クロエは息を潜め、耳を澄ましていた。この樽の中に入った時には木の間から薄く漏れる光だけが頼りだったが、今は目も慣れ木目まではっきりと見える。空気の流れから、自分が船上にいることもわかった。
「わたあめ雪だ」
「そろそろトットランドを抜けるな」
兵士たちが話している声が聞こえてくる。クロエは頭で蓋を持ち上げ、目だけを出して、そっと外の様子をうかがった。
彼らの言うとおり、船上には白い雪が舞っている。わたあめ雪を見たことのないクロエは、その光景に胸が躍る。本当にトットランドを出るのだ。そして、イーストブルーへ――。
「……クロエ?」
辺りに誰もいないと思って様子を見ていたが、後ろから声を掛けられた。振り向けば、カタクリが眉をひそめて立っている。
バレては仕方がないと、クロエは樽の中から出て、いつも通りに挨拶した。
「……カタクリ兄さん、こんにちは」
「こんにちは、じゃないだろう。ここで何をしてる?」
「私もイーストブルーに行きたくて、隠れて乗り込んだの! 一緒に行っていいでしょ?」
「ダメだ。今から引き返す」
「なんで!?」
「この先の海は危険だ。お前がいると足手まといになる」
確かに、自分はまだ幼いし、能力だって低い。
それでもクロエは諦めなかった。一度でいいから、トットランド以外の島々に行ってみたかった。イーストブルーの平穏な光景を目にしたかった。それが危険を伴う旅だったとしても。
「……私を降ろしても、絶対どうにかして乗り込むよ!」
「………………」
カタクリは無言で自分を睨んだ。さすがは10億の男。その一睨みの効果は絶大で、クロエは「いいです、降ります」と降参したくなったがここで負けては一生イーストブルーへは行けないだろうという確信があった。負けじとカタクリを正面から見つめ返す。
「私は、絶対絶対イーストブルーに行くんだから!」
クロエがそこまでイーストブルーに行きたい理由は、そこに海上レストランがあると知ったからだ。美食家雑誌に載っていたその店は、編集者評価が星5つになっていた。どれほど美味しい店なのか、行って食してみたかった。
クロエは食べることが好きだった。美味しいものを食べることに関しては、妥協を許さなかった。ママの娘という特権で、クロエには特別に新世界で有名なシェフがついていた。おかげで毎日美味な料理を食べていたのである。
もちろん自分で作ることもたまにあるが、納得いくものはできず、最近はシェフに任せっきりだ。料理の奥深さを知りつつも、味の追求はしない。作ることより出来上がりを食すことの方が何よりも好きだった。
カタクリはため息をついた。クロエが勝った合図だった。
「……そこまで言うならいいだろう。ただし、敵襲があった時は寝床に隠れて絶対に足手まといになるな。いいな?」
「わかった! ありがとう、カタクリ兄さん」
クロエは感極まってカタクリに抱きついた。彼は大きすぎるため両手が背中に届かない。頭の上にぽんと大きな手が乗った。クロエは兄弟思いの、優しくて強いカタクリが大好きだった。
船は数々の島々を経由しながらレッドラインを抜けた。船旅は楽しかったが、様々な危険を伴った。ママに恨みを持つ海賊に襲撃されたり、毒キノコを食べそうになったり。だから、半年程でようやくイーストブルーへ辿り着いた時には、その穏やかな海に涙が出そうになった。ずっと来たかった楽園。遠くには、夢にまで見た海上レストランが見える。
クロエは真っ先にバラティエへ向かいたかったが、カタクリの仕事が先だった。
イーストブルーにママの琴線に触れた者がいるらしく、そいつを処分することがカタクリの仕事だった。最弱の海へわざわざカタクリを派遣せずとも、ママと同盟を結んでいる海賊に始末させればいいように思えるが、ママは直接手を下したいようだった。
カタクリの仕事は予想した通りあっという間に片付いた。あまりにも呆気なかったため、クロエはそいつが何をしたのか聞くこともできなかった。
