男を掴むにはまず胃袋から、という格言がある。
これは文字通り、男を虜にするにはまず美味しい料理を作れという意味だ。この「男」を「女」に替えても通用すると、クロエは最近身をもって知った。
例えば、島内のレストラン。ルフィの嗅覚で入る店は確かに美味だが、船上で食べる料理とどうしても比べてしまう。彼の料理だったらもう少し肉を軟らかく煮る、味付けをこんな大まかにしない、という風に。
「一流コック」を名乗る彼は、その名にふさわしい料理を作る。初めて食べたときなど驚いたものだ。こんな美味しい料理を、無料で食べていいのだろうかと。船にある限られた食材で、栄養がしっかり考えられた美味しい料理を作る。それがどんなに難しいことか、パティシエであり料理も少しかじったことのあるクロエにはよくわかる。
どうして軽々とやってのけるのか。一度質問すると、彼は答えた。
「この船に乗る前は、海上レストランで働いてたんだ。そこでだいぶ学んだな」
彼の話によると、それは東の海にあり、シェフのもとで働いていたのだそうだ。シェフは怒声よりも先に足が出るタイプだったそうで、彼によれば「身体で覚え込まされた」らしい。なるほど、そんな修行をしていたら、嫌でもノウハウを学べる。
クロエは残念なことに、船の上で厳しい修行を受けてこなかったため、バターも生クリームもたっぷりと使ったお菓子しか作れない。だから今、彼の元で教わっている。最低限のバターで風味を出す方法などの、船上で必要な知識を。
これまた残念なことに(一流コックなのだから当然かもしれないが)、彼はデザートも作れる。それもとびきり美味の、今まで食べたことのないお菓子を。
クロエの胃袋は、もう完全にサンジに掴まれていた。彼の料理を食べることで満たされる幸福感。それを味わったが最後、彼の料理以外は受け付けなくなってしまう。一種の中毒だ。彼の料理は胃を、舌を、心を虜にした。
「……ウソップ」
故にクロエは悩んでいた。このままではサンジの料理を一生食べ続けなければ満足できなくなる。皆の夢が叶い、麦わら海賊団が解散したら、自分はどう生きていけばいいのか。サンジの料理を食べて生きることはできないのか。
この悩みを打ち明け、解決法を探るために、クロエはウソップのいる開発部屋を訪れた。
「なんだ、クロエ。深刻そうな顔して」
彼を選んだのは、彼が男子の中で一番常識人(だとクロエは思っている)なことと、普段からよく話すことからだった。
「サンジがらみでなんかあったのか?」
とんかちを打つ手を止め、真剣な表情でウソップが言う。実はウソップに相談するのは今回が初めてではなかった。前回は、サンジのデザートが、自分の作るものより数倍美味しいということを彼の前で嘆き、励まされたのだった。
「そう、だね」
ウソップの隣に座る。彼はとんかちを床に置き、聞く体勢に入ってくれた。
「どうした?」とそっと声をかけてくれる。
「……サンジの料理がね、美味しすぎるの」
「は?」
「私、サンジの料理を食べてないと、生きてけなくなっちゃったみたい」
「どうしよう、ウソップ」とすがるように彼を見る。ウソップは、ぽかんとしていた。それから「は? え?」と困惑したように首をひねった。
「……クロエさん、ちょっと抽象的すぎて何言ってるかわからねェんだが」
そうウソップは言うので、クロエはきちんと説明した。彼もようやく要領を得たようだった。
「こりゃ、難儀な悩みだなァ」
「でしょ、私じゃ解決できないから相談したの」
「全部、サンジの料理が美味しすぎるのがいけない」と握り拳を作ると、彼が「サンジがその言葉聞いたらすげェ喜ぶだろうな」と呟いた。
「クロエ、サンジの料理にあんまり感想言わねェだろ」
「……うん」
毎回毎回、「美味しい」と言うのは芸がない気がするし、かといって自分の貧相な語彙力では、それ以外の言葉が出てこない。だから、感想を求められたときだけ、「美味しい」と言うようにしている。
ウソップはそこには触れず、代わりにこう答えた。
「海賊団が解散しても、サンジの料理が食えるってのは、あれしかねェな」
