「自分を死ぬべきだなどと言わないでください……私にとっても、レイジュ様は大切な存在です」
 レイジュ様は一瞬目を見開いて、そして「ごめんなさい」と呟くように言った。
「……サンジ様はきっと、レイジュ様もご兄弟も皆助けるでしょう」
「そうね。これだけ止めても聞かないわね、きっと……」
 レイジュ様はため息混じりに言った。その声にはあたたかさも混じっていて、サンジ様の優しさを軽視してはいなかった。
「……そういえば、サンジ様は部屋に戻ってきた時、雨に濡れてました。目も少し充血していて……プリンは何かサンジ様を傷つけるようなことも言ってたのでしょうか?」
「それは……プリンでなければわからないわ。私はプリンに記憶を盗られたんだもの」
「私……プリンに聞いてきます」
 サンジ様が誰かに傷つけられたなら、それを見過ごすことはできなかった。イチジ様たちには反抗できないけれど、プリンになら――。
「やめときなさい、クロエ。本性を表しても、どうせ私のように記憶を盗られるだけよ」
「…………」
 確かにレイジュ様の言う通りだ。サンジ様が記憶を盗られなかったのは、窓からプリンの様子を見ていて気づかれなかったからと考えると納得がいく。
 それでもプリンと話がしたかった。一度会ってみたいという気持ちもあった。
 私は医務室を出てプリンの部屋へ向かった。
「ダメよ、バカン プリン様は取り込み中!」
「話がしたいだけなの」
「ダメよ」
 魂の宿った扉と問答していると、ふと扉が開いた。丸く大きな目にツインテールの可愛らしい女性。
「あら、サンジさんの侍女さんじゃない! どうしたんですか? 私のところに何か用が?」
「……少し話がしたいんです」
 そう言えば、プリンは驚いた顔をしたが、中へ入れてくれた。
 彼女の部屋は可愛らしいものに溢れていた。ピンク色のものが多い。女の子の部屋だ。
「……それで、話って何です?」
 ソファに座ったプリンが言う。私はその向かいに座り、言った。
「……サンジ様との結婚をやめにしてほしいんです」
 サンジ様を傷つけたかどうかを話せば、プリンに怪しまれる。もしかすると、ビッグ・マムの思惑をこちらが知ったと気づかれてしまう。だから私はそう言った。ずっと燻っていた気持ちだった。そもそも皆殺しになってしまうけれど、結婚という言葉はまだ重く私の中に残っていた。これがサンジ様の結婚だからなのかどうかは、深く考えないことにした。
「えっ、それはどうしてですか? もしかして、あなたもサンジさんに恋を?」
 あなたも、ということは、プリンは今そういう設定で話しているのだ。そう思わなければ、信じてしまいそうなほど彼女は演技がうまかった。
「はい……私もサンジ様を好いてます」
 私はそう言ってみた。出任せのつもりだったのに、心がすっと軽くなった気がした。プリンは頬を押えた。
「えっ! でもそれは許されない恋なんじゃ……?」
「そうです、許されない恋です。だからこの気持ちをサンジ様に伝えることはしません。ただ結婚となると話は別です。私はプリンさんたちを結婚させたくありません」
「その気持ちはわかるけど……でも、結婚を取りやめにはできないわ。ママがそうしろと言ってるから」
 やはりそうなるか。私は「そうですか」と立ち上がった。もう用はない。
「……それでは仕方がないので、もう反対はしません……お邪魔しました」
 怪訝そうなプリンの視線を背に部屋を出る。最後まで本性は出してこなかった。それは別にいい。ただ、恐らくレイジュのものと思われる血痕と、壁に撃った跡を見つけたのは大きな収穫だった。

 レイジュ様のところに戻ってそれを話せば、「やっぱりサンジの言う通りね」と彼女は言った。
「ところで、プリンと何を話したの?」
「……結婚をやめにしてほしいと、言いました」