しかし仕事は速ければ速いほどいい。わざわざ朝ごはんを少なめにしてお腹を空かせたクロエは、カタクリをバラティエへ強引に連れていった。カタクリは基本的にレストランなどでご飯を食べない。「おれは行かない」と彼は言い張ったが、クロエは美味しい料理は誰かと分かち合うのがいいのだと利己主義を発揮しカタクリを連れ出した。
バラティエは近くで見ると、魚の船首をしていて、全体がかわいい形をしていた。
「さすがは一流レストラン! 外見も凝ってるわ」
「………………」
先程から無言のカタクリを連れて、店内へ入る。中は広く、いくつものテーブルがあり、窓からの光がゆったりしたクロスをより白く輝かせていた。人々の表情も明るい。いい店だとすぐにわかった。
「いらっしゃいま……」
ウェイターが振り返り、「ひっ」と小さな悲鳴を上げる。カタクリの迫力に気圧されたのだろう。クロエは構わず「二人です」と指を二本上げて示した。
「こ、こちらへどうぞ……」
周囲の視線を浴びながら、促された席に座る。ひそひそと交わされる声はおそらくこう言っているのだろう。
「なんだ、あの人めちゃくちゃ大きいぞ」
「それに只者じゃない感じ……」
「大丈夫かしら、怒ったら手のつけようがないわ」
「一緒にいる子供はどういう関係だ?」
クロエはそんな声に耳を貸さず、メニューを手に取った。カタクリにも見えるよう、真ん中に置いてあげる。
「編集者のオススメはシーフードピラフって書いてあったから、私はそれにしようかな。兄さんはどれがいい?」
「……おれもそれでいい」
「えっ、ほんと? 違うの頼んで味見したかったんだけど……」
「……じゃあシチューで」
カタクリはこの時のためにイーストブルーへやってきたクロエの気持ちを汲んでくれた。
「ありがとう! すみませーん」
ウェイターを呼び、注文を終える。10分ほどで料理がやってきた。
「わあ!」
綺麗に丸く盛られたピラフは、香ばしい匂いを漂わせていた。
「……いただきます!」
スプーンで掬って一口。
「ん! うっま〜〜〜い!!」
店内にクロエの声が響いた。
「エビがプリップリ、食感を損ねないように調理されてるのね。鼻に抜けるこの香りはちゃんとフランベされてる証だわ、何より味つけが凝ってる、普通のピラフと思って食べると裏切られるこの感じ、久しぶり! 美味しい!!」
「……お前は本当に10歳か?」
「兄さんのも味見させて!」とカタクリのシチューを見ると、彼はすでに半分も食べてしまったらしい。食事の時も口元を隠すカタクリは、目にも止まらぬ速さで食べる。
「兄さん、食べるの早すぎ! 料理は味わって食べるものよ」
「おれは自分のペースで食う。口を出すな」
「兄さんがそう言うなら」とクロエはこれ以上は口うるさく言わず、カタクリのシチューを掬った。ゴロリとした人参ごと一口で食べる。
「うっま〜〜〜い!!」
クロエは興奮しながらウェイターを呼んだ。
「ちょっ、ちょっと、シェフ呼んでください、シェフ!!」
「は、はい!!」
ウェイターが連れてきたのは、口髭を三つ編みした不思議な初老の男性と、金髪で左目を隠し眉がぐるりと円を描いている少年だった。
「なんでてめェもついてくるんだ!?」
「いいだろ、おれも下ごしらえしたんだ!!」
――下ごしらえ? 二人の口喧嘩に、クロエは首を傾げた。少年はコック服を着ている。もしかして。
「……あなたもコックなの?」
ゼフと名乗ったシェフに、クロエ史上最上の賛辞を述べた後、少年に目を向ける。彼はサンジと名乗った。
サンジは目が合うと、顔を赤くして下を向いた。両手で自分の服を握りしめながら、呟くように言う。
「……あァ、おれもここでコックとして働いてるんだ」
「そうなんだ、すごいね!」
同じくらいの歳で働いているサンジを、クロエは尊敬した。それも自分が挫折した料理の仕事。
もっとサンジと話がしてみたくなり、クロエはこう提案した。
「ねえ、サンジはいつ頃仕事が終わるの? よかったらもっとお話したいんだけど……」
