こんなにアンニュイな気持ちなのは、今が秋の気候だからか。
 もう何度目かもわからないため息に、とうとうナミが海図から顔を上げてこちらを睨む。

「あんた、さっきからため息ばっかついて、どうしたのよ?」

「ん? うーん」

 話すべきか、話すべきでないか。幸いここアクアリウムには、自分とナミ以外誰もいなかった。しかし、先日サンジをタイプじゃないと言ってしまった手前、今更好きになったなんて言えない。悩んでいると、ナミは何気なく言った。

「サンジくんでしょ?」

「なっ」

 どうしてわかったのか。まじまじとナミを見る。彼女は呆れたようにため息をついた。

「サンジくんに対する態度が、今までとは違うって傍目からでもわかるわ。おやつの時とか、どう接したら良いかわからない感じが出てるもの。今までが無関心だったから余計に目立つわね」

 隠しているつもりだったけれど、そんな風に見えていたのか。驚いていると、ナミはにやりと笑った。

「んで、サンジくんと何かあったの? もしかして、好きになっちゃった?」

 この人に隠し通すことなど無理だった。「うん、まあ……」と頷けば、ナミの笑みは深くなった。

「タイプじゃなかったんじゃないの?」

「うん、タイプじゃなかったんだけど……話してみたら価値観が凄く合うなと思って、そんなに合う人今までいなかったから、それでなんとなく、好きになっちゃった」

 最後のほうは声が小さくなった。今までは、好きと思ったら好きと、その場で言えたのに。今度は違う。自分の中に生まれたあたたかくて切ない感情を、大事に育みたいと思うような、そんな恋愛だ。
 そう話すと、ナミは優しい笑みを浮かべた。

「それはきっと、本当の恋愛ね」

「本当の恋愛?」

「そう。多分クロエが今まで生きてきた中で初めての、ちゃんとした恋愛感情、ね」

「まあ、クロエの今までの恋愛を否定するつもりはないけどね」とナミはアイスティーのストローを咥える。
 本当の、ちゃんとした恋愛感情。反芻して、すんなり受け入れられた。これが、本当の恋愛。

「……クロエのコップ空だけど、サンジくんからおかわりもらわないの?」

「えっ!」

 そういえば、自分のコップは空になっている。けれどサンジと会うには心の準備が必要で、「行かない」と首を振る。ナミは「そう」と言い、二人分のコップを持って立ち上がった。

「これ、サンジくんに返してもいい?」

「いいよ」

 ありがとう、と礼を言う。話を聞いてくれたことにも、ありがとう、と。ナミは笑って応えた。

「いいのよ。今日、あんたが不寝番でしょ? サンジくん、多分何かあったかい飲み物くれるわよ」

「がんばってね」と言って、ナミは出て行った。そうだ、今日は不寝番の日だ。そういう日は必ずサンジが飲み物を持ってきてくれる。今までは単純に礼を言って受け取るだけだった。けれどナミは、そこでの進展を期待している。暗い船上で二人きりというシチュエーションだからだ。
 考えるだけで緊張する。本当に、こんな感情は初めてだ。でも、この恋を諦めたくはない。クロエは少し頑張ってみようと心に決めた。



 夜の帳はとうに落ち、辺りには静かで暗い海が広がっている。煙草の煙は吐くたびに風にさらわれ、闇の中へ消えていった。秋の気候であるため、日中は過ごしやすいが、夜は冷える。
 今日の不寝番は誰だったろうと、展望室を見上げる。昨日はフランキーだったから、今日はクロエだ。あたたかいココアを持っていってあげよう、と甲板からダイニングへ踵を返す。
 最近、クロエの様子が変だ。いつもより、少し様子が違う。まず、あまり自分と目を合わさない。そして口数も少なくなってしまう。夏島ではあんなに話していたというのに。
 夏島で入った喫茶店で彼女と話したことは、今も鮮明に覚えている。女性とあれほどまでに話が弾んだことはない。本当に楽しかった。価値観が合う、というのはこんなにも素敵で素晴らしいことなのかと、実感した。
 知らず知らず口角が上がる。また、あんな風にクロエと話したかった。彼女の吸い込まれそうな瞳を存分に見つめて、笑い合いたかった。
 そんな思いを込めて作ったココアを持ち、展望室へ上がる。ドアをノックすれば、クロエが顔を出した。寒そうに毛布にくるまっている。かわいらしい姿に、頬が緩む。

「クロエちゃんに、ココア持ってきたよ」

 そっと渡せば、ありがとう、と彼女は礼を言った。その目はやはり伏せられている。残念に思うが、仕方がない。諦めて戻ろうと後ろを向いたとき、ぐんと引っ張られた。振り向くと、クロエがスーツの裾を掴んでいる。

「クロエちゃん?」

「……ちょっと、お話ししていかない?」

 こちらを見上げる彼女の目は、不安げに潤んでいた。見たことのない表情に、ひどく心を揺さぶられる。抱きしめたくなるのを堪え、クロエとともに展望室へ入った。
 展望室を囲むベンチには座らず、クロエは地べたに座り込む。サンジはその隣に胡座をかいた。
「寒くない?」と毛布をこちらにかけてくれる。その気遣いが嬉しくて、また頬が緩んでしまう。彼女と二人きりという状況自体、嬉しかった。

「……こんな風に、クロエちゃんと二人で話すの、久しぶりだなァ」

「うん」と彼女が頷く。

「ごめんね、あれからサンジとあんまり話さなくて」

 ちょっと理由があるの、と話す彼女の横顔は憂いがあり、切なげで、とても綺麗だった。思わず、見惚れる。初めて会ったときからそうだった。彼女の表情に、いつも心を動かされ続けている。

「……私は、サンジを好きになっちゃったんだと思う」

 一瞬何を言っているのかわからなかった。言葉の意味を飲み込んで、じわじわと喜びが心に染み渡っていく。

「喫茶店で話したあの日から、私、サンジのこと好きになっちゃったの。だって、こんなに価値観の合う男性いなかったから。今まではタイプじゃないと思ってたんだけど、って、そんなことはどうでもよくて……とにかく、私は今、サンジを異性として好き。サンジは、私をどう思う?」

 クロエがこちらを向く。不安げに揺れる瞳。口より先に、身体が動いていた。華奢な身体を毛布ごと抱きしめる。
「サンジ?」と慌てたようにクロエが言う。サンジはますます両腕に力を込めた。彼女が離れられないように。

「……おれも、クロエちゃんが好き」

 ずっとこの言葉が言いたかったのだと、口にしてはじめて気づいた。彼女への想いはとめどなくあふれてくる。

「最初に会ったときから、好きだった。クロエちゃんが他の男にデレデレする度、その男に苛立ちを感じた……たぶん、それは嫉妬だったんだ。夏島で話して、クロエちゃんと価値観が合って、クソ楽しかった。クロエちゃんを見る度、クロエちゃんと話す度、心が動かされる。こんな気持ち、はじめてなんだ」

「私も……こんな気持ち、はじめて。ナミが言ってた、これが本当の恋愛だって」

 お互い、はじめて本当の恋愛をしていた。自分でコントロールできない感情、それこそが恋なのだ。

「……付き合って、くれるかい?」

 クロエの耳元で、ゆっくりと囁く。頷いたのを見て、サンジは一層強く彼女を抱きしめた。絶対に離したくなかった。この喜びを、彼女にも感じてほしかった。『好き』という感情は、独占欲にも似たものなのだと、知った。
 
20210714

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