「そう……」
 レイジュ様はこちらを慮るような眼差しでじっと見つめる。私は目を合わせていられず、ついと逸らした。
「……クロエ、自分の心には正直になった方がいいわ。今のうちにサンジに告げてしまった方がいい」
「それはいけません。サンジ様は王族の方です。一方私は召使い……それにサンジ様をこれ以上煩わせたくないんです」
「……その気持ちはわかるけど……後悔はしないようにした方がいいわ。まあ、クロエの好きなようにすればいい」
 レイジュ様はそう言って、布団に潜り込んだ。
「……もう寝るわ。クロエもサンジのところへ行きなさい。そろそろ戻ってるはず」
「かしこまりました……おやすみなさいませ」
「おやすみ」
 医務室を出てサンジ様の部屋に入る。彼はまだ起きていた。ソファに座っていた彼は、私が入った途端立ち上がった。
「クロエ、医務室にいたのか?」
「はい。レイジュ様とお話してました……サンジ様はお仲間と……?」
 サンジ様は「あァ」と頷いた。私はその頷きを見て安堵した。
「……明日の結婚式、楽しみにしています。では、おやすみなさいませ」
「……おやすみ、クロエ」
 自分に割りあてられた部屋へ入る。サンジ様は何か話したげな表情をしていたけれど、明日のこともあり早く寝た方がいい。私はシャワーを浴びて寝巻きに着替え、ベッドに入った。目を閉じても明日のことが浮かびなかなか寝られずにいると、ノックの音がした。
「……どうされました?」
「入っても、いいか?」
 急いで立ち上がりドアを開けると、同じく寝巻き姿のサンジ様がいた。
「サンジ様……」
「……こんなこと言われても困ると思うんだが……一緒に寝てもいいか? どうしても眠れねェんだ」
「それは……命令、でしょうか?」
 その申し出に驚いたけれど、命令ならば受け入れるしかない。サンジ様は逡巡するように黙ったが、やがて頷いた。私は彼を部屋へ招き入れた。
 私のベッドにサンジ様が入る。躊躇する私に、サンジ様は言った。
「お願いだ、クロエ。一緒に入ってくれ」
 私は恐る恐るサンジ様の隣に入った。ベッドの幅は二人だと狭く、サンジ様の腕に頭を載せる形になってしまった。
「も、申し訳ございません……」
「いいんだ、もっとこっちに体寄せても大丈夫」
 そんなことは出来るわけがなく、私はできるだけ距離を取ろうとベッドの端に体を寄せた。互いに無言になる。もう寝たのかと思い、私も目を瞑った時、サンジ様が言った。
「……なァ、クロエ」
「はい……」
「明日は結婚式という名の殺し合いだな」
「はい……」
「さっき、ルフィたちと作戦を練ってきた。何とかなるといいが」
「何とかなりますよ、私は信じてます」
「そうだな……」
 再び沈黙。しばらくしてサンジ様が口を開いた。
「……なァ、クロエはおれをどう思う?」
「どう……サンジ様はお優しくて、とてもご立派な方だと思ってます」
「いや、そうじゃなく……こう、男として」
「男として、ですか?」
「もう言っちまうが……クロエはおれを男として好きか?」
 どきりと心臓が音を立てた。ここで本心を言ったらどうなるのだろう。考える前に、口が動いていた。
「……好きです。サンジ様」
「え?」
 サンジ様がこちらを向く。私は彼と目を合わせてもう一度言った。
「男として、サンジ様が好きです……むっ」
 唐突に唇を奪われる。長く感じた口付けは、リップ音とともに終わった。
「悪ィ、高ぶっちまって……おれもクロエが好きだ。昔からクロエを忘れたことは一度もなかった。あいつらには会いたくねェが、クロエにはずっと会いたかった……」
「私も……私もサンジ様を忘れたことは一度もありません」
「クロエ……」
 正面から抱きしめられる。サンジ様の体温があたたかい。