「……八時ぐれェかな」
「今日は昼で上がっていいぞ」
そうゼフが口を挟んだ。
「えっ!?」とサンジが目を丸くしてゼフを見上げる。
「いいのか?」
「あァ、今日は特別だ。嬢ちゃんたちはこの辺の人間じゃねェだろ?」
さすがは元海賊。鋭い言葉に頷く。
「……だったら尚更だ。こいつの相手してやってくれ」
「なんだ、『相手してやれ』って! おれが子供みてェじゃねェか!!」
「実際そうだろ、チビナス」
「なんだとォ!!」
仲の良さそうな二人の様子に思わず笑ってしまう。親子なのだろうか。
「……いや、血は繋がってねェんだ。ただ、親子同然だって思ってる」
クロエは聞いてはいけないことを聞いてしまったかと心配したが、サンジは気に留めていないようだった。
窓の外の海は静かで燦々とした陽光に満ちている。おかげで掛けているベッドは温かく、過ごしやすかった。
ここはバラティエのサンジの部屋。二人で話せる場所というと、ここしかないのだそうだ。「女の子を部屋に入れたのは初めてだ」と照れたように言うサンジを、クロエは可愛いと思った。同い年だと言うのにどうしてそう思ったのか、自分でもよくわからない。
クロエたちはベッドに腰掛け、料理の話をした。料理に通じる同い年の人と話すのは初めてだったため、クロエは嬉しく、話は盛り上がった。サンジは料理を作ることが大好きらしく、彼の表情は輝いて見えた。
料理の話をひとしきりした後は、カタクリの話になった。彼は兄なのだと教えると、サンジはびっくりしていた。
「あの人、クロエの兄さんなのか!? 全然似てねェなァ」
「お父さんは違うからね」
「そうなのか……」
「……カタクリ兄さんはとっても強いの。それに比べて私は、兄弟の中でいちばん弱い」
クロエは自分がビッグマム海賊団の一員であることを隠すつもりだったが、つい本音が出てしまった。
「なんでそう思うんだ?」
「……私はネムネムの実を食べた、悪魔の実の能力者なの。手をかざすだけで相手を眠らせることが出来るんだけど、兄弟の中には音楽とかで人を眠らせられる人がいっぱいいるから、特別な能力じゃないの。眠らせることで攻撃はできないし……」
自分の言葉に自分で落ち込む。俯くと、明るい声が返ってきた。
「人を眠らせられるなんて、クソすげェ能力だよ!! 攻撃なんかしなくても、眠ってる間に逃げられるし、自分を守れるじゃねェか!!」
その考えはクロエにはなかった。心の底からそう思っているかのように、感心した顔で言うサンジにドキリとする。何だろう、先ほどからサンジの一挙一動に目を奪われてしまう。
さあっと突然窓の外から柔らかい音が聞こえてきた。雨だ。二人で外を見ているうちに、雨は止んでしまった。
「……にわか雨かな」
「たぶん」
「……私の国では、水飴が降るんだよ」
サンジは水飴と聞いて驚いたようだった。
「えっ、水飴!? じゃあ甘いのか?」
「そう。甘くてベタベタするの。だから雨の日は外に出ないんだ」
「へえ! 行ってみてェな、クロエの国に」
クロエはつい、「来てよ!」と言ってしまった。
「サンジが私の国に来たら、みんなで歓迎するよ! 美味しいお菓子もいっぱいあるんだよ!! サンジに食べてもらいたいなあ……」
「クロエの国はどこにあるんだ?」
「……新世界」
「えっ!?」とサンジはまたも驚く。それもそうだ。新世界から遥々イーストブルーに来る人などいないに等しい。
「新世界ってレッドライン越えたとこにあるんだよな?」
「そうだよ」
「じゃあ、クロエはオールブルーを知ってるか?」
期待を込めた目で見つめられるも、クロエは知らなかった。正直にそう言うと、がくりとサンジは肩を落とした。
「そうか……新世界に住むクロエも知らねェのか……」
「それって、どんな海なの?」
よくぞ聞いてくれたとでもいうように、サンジはぱっと顔を輝かせた。
「東西南北、全ての海の魚が泳ぐ海なんだ! おれはその海を見るのが夢なんだ」