「あれ?」
「結婚だよ、結婚」
ウソップは初めてこの言葉を口にしたような、そんな発音をした。
「結婚すりゃァ、サンジの料理食い放題だぞ! あいつは女に尽くす感じだし、毎日サンジの料理が食えるだろ」
「……確かに」
クロエはサンジがどちらかというと好きだった。それは彼の料理でだいぶ加点されているけれど、実際かっこいいし、強いし、優しい。とても魅力的な提案だ。
それでいこうと決めかけたとき、ウソップが呟いた。
「浮気はしそうだが」
「……確かに」
浮気されるのは嫌だ。
「あ」
突然ある考えが浮かんだ。立ち上がり、扉を開ける。
「おい、どうした?」
「考えが浮かんだの、ちょっとサンジに言ってみる!」
「聞いてくれてありがとう」と笑みを返すと、「あとでその考えとサンジの反応を教えてくれ」とウソップはひらりと手を振った。クロエのマイペースさを、彼は熟知していた。
クロエはダイニングへ急ぐ。すぐにでも試したかった。サンジは優しいから、きっと無下にはしないだろう。
サンジはダイニングテーブルで本を読んでいた。右手にはペンを持っているから、たぶんレシピ本を読んでいる。彼はこちらに気づき顔を上げた。眼鏡をかけている。珍しい姿にじっと見つめていると、サンジは首を傾げた。
「クロエちゃん、どうしたんだい? そんなにおれの顔見られたら、照れちゃうなァ」
そんなやりとりをしに来たのではないので、でれっとした顔のサンジに、クロエは頭を下げて単刀直入に言った。
「サンジの、弟子にしてください!」
「え?」
顔を上げれば、サンジの頭の上にはてなマークが浮かんでいる。クロエは説明した。サンジの料理の虜になったこと、もうサンジの料理なしでは生きていけないこと。
「だから、サンジに料理を学んで、サンジの料理を自分が再現すれば、一生食べていけるって思ったの」
途方もない考えだが、我ながらいい案だと、クロエは思っていた。だって、料理は初心者ではないし、何よりパティシエとして働いてきた。「食」には自信がある。
サンジは困惑したような、嬉しそうな、複雑な表情をしていた。
「クロエちゃんがそこまでおれの料理を好いてくれるのはクソ嬉しいし、おれはクロエちゃんに手取足取り教えられるなら、ぜんっぜんウェルカムだけど……おれと一生をともにすることは考えなかったのかい?」
「ともにするって、結婚するってこと?」
「もちろん!」とサンジはウインクする。キザな仕草が様になっているからすごい。
「一応考えてはみたんだけど、サンジは浮気するってウソップが結論を出して、やめたよ」
ウソップの名前を出したのは間違いだった。サンジは「あんの長っ鼻……!」と怒りに燃えていた。
「とにかく、私はサンジに弟子入りして、自分でサンジの作る料理を再現したいの。だめかな?」
「だめとは言わねェが……知っての通り、料理って再現が難しいとこがあるんだよ。だから、クロエちゃんは、クロエちゃんの味を極めてほしいかな」
――自分の味。
製菓と同じように、料理も人によって基準が違う。もちろん分量が決まっていたりもするが、例えば「混ぜる」ことや火の加減も、人によって基準がまちまちだ。忘れかけていたことを、今、サンジの言葉で思い出した。
「……そうだね。私、自分の味を追求してみるよ」
サンジの味を覚えて、より自分好みの味に変える。考えただけでわくわくする。製菓も料理も、この世にあるすべての物事も、上達への道に終わりなどない。
「私、サンジと出会えてよかった」
サンジと出会えたから、船上でのお菓子の作り方も学べたし、彼の料理に触れて、もっと料理を勉強したいと思えた。意図せず、言葉が口からこぼれる。
サンジは一瞬目を丸くした後、嬉しそうに微笑んだ。
「……おれも、クロエちゃんと出会えてよかったよ」
息を吸うように、いつもこちらが恥ずかしくなるような賛辞を言うのに、その声には照れくささが混ざっていて、クロエは笑った。
20210801
