母が私を捨てたのは、私が7歳の時だった。
「行ってくるね、いい子にしてるのよ」と彼女は軽く言うものだから、私は大人しく頷いて、いい子にして待っていた。
ワンルームには香水と白粉の人工的な匂いが漂って、いつになくその匂いが鼻の奥を刺激した。窓を開ければよかったのかもしれない。けれどその頃の私は、たぶん鍵には手が届かなかった。
私はいつまでも母の帰りを待った。いつまでも母は帰ってこなかった。そして、いつまでも粉っぽいきつい匂いに鼻が慣れることはなかった。空腹だったから余計に気分が悪くなった。
その香りを吹き飛ばすようにやってきたのが、押し入れの中のような、甘く淀んだ、けれど落ち着く匂い――私の祖父だった。
祖父は、私の父方にあたる。早くに死んでしまって、それまで現実に認識していなかった私の父が、その時になって急に姿を現した。祖父の言うところには、それまで母は祖父と私を会わせなかったらしい。理由は母にしかわからない。
祖父は私を東京から、祖父の住む東北の雪国へ連れ帰った。さくらんぼ農家を営む祖父は、広い農園を持っていて、基本的に一人でさくらんぼの世話をしていた。
「……おばあちゃんはいないの?」
軽トラックの助手席から緑に茂る農園を眺めながら、そう私が尋ねると、祖父は前を向いたまま首を振った。
「ばあちゃんは死んで、この世にゃいねェんだ」
彼はただ事実を言っただけで、その言葉の裏には何の感情もなかった。
祖父の家は立派だった。黒い瓦屋根に何室も続く畳、煌びやかな襖。昔は豪農だったらしく、今の広い土地はその頃から持っているようだ。
私は中学に上がると離れを与えられた。年頃の娘のために用意してくれた小さな家だ。離れにはトイレもお風呂もあって、一人で籠もることも可能だった。私はたまに、一人になりたいときだけ離れに閉じこもった。反抗期を迎えたことはない。けれど、どうしようもないとき――主に母のことを思い出したとき――は、祖父の点けるテレビの音も煩わしくなって、一人になった。
それを反抗期と言うのではないかと思う人もいるだろう。けれど、違うと言い張れる。私は本当の反抗期を知っていた――隣に住むサンジを見ていたから。
家の隣には「バラティエ」という、洋風レストランがある。オーナーはゼフという名の男性だ。若くはないが、祖父よりは若い。どうしてか口ひげを三つ編みにしているので、彼はとても目立つ。
ゼフと同じくらいに目立つのがサンジだ。金色の髪で左目を隠し、その眉はぐるりと円を描いている。
二人と初めて会った時、どうしてそんな外見になったのか聞いたことがある。二人は「生まれつきだ」と口を揃えて言った。
同い年のサンジとは、よく一緒に遊んだ。夏は虫取りに水遊び、冬は雪合戦に雪だるま作り。思春期になるとさすがにそんな遊びはしなくなったけれど、今度は私の住む離れで、少し趣向の違う遊びをした。サンジはゼフを疎んでいたものの、私のことは嫌いにならなかったらしい。
サンジに触れられるのは嫌ではなかった。むしろ心地よかった。指先の優しさに涙が出そうになって、時々本当に泣いたりして彼を困らせた。

一歩歩く度に、ずぶずぶとスノーブーツが雪に埋もれていく。それを私はよいしょと引き上げ、また一歩バラティエへ近づく。
この地方では「どかっ」という擬音がぴったり合うほど雪が降る。一つ一つの結晶は小さいのに、一時間後にはなぜか数センチ積もっている。
私はここにやってきてから、冬が好きになった。雪は汚いものも綺麗なものも、真っ白に覆い隠してくれる。肺に冷気が入る度に、自分が透き通って、清い存在になれるような気がする。現実とかけ離れた気分が味わえるから、だから好きだ。
ようやく辿り着いた二重戸の勝手口を開く。中ではゼフが石油ストーブの前で座っていた。今日は定休日。母屋の窓からゼフの姿が見えたから、サンジもいるかと思って、バラティエを訪ねた。
「……クロエか。サンジなら厨房だぞ」
「料理してるの?」
手袋を脱いで、ストーブに手をかざしながら尋ねる。真ん中にある銀色の作業台の上には、湯気の立つ美味しそうな料理がいくつも並んでいた。サンジの作った料理だと、直感でわかった。
「あァ……練習してる」
好きなの取ってっていいぞ、とゼフは顎でしゃくった。
今までもサンジは定休日に料理の練習をすることはあった。けれど、この量は初めてだ。
「何か、大会でもあるの?」
ゼフは無言でこちらを見やる。怪訝そうな目。
「……知らねェのか?」
「……何を?」
「あいつァ、上京するんだ。おれの知り合いの店で、修行することになってる」
知らなかった。そんなこと、サンジは言ってくれなかった。
口ははっと息を吸い込んで、そのままの状態で開いていた。なんと言っていいかわからなかった。口は動かないくせに、指先は無意識に曲げ伸ばしして暖をとろうとしている。
「……まァ、あいつなりに、お前に言うタイミングを計ってるんだろう」
私を気遣かった一言が、この土間の不安定な暖かさに包まれて、消えた。