「へえ、素敵な夢ね!」
「クロエは、夢とかあるか?」
「そうね……全ての海の美味しい料理を堪能することと……かっこいい王子様と結婚することかしら」
「……それって、どんな王子なんだ?」
まさか王子を掘り下げられるとは思わず、一瞬答えに窮したものの、クロエは自分の思い描く王子像を答えた。
「えっ、かっこよくて、優しくて、でもとっても強い……それでいて美味しい料理も作ってくれる人がいいな」
「コックの王子なのか?」
「そうね、コックの王子様が理想かも!」
「……なァ、クロエ、おれなんかはどうだ?」
サンジは声を絞り出すように言った。相当の勇気を振り絞っているのだとわかった。
「おれ、絶対ェ強くなるし、料理だって今よりもっと上手くなるから、だから……」
クロエは笑みでその言葉に答えた。自分を好きになってくれたサンジが愛おしく、同時にとてつもなく嬉しかった。サンジへの甘酸っぱい感情の名前がわかった。
「いいよ」
「!?」
「新世界で待ってる……その時がきたら、私を迎えに来て」
「!! ああ! 必ず行く!!」
サンジはそう宣言してくれた。クロエは思わず、彼の頬に口付けた。途端にぼっとサンジの顔は赤くなり、目をハートにしてベッドに倒れてしまった。
「サ、サンジ? 大丈夫?」
「おいクロエ」
ドアが開き、カタクリが姿を現した。
「そろそろ帰るぞ、あんまりここにいるとママが怪しむ」
「……わかった」
はっと起き出したサンジに、お礼を言う。
「そろそろ帰らなくちゃ……お話出来て楽しかったよ、ありがとう」
「おれのほうこそ……外まで見送るよ」
「ううん、大丈夫」
クロエたちは小舟でここまで来ていたが、海賊団の船は近くにあった。海賊と知られる可能性があるため辞退した。
まだ帰りたくなかった。もっとサンジと一緒にいたかった。けれど、ママに怪しまれるのは危険だ。
名残惜しい気持ちを振り切り、立ち上がる。
「じゃあ、またね」
また会えるように、と手を振れば、彼も手を振り返してくれた。
「ああ、また!」
サンジの部屋を出て、ドアを閉める。夢の時間は終わり。クロエはトットランドに、現実に帰らなければならない。それでも、こう思わずにはいられない。
どうかどうか、サンジとまた会えますように。ママの用意した結婚相手と結婚する前に、会えますように。





「――クロエ姉さん」
聞き慣れた声にクロエは目を覚ました――いや、自分の目を覚まさせた。
上体を起こせば、腕に付けられた点滴のチューブも揺れる。ベッド脇に立つプリンは、料理が乗ったお盆を持っていた。
「今日の夕食よ」
「いつもありがとう、プリン」
渡されたお盆を膝に乗せ、スプーンを手に取る。今日の夕食はシチュー。湯気が立ち、美味しそうな匂いがする。
「いただきます」
息を吹きかけて一口。ホワイトソースのまろやかな旨み。美味しい。けれど、バラティエのシチューのほうがもっと美味しかった。
あれから10年は経つのに未だに忘れられない。バラティエの味を、コックの少年のことを。
「……手配書出てたわよ」
「!! 見せて!」
はらりと渡された手配書を、じっと見つめる。「黒足のサンジ 懸賞金1億7700万ベリー」。目をハートにした金髪の男性が大きく写っている。今までが似顔絵だったため、初めてのサンジの実像に胸が高鳴った。
「すごい、やっぱり大人になったのね、髭が生えてる! 分け目も変えたのかしら……ん? でも『ONLY ALIVE』?」
「生け捕り、ね。サンジはヴィンスモーク家の三男だったらしいわ」
「……え?」
思いがけない言葉に、まじまじとプリンを見る。彼女はスツールに腰掛け、足を組んだ。そして気だるげに言った。
「私、サンジと結婚することになったらしいの」
「ええっ!?」
私が結婚したかった、と言えば、プリンは首を振った。
「違うのよ、姉さん。いつもの仕事よ。結婚式でサンジもヴィンスモーク家も皆殺し」
顔から血の気が引くのを感じた。