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これは文字通り、男を虜にするにはまず美味しい料理を作れという意味だ。この「男」を「女」に替えても通用すると、クロエは最近身をもって知った。
例えば、島内のレストラン。ルフィの嗅覚で入る店は確かに美味だが、船上で食べる料理とどうしても比べてしまう。彼の料理だったらもう少し肉を軟らかく煮る、味付けをこんな大まかにしない、という風に。
「一流コック」を名乗る彼は、その名にふさわしい料理を作る。初めて食べたときなど驚いたものだ。こんな美味しい料理を、無料で食べていいのだろうかと。船にある限られた食材で、栄養がしっかり考えられた美味しい料理を作る。それがどんなに難しいことか、パティシエであり料理も少しかじったことのあるクロエにはよくわかる。
どうして軽々とやってのけるのか。一度質問すると、彼は答えた。
「この船に乗る前は、海上レストランで働いてたんだ。そこでだいぶ学んだな」
彼の話によると、それは東の海にあり、シェフのもとで働いていたのだそうだ。シェフは怒声よりも先に足が出るタイプだったそうで、彼によれば「身体で覚え込まされた」らしい。なるほど、そんな修行をしていたら、嫌でもノウハウを学べる。
クロエは残念なことに、船の上で厳しい修行を受けてこなかったため、バターも生クリームもたっぷりと使ったお菓子しか作れない。だから今、彼の元で教わっている。最低限のバターで風味を出す方法などの、船上で必要な知識を。
これまた残念なことに(一流コックなのだから当然かもしれないが)、彼はデザートも作れる。それもとびきり美味の、今まで食べたことのないお菓子を。
クロエの胃袋は、もう完全にサンジに掴まれていた。彼の料理を食べることで満たされる幸福感。それを味わったが最後、彼の料理以外は受け付けなくなってしまう。一種の中毒だ。彼の料理は胃を、舌を、心を虜にした。
「……ウソップ」
故にクロエは悩んでいた。このままではサンジの料理を一生食べ続けなければ満足できなくなる。皆の夢が叶い、麦わら海賊団が解散したら、自分はどう生きていけばいいのか。サンジの料理を食べて生きることはできないのか。
この悩みを打ち明け、解決法を探るために、クロエはウソップのいる開発部屋を訪れた。
「なんだ、クロエ。深刻そうな顔して」
彼を選んだのは、彼が男子の中で一番常識人(だとクロエは思っている)なことと、普段からよく話すことからだった。
「サンジがらみでなんかあったのか?」
とんかちを打つ手を止め、真剣な表情でウソップが言う。実はウソップに相談するのは今回が初めてではなかった。前回は、サンジのデザートが、自分の作るものより数倍美味しいということを彼の前で嘆き、励まされたのだった。
「そう、だね」
ウソップの隣に座る。彼はとんかちを床に置き、聞く体勢に入ってくれた。
「どうした?」とそっと声をかけてくれる。
「……サンジの料理がね、美味しすぎるの」
「は?」
「私、サンジの料理を食べてないと、生きてけなくなっちゃったみたい」
「どうしよう、ウソップ」とすがるように彼を見る。ウソップは、ぽかんとしていた。それから「は? え?」と困惑したように首をひねった。
「……クロエさん、ちょっと抽象的すぎて何言ってるかわからねェんだが」
そうウソップは言うので、クロエはきちんと説明した。彼もようやく要領を得たようだった。
「こりゃ、難儀な悩みだなァ」
「でしょ、私じゃ解決できないから相談したの」
「全部、サンジの料理が美味しすぎるのがいけない」と握り拳を作ると、彼が「サンジがその言葉聞いたらすげェ喜ぶだろうな」と呟いた。
「クロエ、サンジの料理にあんまり感想言わねェだろ」
「……うん」
毎回毎回、「美味しい」と言うのは芸がない気がするし、かといって自分の貧相な語彙力では、それ以外の言葉が出てこない。だから、感想を求められたときだけ、「美味しい」と言うようにしている。
ウソップはそこには触れず、代わりにこう答えた。
「海賊団が解散しても、サンジの料理が食えるってのは、あれしかねェな」