それから私は離れに戻った。サンジの料理はいくつか頂戴して、祖父にあげた。私はお昼を食べる気にはなれなかった。
私は夜まで、離れに閉じこもってどこにも行かなかった。ただソファに座って、変わり映えのない窓の外を眺めていた。外には雪に埋もれた庭があるだけだ。笠を被った松とか梅の木がかろうじて立っているだけの庭だ。
いつの間にか外は暗くなって、カーテンを閉めないとと思うものの、体が動かなかった。私の心は想像以上に動揺して震えていた。
私を動かしたのは呼び鈴だった。重い体を無理やり立ち上がらせて玄関を開けると、サンジの姿があった。
「よォ」
「……サンジ」
一番会いたくて、一番会いたくない人物だった。私の体は自然と後ろに下がって、サンジを受け入れる。サンジも慣れたように玄関を上がった。
「うお、真っ暗じゃねェか! 何かあったのか?」
部屋の電気をつけながらサンジは心配そうに眉を下げる。幸いゼフは何も言わなかったようだ。「何でもないよ」と無理して笑って、彼の手元に視線を落とす。サンジは袋を提げていた。
「……それは?」
「ああ、おれの作ったメシだ。夕飯まだだろ? 一緒に食おう」
「おじいちゃんのは……」
「もちろんあげたさ。一緒に食べようって誘ったんだが、若人の邪魔はしたくねェって」
「そう」
祖父はもちろん私とサンジの関係に気づいている。だからサンジが来る度、祖父は離れには来ない。口数の少ない祖父が、サンジをどう思っているかはわからない。
レンジで料理をチンして、テーブルを拭いて皿を乗せる。サンジと隣同士でソファに座り、夕食を食べた。人の心の機微に敏感なサンジは、きっと私の沈んだ心に気づいているだろう。気づいていて理由を聞かないのが、彼の優しさだった。彼は私が話すのを待ってくれている。
「……今日は泊まってくの?」
「あァ、明日も休みだからな」
私たちは高校を卒業したばかりだった。だからもう、学校に通う必要はなかった。代わりに私は、来月から職場に通わなければならない。
私とサンジはそれぞれ時間をずらしてお風呂に入った。サンジの後にあがると、すでに布団がひとつ敷かれていて、サンジが寝そべっていた。
もうひとつ用意するべく押し入れを開けようとすると、サンジは布団をこちらに開いた。
「一緒に入ろう。そのほうがあったかいだろ」
私は何も言わないで、サンジの布団に潜り込む。温もりを感じた途端に、大きな手でするりと体を囚われてしまった。腰元に巻きついたその手に、自分の手を重ねる。
「……クロエ、今日は何があったんだ?」
耳元で心配そうに言うものだから、私はもう観念して話すしかない。
「ゼフに聞いたよ……サンジ、上京するんだってね」
後ろで微かに空気が動くのを感じた。
「私、知らなかった」
どうして話してくれなかったの?なんて責める気はなかった。だから単純に事実だけを言った。
サンジは言葉を選ぶようにぽつりぽつりと話した。
「……悪ィ、クロエ。今日言うつもりだったんだ。おれは、こう話すつもりだった」
サンジが一呼吸する。耳に息が触れてくすぐったかった。
「おれは東京で修行して、いつかこっちに戻って自分の店を開く……その時まで待っていてくれるか?」
思いがけない言葉にぐるりと後ろを向いた。サンジは見たことのない緊張した表情で、ただ私の返事を待っている。
私は返事ができなかった。待つことには慣れていたけれど、大人びたサンジの隣に立って、はにかみながら笑っている未来の私が想像できなかった。だって私には今しかない。未来の私なんて、想像したくない。
返事の代わりに、彼の不安げな唇にそっと口付けた。肯定と受け止めたサンジによって、それはどんどん深まっていく。そうして私は彼の背中に腕を回した。





「とさ」という微かな音で目が覚めた。屋根から雪が落ちた音だ。窓にはカーテンが閉めてあったけれど、その隙間から僅かに見える光の動きで、外ではこんこんと雪が降っているとわかった。
隣ではサンジが静かに眠っている。布団に顔を埋めているから、私のむき出しの肩あたりに吐息がかかって生暖かい。
静寂がこの辺りを包み込んでいた。ひとつ音を立てただけで、台無しになるような静寂だったから、私は音を立てないように、サンジを起こさないように、じっと布団の中にいるしかない。
それはまったく苦ではなかった。むしろこの静けさに溶け込んでいることが嬉しかった。
今のこの時が一生続いて、サンジはずっとここにいて、私はいつまでも彼の吐息を感じていられればいいのに、と天井の木目を見ながらふと思った。サンジも私も、このままひそやかな静寂の中に閉じ込められたらいいのに。

20211213

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