「何それ……そんなこと、絶対させない……」
プリンは吹き出した。
「16歳からずーっと寝てる姉さんに阻止できるの? というか、いつまでその生活続ける気よ?」
「それは……」
クロエは16歳を目前に眠りについた。結婚できる年齢になれば、ママが勝手に結婚相手を見繕う。それに抵抗するために、自らに能力を使った。自分の意思で起きようとしなければ、誰がどんな風に起こしても起きなかった。
ただ一人だけ、クロエは例外を作った。それがプリンだ。彼女に毎晩夕食を持ってきてもらうようにした。もちろん彼女の演技力を見込んでのことだ。自分が毎晩起きて夕食を食べていると知られれば、面倒なことになる。だからプリンに白羽の矢が立った。クロエは眠りで食べられなくなることが何より嫌だったのだ。
「だいたい、ローラ姉さんみたいにさっさとこの島を出て、サンジを探しに行けばよかったのよ。先に結婚してれば殺されることもなかったのに」
プリンの中ではすでにサンジは死んでいるようだった。
「……そう、だけど……私はローラ姉さんより弱いから」
プリンはびしっとこちらを指さした。
「それ! その考え、私大っ嫌い! 弱いのは身体能力じゃなくて精神力でしょ? 昔っからそう、クロエ姉さんは自分が弱いと思い込んでる。自分の能力が弱いと思うんなら、他のことで補えばいいのよ。私だって苦労したんだから」
プリンもメモメモの実を食べた能力者だ。相手の記憶を見たり、編集したりできる。クロエと同じく攻撃に特化したものではないが、プリンは演技力を磨きママのお気に入りになった。
「そもそも、サンジのこと本当に好きなの? 錯覚なんじゃないの? ほら、思い出補正ってやつ」
「失礼ね! サンジのことは本当に好きよ! 彼は優しくて気が合うの……恋をしたことがないプリンにはわからないわ!」
「そうね、一生わからなくていいわ。私は恋なんてしないから」
プリンは諦めたように言う。クロエはプリンのその厭世観が嫌いだ。三つ目であることを気にし、自分は化け物で普通の人間ではないのだと考えている。性格はひん曲がっているように見える(彼女がそう見せている)けれど、根は優しいいい子なのだ。
クロエが根気強くそれを言っても直らないため、無言でシチューを食べる。
サンジとプリンが結婚するとなると、サンジは必ずこの国にやってくる。眠っている場合でも、自分を弱いと思っている場合でもない。サンジを救うために、暗躍しなければならない。そのためには――
「……クロエ姉さん、何してるの?」
「腹筋よ、サンジを助けるのに体力つけないとと思って」
食べ終わったシチュー皿をテーブルに置き、両手を頭に置いて腹筋をする。寝たきりだったためなかなか辛い。そのうち腹痛がしてきた。
「あ、ダメ、お腹が……」
「食べたばっかなんだから当たり前でしょう?」
プリンはため息をつく。
「大体ずっと寝てた人が短期間で体力つけられると思ってるの?」
「そんなに猶予がないの!?」
「あと一ヶ月ってところかしら」
一ヶ月。長いようであっという間だ。クロエは毎日皆が寝静まった頃にトレーニングしようと決めた。
「ねえプリン、ここにエアロバイク持ってきてよ」
「ここは医務室だし、そんなの持ってきたら怪しまれるわよ!」
一ヶ月間、クロエはトレーニングに勤しんだ。サンジを救いたい、サンジと会いたいという一心で、どんなにキツくとも音を上げなかった。プリンはなんだかんだ言いつつもトレーニングに付き合ってくれた。彼女曰く、「愛の力」というものがどれだけの力なのか確かめたいのだそうだ。
「なら、サンジ殺すのやめてよ」
「嫌よ、ママの命令には逆らえない」
口では恋なんてしないと言うくせに、プリンは恋愛に興味津々なのだ。好きという感情は、ときに運命に影響を及ぼし、思わぬ力を生む。クロエはプリンにも恋愛をしてもらいたいと、ひそかに思った。

静かで柔らかい声に、クロエは意識の底で反応した。
――誰かしら?