「あれ?」
「結婚だよ、結婚」
ウソップは初めてこの言葉を口にしたような、そんな発音をした。
「結婚すりゃァ、サンジの料理食い放題だぞ! あいつは女に尽くす感じだし、毎日サンジの料理が食えるだろ」
「……確かに」
クロエはサンジがどちらかというと好きだった。それは彼の料理でだいぶ加点されているけれど、実際かっこいいし、強いし、優しい。とても魅力的な提案だ。
それでいこうと決めかけたとき、ウソップが呟いた。
「浮気はしそうだが」
「……確かに」
浮気されるのは嫌だ。
「あ」
突然ある考えが浮かんだ。立ち上がり、扉を開ける。
「おい、どうした?」
「考えが浮かんだの、ちょっとサンジに言ってみる!」
「聞いてくれてありがとう」と笑みを返すと、「あとでその考えとサンジの反応を教えてくれ」とウソップはひらりと手を振った。クロエのマイペースさを、彼は熟知していた。
クロエはダイニングへ急ぐ。すぐにでも試したかった。サンジは優しいから、きっと無下にはしないだろう。
サンジはダイニングテーブルで本を読んでいた。右手にはペンを持っているから、たぶんレシピ本を読んでいる。彼はこちらに気づき顔を上げた。眼鏡をかけている。珍しい姿にじっと見つめていると、サンジは首を傾げた。
「クロエちゃん、どうしたんだい? そんなにおれの顔見られたら、照れちゃうなァ」
そんなやりとりをしに来たのではないので、でれっとした顔のサンジに、クロエは頭を下げて単刀直入に言った。
「サンジの、弟子にしてください!」
「え?」
顔を上げれば、サンジの頭の上にはてなマークが浮かんでいる。クロエは説明した。サンジの料理の虜になったこと、もうサンジの料理なしでは生きていけないこと。
「だから、サンジに料理を学んで、サンジの料理を自分が再現すれば、一生食べていけるって思ったの」
途方もない考えだが、我ながらいい案だと、クロエは思っていた。だって、料理は初心者ではないし、何よりパティシエとして働いてきた。「食」には自信がある。
サンジは困惑したような、嬉しそうな、複雑な表情をしていた。
「クロエちゃんがそこまでおれの料理を好いてくれるのはクソ嬉しいし、おれはクロエちゃんに手取足取り教えられるなら、ぜんっぜんウェルカムだけど……おれと一生をともにすることは考えなかったのかい?」
「ともにするって、結婚するってこと?」
「もちろん!」とサンジはウインクする。キザな仕草が様になっているからすごい。
「一応考えてはみたんだけど、サンジは浮気するってウソップが結論を出して、やめたよ」
ウソップの名前を出したのは間違いだった。サンジは「あんの長っ鼻……!」と怒りに燃えていた。
「とにかく、私はサンジに弟子入りして、自分でサンジの作る料理を再現したいの。だめかな?」
「だめとは言わねェが……知っての通り、料理って再現が難しいとこがあるんだよ。だから、クロエちゃんは、クロエちゃんの味を極めてほしいかな」
――自分の味。
製菓と同じように、料理も人によって基準が違う。もちろん分量が決まっていたりもするが、例えば「混ぜる」ことや火の加減も、人によって基準がまちまちだ。忘れかけていたことを、今、サンジの言葉で思い出した。
「……そうだね。私、自分の味を追求してみるよ」
サンジの味を覚えて、より自分好みの味に変える。考えただけでわくわくする。製菓も料理も、この世にあるすべての物事も、上達への道に終わりなどない。
「私、サンジと出会えてよかった」
サンジと出会えたから、船上でのお菓子の作り方も学べたし、彼の料理に触れて、もっと料理を勉強したいと思えた。意図せず、言葉が口からこぼれる。
サンジは一瞬目を丸くした後、嬉しそうに微笑んだ。
「……おれも、クロエちゃんと出会えてよかったよ」
息を吸うように、いつもこちらが恥ずかしくなるような賛辞を言うのに、その声には照れくささが混ざっていて、クロエは笑った。
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