「もしもの話だが……明日、一緒にここからルフィたちと共に脱出出来たら……結婚してくれるか?」
「……はい」
 私の口は勝手にそう答えていた。再び口付けが落とされる。
「明日、おれは……おれらは何とかして生き延びる。クロエは島の北側の岸で待っててくれ」
「……はい」
 再び強く抱きしめられる。私は心地の良さに目を閉じた。そして深い闇の中へ吸い込まれていった――。

 目を覚ますと、サンジ様は隣にいなかった。きっと式の準備をしているのだろう。私は着替えて窓の外を見た。丘の向こうには煌びやかでファンシーな装飾がなされ、楽しげな音楽が聞こえてくる。もうすぐ式は始まるらしい。
 その前に、別れを告げたい相手がいた。私は医務室に駆け込むと、ちょうどレイジュ様がベッドから立ち上がった頃だった。
「どうしたの……ああ」
 レイジュ様は私の顔を見て悟ったようだった。
「……行くのね、クロエ。サンジと一緒に」
「……はい」
「私は止めないわ……少し寂しくはなるけど、私のことは気にしないで」
 レイジュ様は微笑んだ。私は思わず彼女を抱きしめた。一度も触れることのなかった体を抱きしめた。
「レイジュ様……今までお世話になりました」
 目から熱いものがこぼれてくる。レイジュ様は少し体を離して、私の涙を拭った。
「何泣いてるの。世話になったのは私の方よ……元気でね、クロエ」
「はい……!」
 レイジュ様には本当にお世話になった。サンジ様がいなくなったあとは、レイジュ様が私の拠り所になった。感謝と別れを告げる。名残惜しく思いながらも、私は城を出た。
 見張りの兵士にどこへ行くのか問われたが、その兵士を膝蹴りして気絶させた。腐ってもジェルマの侍女。基本的な戦い方は教育されている。
 北へ向かう乗り物などなく、私はただ歩いた。きっと今、騒動は始まっているだろう。私は急いだ。逃げ出すのに時間がかかることはわかるが、私の不在でサンジ様たちに迷惑をかけるのは避けたい。
 浜に着いたのは正午過ぎだった。遠くで銃声や砲撃の音が響く。私は待った。サンジ様を、麦わらたちを信じていた。最悪の事態など思い描けなかった。サンジ様ならやり遂げるはず。信念を持つサンジ様が、ビッグ・マムごときにやられるはずはない。
 砲撃の音は徐々に近づいてきていた。もしや、と私は思う。麦わらの船がこちらに逃げてきているのではないか。私は祈るような気持ちで海を見つめた。そして――。
「クロエ!!」
 ライオンの船首が見えたと思えば、船が現れた。サンジ様がこちらに手を振っている。麦わらのルフィに何か言ったと思えば、急に手が伸びてきて、私の腰を掴んだ。
「えっ!?」
 そのまま飛ばされるように船の床へ下ろされる。
「わっ……と!」
「おい、もっと丁寧にクロエを扱え!」
「しし、悪ィ悪ィ」
 床にへたり込む麦わらのルフィにサンジ様が怒る。激闘の末なのだろう。麦わらのルフィは傷だらけで疲れているように見えた。
「あんたがクロエ? 悪いけど自己紹介してる時間はないの、手伝ってくれる?」
 雲のようなものを出して砲弾を湿らせている、泥棒猫のナミは言った。私は「はい」と頷いて砲撃を足で返した。
「うおっ、やるなーお前!」
「なんたってクロエだからな」
「どこで修行したんじゃ?」
 船を砲撃から守りながらも、わいわいと麦わらの一味の皆が聞いてくる。私はそれに返しているうちに、居心地の良さを感じた。この一味に溶け込めるような気がした。
 冒険は甘いものではない。きっとこれから困難が多くあるだろう。けれど、一味たちが、サンジ様がいれば、根拠はなくても何とかなるという気がした。だって私は、サンジ様を信じているから――愛しているから、信じられるのだ。

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