「信じるのか……?」
「勿論……あなたは私をダマさない……」
男性と女性の声。
「――でもそこまでとは……プリン……あまりにいい娘すぎて嗅ぎ回ってたの……」
プリンを知っている。ということは――
「結婚せずおれ達を殺す気なら……おれが結婚すりゃルフィ達も助けてくれるなんて……そんなもの元々成立しねェじゃねェか……!! おれ一人が犠牲になれば丸く収まると思ってた……!! とんだ幻想だった……!!!」
――サンジだ。声は低くなっていたが、紛れもなくサンジが、女性と話していた。
「さすがの父も……少々驕ったわね。だけど、こっちにはいい機会だわ。『ジェルマ』はこのまま滅ぶべきだと思う」
「ジェルマ」とは、ヴィンスモーク家が統治する国家のことだ。女性の方はプリンが言っていた、サンジの姉だろうか。
「このまま気づかないフリをして……ビッグ・マムの計略通りに……」
「何言ってんだ!! お前も死ぬんだぞ!? レイジュ」
「――へぇ、私の心配してくれるの? 最後の思い出って厄介ね……昔の手助けくらいで恩なんか感じないで」
「…………!!」
「あなたは『麦わら』達と逃げなさい、サンジ」
「あァ!? そんなこと……たとえできても……!! 『バラティエ』はどうなる!?」
「それは逃げられてから考えればいい。ここにいたらみんな死ぬわ……ジェルマを捨てて逃げなさい、サンジ!! ビッグ・マムが欲しいのは私達の科学力。あなたの恩人の命にも興味はないはず。海上レストランを人質のようにふりかざす父も兄弟も明日殺される!! 当然の報いよ!! 人殺しの集団だもの!!」
「……おれだって……あいつらには恨みしかねェが……お前までなぜ死ぬんだ……!!」
「私にも情は残ってるけど……父の命令に逆らえないように改造された共犯者。手は汚れてる……死ぬべきよ――言い忘れたけどそのブレスレット、爆発なんてしないわ。私がすり替えておいたから」
「え……」
「島を出られない理由は他には!? しっかりしなさい、サンジ!! 大切なものをよく見て!! あんな素敵な奴ら、もう一生出会えないわよ!!!」
素敵な奴らとは、たぶん麦わらの一味のことだ。クロエはサンジ以外の手配書も勿論見ていた。サンジと共に旅する仲間も知っておきたかったのだ。
やがて衣擦れと同時にコツリと足音が響く。
「……おれは、何と言われようがお前らを助ける」
そうサンジは呟き、ドアの閉まる音がした。
――眠ってる場合じゃない!
クロエは腕に刺さっている点滴の針を抜き(勢いで抜いたのでとても痛かった)、プリンが用意してくれた、顔を隠すフード付きマントと靴を履いてカーテンを開けた。
ベッド上に横たわる、右目を隠した女性と目が合う。ぐるりと巻かれた眉はサンジと一緒だ。
「誰!?」
「私はシャーロット・クロエ……サンジを助けるこのときのために生きてきた!」
「え?」
さよなら!と医務室を飛び出し、金髪の後ろ姿を探す。彼はすでに数メートル先の廊下を走っていた。赤いマントがたなびいている。10年振りの再会に感動しかけたが、今は胸を熱くしている場合ではない。
「こらー! そこで何してる!?」
「待てー!!」
新郎のサンジを兵士たちが追っていた。クロエは手をかざし彼らを眠らせた。そしてサンジの後を援護するべく追いかけた。しかし――
――足が、速すぎる……!!
俊敏に走るサンジの速度に、クロエの足はなかなか追いつかない。トレーニングをしたと言っても一ヶ月ばかり。今まで寝ていたつけがここで出ていた。
それでも後ろを援護しながら彼を追う。彼に会いたいという気持ちはもちろんあったが、今は彼がここを逃げるための手助けをしたいという一心で追いかけていた。
サンジが城外に飛び出し、クロエも外へ出る。外は雨が降っていた。水飴の雨だ。
ベタベタと体にまとわりつく不快感。数年ぶりに感じる感覚だ。
やがてサンジは丘の上で立ち止まった。辺りには誰かにやられたらしい兵士たちや兄弟が倒れている。クロエは彼から離れた瓦礫の影に体を滑り込ませた。
サンジが相対しているのは、麦わらのルフィだった。何やら話をしている。
クロエはその声を聞く余裕がなかった。何しろ数年ぶりに体を動かしたのだ。息は切れ、心臓は張り裂けそうに脈を打った。クロエは思わず膝をついた。足がガクガクと震えている。
――情けない。
意識が遠のくのを感じながら、クロエは心の底からそう思った。

目が覚めると、きゅるんと大きな黒目がちの瞳と目が合った。
「わっ!!」
「?」
トナカイの角が生えた、その小さな生き物は、素早く棚に隠れる。ただ体は全く隠れていない。クロエはその姿に見覚えがあった。
「……あなた、わたあめ大好きチョッパーね!!」
「お、おれを知ってるのか?」
「ええ、サンジの仲間だもの!」
そう言って笑うと、チョッパーは警戒が解けたのか、恐る恐るこちらのベッドへ近づいてきた。
「お前、サンジの知り合いなのか? サンジ、お前のこと抱えてきたんだぞ、ここまで」
「……ここはどこなの?」
ここは医務室だろうか。ママの城のようにレンガに囲まれているが見覚えはない。
「ベッジのアジトだよ」
「ベッジ……?」
聞いたことのない名前だ。ママと同盟を結んだ海賊だろうか。
ふむ、と考え込んで、ふとチョッパーの言葉を思い返す。さっき、サンジがここまで私を抱えてきたと言わなかったか? 気付いた瞬間ぼふ、と顔に熱が集まった。
「ま、待って、チョッパーくん……今サンジが私をここまで抱えてって……」
「あァ、ルフィと再会したところで気ィ失ってるお前を見つけたって言ってたぞ……なんか、サンジがお前を『おれの大切な人だ』って言ってたけど、何者なんだ、お前?」
顔に一層熱が集まり、爆発してしまいそうだった。湯気を出すクロエに、チョッパーが大丈夫か! と心配する。本気で心配してくれているのを感じ、我に返った。
「大丈夫、大丈夫……私は、シャーロット・クロエ。シャーロット家の34女よ」
「えっ、じゃあお前もビッグ・マム海賊団の一員か!?」
「……まあ、そうなるんだけど、色々あってママとは不仲なの。私はサンジの味方よ。サンジも、チョッパーたちも、ここから助けたいって思ってる」
「……本当か?」
つぶらな瞳が不安げに揺れる。クロエはしっかり頷いてみせた。
「本当よ!」
「お、おれ、船長たち呼んでくる!!」
船長たち、ということはサンジも来るのだろうか。クロエは勝手に緊張してドキドキしていたが、彼は来なかった。
やってきたのは麦わらのルフィ、泥棒猫のナミ、ソウルキングブルック、チョッパー、そしてうさぎのような女の子、ライオンのような男性、魚人の男性だった。サンジは新郎ということで、少し前に城へ戻ったようだ。
「お前、サンジと知り合いなんだってな! サンジを助けたいってのは本当か?」
ルフィは明るい声で言った。ビッグ・マムの娘だというのに、まったく疑っていないようだった。
「ええ、本当よ! 私もあなたたちの仲間にしてもらいたいの」
「よし、いいぞ!!」
「ルフィ!!」
ナミがちょっと待ってよと彼を制した。
「サンジくんの知り合いなのはわかるけど、ビッグ・マム海賊団の一員なんでしょう? 本当に信じられるの?」
それが当然の反応だ。クロエはサンジと会ってから今までの自分の話をすることにした。
「……というわけで、私はサンジを助けたいの!」
「な、なんて素敵な純愛!!」
「私、感動しちゃった!」
ブルックは感嘆し、うさぎの子は目に涙を溜めていた。
「……サンジくん、前に『探してる女の子がいる』って言ってたけど、あんたのことだったのね」
「恋ってのは生き方も変えちまうんだな」
「わっはっは、こりゃいい話を聞いたわい!」
ライオンの男性が呟き、魚人の男性が豪快に笑う。ルフィは「にしし」と笑みを浮かべた。
「よし、決まりだな! お前、おれの仲間になってくれ!!」
「うん、一緒にサンジを助けましょ!」
サンジを助けるための仲間になるという意味で捉えたが、ナミが「違う違う」と手を振った。
「こいつが言ってる仲間ってのは、麦わらの一味になるってことよ!」
「えっ!?」
まさかの誘いに驚きを隠せない。
「い、いいの? 私弱いし、今まで寝てたから体力もないし、そんなに賢くもないし、この肥えた舌だけが取り柄だけど……!」
「すんげーネガティブだな!」
「いいんだ! サンジが選んだやつに悪ィ奴はいねェ!!」
そう言ってくれたルフィを、クロエは神様のように思った。まるで後光が差しているように見える。この人についていきたいと自然に思えた。ルフィは船長の器がある人だ。
「まだ少し時間があるわ、作戦を練り直しましょ! あんた、何かの能力とかあるの?」
「……私は一応、人を眠らせることが出来るわ。今のところの作戦を教えて!」
ルフィたちの作戦はこうだった。ルフィはプリンの打つ銃声を合図にウエディングケーキから出てくる。その混乱の間に「マザー」の写真立てを割る。そこにナミ、チョッパー、キャロット(うさぎの子)がヴィンスモーク家を助けに行く。同時にベッジたちが――やはりママと同盟を結んだ海賊らしい――ママにミサイルを撃つ。
「……マザーに目をつけたのはいいと思うけど、そんなに上手くいくかしら? 後のことを考えた方がいいわ」
「後のことって?」
「たとえば……兄弟でいちばん強いカタクリ兄さんと戦うことになったら、とか、ペロス兄さんのアメの能力で船がガチガチに固まっちゃったら、とか」
「そんときゃおれがぶっ飛ばせばいいんだ!!」
「でもペロス兄さんの能力は厄介よ。兄さんが気絶するか眠らないかしないと能力は解けない……その点は私が役に立てると思うわ!」
「おお! すげェな、お前〜〜」
「そのときはお願い!」
数時間後、クロエの予想は当たった。マザーの写真立ては割られたが、ミサイルはママに当たらなかった。シロシロの実の能力を持つベッジは、早急に城を築き上げ、ルフィたちを中に入れた。そしてシーザーという空を飛べる科学者がベッジを担ぎ、ヴィンスモーク家の援護のおかげでホールケーキアイランドの北西に逃げていった。
クロエはその様子をそっと木立から見守っていた。一緒に行動すれば、すぐに兄弟に見つかって捕まることは目に見えていた。だからクロエは、彼らが逃げたことを確認して、サニー号のある場所へ急いだ。
息はすぐに切れ、足はもつれて倒れそうだった。それでもクロエは走ることをやめなかった。ここでやめたら命懸けで頑張っている皆に顔向けできない。すでに飴まみれになった仲間がいるかもしれない。そう思うとこわくてたまらなくなって、足を前に動かすしかなかった。
クロエがたどりついたときには、すでにブルックとチョッパー、サニー号は飴で固まり、ルフィ、ナミ、ジンベエ(魚人の男性)、ペドロ(ライオンの男性)、キャロット(うさぎの子)、そしてカタクリ、ペロスペロー、ママまで集結していた。ルフィたちが応戦しながら、船を出航させようとしている。
クロエは最後の気力を振り絞り、サニー号へ走りながら、ペロスペローに向かって手をかざした。
「クロエ!?」
カタクリの声が聞こえたが、無視して船へ飛び乗る。
「クロエ〜!!!」
「これで出航できるわ! 早く!!」
チョッパーとブルックを覆っていた飴が溶けていく。それを見て安心し、体の力が抜けた。だん、と甲板に倒れ込む。薄れゆく意識の中で、皆の無事を願った。

はっと目が覚めると、板張りの医務室にいた。
――こんなんばっかだな、私。
ため息をつきながら身を起こす。机に向かって書き物をしていたチョッパーが、スツールを転がしてベッド脇にやってきた。
「具合は大丈夫か? ずっと気を失ったみたいに眠ってたんだぞ」
「大丈夫……みんなは無事?」
「あァ、クロエのおかげで船は出せたし、みんな無事だ! おれとブルックを、みんなを助けてくれてありがとう!!」
きらきらした目で見つめるものだから、クロエは照れて頷いた。
「なら、よかった……サンジは?」
「サンジも救出できたぞ!! サンジ、クロエのこと心配してたんだ」
ほっと安堵する。サンジも無事に救出できた。これで何の気がかりもない。
まずは自分を連れ出してくれた彼に、ありがとうと言わなければならない。すぐにベッドから降りて立ち上がる。
「……私、サンジと会ってくる!」
「いや、もう少し休んでた方がいいと思うぞ!」
「大丈夫!」とチョッパーを振り切り、ドアに近づく。足に力も入り、何ともなく歩けた。
ドアの取っ手を掴もうとしたところで、外から優しげな声が聞こえた。
「チョッパー、クロエの具合はどうだ?」
自分の名前が呼ばれたことに胸が高鳴る。バクバクと鳴り始めた心臓の音がうるさい。これからサンジと共に生活するにあたって、この心臓が静まることはあるのだろうか。
クロエはゆっくりとドアを開いた。そして――見開かれた青の瞳に微笑んだ。

20211211

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